玄察とは「渡邊玄察」の事で熊本県上益城郡甲佐町早川に寛永九壬申(みずのえさる)年(1632年)2月11日に生まれる。
此年、玄察は鍋坊丸と呼ばれていました。
加藤肥後守忠廣公出羽之國へ御流罪になった年でもあります。
13歳までの事は、父である渡邊吉政などに尋ね書き取り、それ以降は自分自身見聞きして書き出しており、70歳まで下記のようなものを書いております。写真の早川厳島神社の神職でもありました。重複した箇所も多々あるようです。
【渡邊玄察物語】
渡邊玄察の手記で、「拾集昔語三巻」 「拾集物語二巻」、 「拾集記一巻」、 「渡邊玄察日記一巻」、 「渡邊先祖以来今事記一巻」、 「早川故事一巻」からなる。
肥後文献叢書第四巻
【拾集昔語】
渡邊玄察物語の一部で、渡邊玄察が元禄8年(1695年)64歳の時安藝椽彦之進の両名に与えた記録で、戦国時代以降阿蘇家を中心とした、肥後の治乱記である。
【拾集物語】
本書は巻三巻五だけで、「巻三」は拾集昔語巻二後半から巻三前半迄の記事と同様で、「拾集昔語」は阿蘇家を主として書いてある。
肥後文献叢書第四巻
【拾集記】
細川忠利公光尚公綱利公に関する記事で、忠利公に関しては御入国当時の事、幽斎公三斎公の歌及島原一揆の記事等26ケ条書いてある。
肥後文献叢書第四巻
【渡邊玄察日記】
一名拾集物語とも云う。渡邊玄察出生の寛永9年(1632年)から元禄14年(1701年)迄70年間の日記でる。74ケ条の記事がある。
肥後文献叢書第四巻
【早川故事】
正徳3年(1713年)11月渡邊玄察が島無能と云う人に書いて送ったものである。
肥後文献献叢書第四巻
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書き起こしたものが、載っております。
「早川・渡邊」に関するものを書き起こしたのを下記に記します。(順不同)