【拾集物語五】
    目 次
一 益城郡堅志田赤峰尾之古城昔主西金吾殿事

一 同郡田代之古城昔主田代宗傳之事
    付 七越瀧之事

一 同郡木山古城前主備後守入道紹宅之事
    付 甲佐宮神宮寺昔住豪淳法印之事
    同郡下陣津守り古城少書出侯事

一 往昔源之八郎爲朝推量咄シ之事

一 前古鬼在之岩屋岩穴石像不動之事

一 佛神冥罸之事色々

      益城郡堅志田赤峰尾(セダオ)古城前主西金吾殿事
一 以前彼城主を西左衛門尉金吾と申侯天正年中(1573~1591)落去頃は北左衛門と申  したる由に侯落去於于今彼城も城之山形斗にて野山と成果侯彼城は前々西氏令斷絶侯  へは北氏北氏無氏之砌は西氏兩氏より跡城主に被相成侯樣に申侯

一 西金吾殿は天狗之弟子にて神道術法者之由申傅へ侯又一説には天法を宜く行得被召侯  共語傅侯永正之年中(1504~1520)に専一妙將之由語傅へ侯彼金吾殿は元來阿蘇御  一家にて金吾公之末孫阿蘇神主殿へ當分一老二老にて被罷有侯坂梨二郎右衛門同平右  衛門などの先祖にて侯

一 永正年中(1504~1520)に右之金吾同前に名高き文武兼達之弓取有之侯由隈部忠直と申たる由に侯儒佛神道風雅之道諸事分明之武士にて御座候ひたると申傅侯上京被有五山之御住/\に面謁被召被令問答侯何れ僧侶衆手を取舌をまかれ侯などゝ語傅侯隈本藤崎宮之名鐘之銘文彼忠直自作同所連歌所初而之建立も忠直被仕置侯由に侯然處に忠直兼々被申侯由は益城堅志田西金吾とて鬼神にてはよもあらじかし令一戦侯而見侯半とて赤峰尾に發向被召甲佐舟津山之峠せだのをより半里手前まかどゝいふ野に本陣を被取赤峰の尾に可被取懸と令處に金吾被申侯は忠直に物見せてくれ侯はんとて法を一座修業被召侯へは堅志田は不及申に近里迄黑闇に成侯而夜白不分明に侯左候處に忠直之軍士共各同士戰サ相始右往左往に令合戦令切死剰大將忠直を同士討に討申侯然者忠直も唯人にては無之侯哉忠直之首空死なく隈部に首を持歸侯に親父に被逢侯而目を塞ぎ臨終被召侯と語傅侯其頃迄は出家も在家も不思議成事共有之由に侯扨又其後菊池之者令上京南都見物に參侯處に春日之邊に而忠直に行逢侯に付畏謹而殿は正く御他界被成侯が是はいかゞと申侯へは忠直は春日之樣に歸り侯といへと仰侯而書消す樣にうせられ侯と申侯扨右之通故赤峰の尾より出城合戦と申事もなく城に可取懸軍人もなく併あしこ爰に軍士罷有侯故金吾殿之領内下原と申村忠直之陳所近所にて彼村之名主百姓從金吾殿指圖は無之侯へ共弓おつとりきふう矢をはげまかど下原とのあひに小ぜこ有之侯にせこ向ふにむらがり罷有侯隈部の野伏共を思ふさまに射除侯其以後金吾御賞被有其せこ田を其名主に被下侯當分迄も彼せこ田のさげなをきふう田と于今申侯

一 赤峰尾城下に馬場と申村有之侯其村にかたひらと云名主有之侯彼名主次郎兵衛と申侯彼二郎兵衛高祖父金吾殿之氣入之小者にて侯ひたる由に侯彼小者を方々被召連風雲上あなたこなたと被召居り侯由に侯彼小者九十迄令存命罷在仁人に咄居侯を聞侯孫々共尤自老祖父なども慥申傅へ語被居侯金吾殿何方へも右之小者被召連侯時には東西南北何方へ成共むけと仰侯而おのれをつれ侯事心氣ぞと仰侯而侯方に向侯と其まゝ正氣をうしない夜白不分明に罷成夢之樣に成り侯て時々足のうらに木之葉しか/\致侯を覺侯事共有之侯左候而ねふり目さめたるやうに侯而諸方見侯に終に不令見聞侯處京都鎌倉熊野愛宕山吉野又は肥前之高來温泉山之樣成山々又は珍敷所々へ御出侯に常に供申居侯と右之小者老身咄申侯由に侯日本國中山々寺々見不申所は無之侯と咄居侯由祖父など外老身咄申侯を慥(たしか)に亡父聞侯などゝ被申聞侯

一 右之小者老身稠布不思議を見侯とて咄申たると聞傅へ侯右之通にて供奉仕侯へは熊野山にて御座候に金吾殿大木之杉を引たをめこしをかけて御座候に熊野道者共各其杉にこしをかけ罷有侯に金吾殿被仰侯は此杉は今々をき上るべく侯間皆々のき侯へと仰侯へは各申たる由は是なる山伏之被申事は從前々はひたをれたる杉の今々いかゞをき可申哉と一同にとつと笑侯故金吾殿仰侯は案内はいふたり扨は左候かとて御たち被成侯へは其杉はねをき申侯故こしかけ居たる人々四角八方へはねちらされ落着相知不申侯を慥見申侯とをり侯由にて此一儀世間に令流布侯咄聞彼小者老身が咄しより起りたる咄にても遠近此事を金吾殿杉咄しと申傅侯

一 堅志田在々之産神は阿蘇甲佐勧請之明神若宮明神と申て此神前之馬場以前は同村内に於于今舊跡有之侯此馬場末之左之林之中に大石たてゝ有之侯此大石は金吾殿御盛生之砌赤峰尾山より堅志田宮下之若者共後年之覺に明神之馬場に立置べきとて引下しばゝにたて可申と各仕侯へ共分過て大石故立得不申侯之處に金吾殿あしだを御はき御立覽侯が以後之覺へにたてゝをき度とおのれ共願侯はきどくに侯しからばおれらが後年之爲にたてゝ見せ置べくと仰侯て眞中をいだき御手まわらずなりにかゞめつきにゑい聲をいださせられ地中につきいれなされ侯に半分は地上にたつて有之侯ふしぎと于今見る人舌をまき侯彼大石當分まで有之侯

一 金吾殿薩摩島津殿御代々之菩提所なる福正寺一見に金吾殿御出被有侯に右之小者被召連福正寺に立入被成侯て住持はと御尋被成侯へは留守にて侯と申侯然は番僧共會勺心に叶はれず侯哉不思議可被見(セ)ため侯哉寺を御一見侯て寺を御立出侯時柱をゑひとのたまひて御ひき侯へは寺令動揺くわら/\とひしめき柱之石口悉く地にをち侯に付寺内周章大驚動にて侯に跡見もなく御歸り之處に跡より住持とおぼしき中老僧衣をふみかゝへ追ふて被參御事は何方之御仁にて侯哉福正寺御一見之爲に御來山にて御座候者少々間被成御入寺侯拙僧は住持にて他出仕たゞ今罷歸侯に御出と承侯是非共又御立入可被成侯と懇に手を下げ仰侯へは扨は侯と仰侯て住持と打連寺に御入侯に右之柱に先刻之通に手をかけをし上られ侯へはぶる/\と寺ふるひ侯て本之石口に前々之通に居り侯由に侯慥右之小者老身見申侯とはなしをり侯由に侯

一 金吾殿常々之修業所成庭前より三四人程にて持侯はん石を二つせだのを山之峠に大一椎木有之に其木之俣に右之行法所之庭前より右之二つ御なげうちはさまれ侯て被仰置侯は後年當國改易/\に此石落べく爲其證如此に被成置侯と御遺言之由語傅へ申侯處に天正年中阿蘇家迄にも不限一同に國代落去之前年落石侯を祖父など慥に見置侯由に然者御先代忠廣樣御落去前年に一つ相殘侯右之石をち申たるを老父慥見申侯に其翌年忠廣樣御落去にて不思議に存侯と申居侯二つ迄にて相殘申石無之侯故右之代と御座侯て石二つなげこみ被召置侯はんと萬慶/\
一 金吾殿御自身影を自作に木像にきざみ堅志田圍ひと云所へ梅林院と申舊跡に於于今御座候金吾殿自作之木像は囘禄にて御焼失にて侯慶長年中之末頃に中山に幡磨と申野佛匠有之侯ひたる者自作之像を見覺罷有侯のが造侯影にて侯然者金吾御他界之菩提所にて金吾殿御院號を梅林院と申侯其故に彼影堂を梅林院と申なり則赤峰尾城下圍ひと申所にて侯

一 金吾殿はせだのを山にて一つ貝をふき御うせなされ侯と申傳へ侯此段實正之證有之侯

一 西馬場村正法寺と申禪寺有之侯大慈寺末寺にて侯近年迄無寺無住之處に西念と申僧彼舊跡に來寺被召再建にて今は結構成霊地と相成侯彼古寺に位牌有之侯に其位牌之霊文に
    登霞  梅林玉公 大神祇
如此に御座候かすみにのぼると置字に有之侯上は雲にのりかすみにのぼり御うせ被成侯は實正にて可有之侯

一 彼正法寺以前者大寺にても侯はん扨又以前之昔住再彼身之西念にても侯哉彼西念正法寺昔寺之跡を糺し小草堂を造本尊古作之観音被致入佛侯はんとて舊跡之堂庵地領に被成居侯を被引平侯處に大土器を三枚被堀出侯かはらのくちに正と云字やき付たるをほり出し又法と云字有之侯を又寺と侯を一枚ほりいだされ侯然者のきがはらに正法寺/\とみなやき付けたる三枚彼西念被堀出侯當分慥に彼寺に有之侯を老身正しく見申侯ふしぎにて侯

一 堅志田内之在々に善惡事可有之とては其家御屋敷中に吹貝之音必有之侯是は右之通金吾殿天狗之御弟子天法を行得被有侯古主之告げと申傳侯
   田代宗傳并七越瀧通夜咄之事

一 益城郡木倉手永之内田代に古城有之侯天正之年中頃之城主を宗傳と申侯彼宗傳田代在々之其砌領主にて侯中/\武勇之譽れ有之たる弓取にて侯御舟甲斐宗運幕下にて度々宗運に令供陣度々名を取申たる仁にて侯豊田響之原にても桑のせこにて他士をまし得す手共計にて五十四人討取於于今田代宗傳くわのせこかつせんと申傳侯彼宗傳は實正之心を得たる武士と阿蘇家にて令感譽侯分ケは第一此咄にて侯無類之大酒之由の侯然者甲斐宗運は阿蘇之大老にて侯故に正月朔日に阿蘇大宮司殿へ阿蘇家之侍御慶禮に参上侯て翌二日に宗運へ年禮相遂侯に彼宗傳以之外致銘酊宗運へ一禮各列座之處に甲斐伊勢名代に肴を各へ進侯所へはい寄り伊勢之耳之根を宗傳手之腹にてひたとうたれ侯列座の各あゝと存侯にちい刀を伊勢抜くまねいたし宗傳をさし殺すまねをしにこ/\と打笑被罷在候就夫無事にて相通り侯折々宗傳大酒故前後不覺にて左候事侯故伊勢も被致堪忍宗運も御通し別條無之各退出歸宅にて侯に田代之嫡子被罷歸侯て父之入道に被申侯は扨々是非も無之存侯は老父御事年之始に死人同前に御成侯事口惜存侯と申侯へは何事侯かと入道被申侯に老父之伊勢への仕方一々咄被申侯へは宗傳被相聞侯て被申侯は寒朝故澤山に酒をのみ酔侯故不覺侯嘸々自分か是非なふ存侯はん然れ共令自害侯者氣亂侯扨は伊勢とさし違へ死に侯はゞ理不盡とかくいたすべき樣無之侯然上は今日ゟ以後酒をのむ間敷人々可申にもあれ程之大酒老身にて侯へ共酔侯て不覺に伊勢に慮外を致され面目なさに下戸に被相成侯とうたわれて成共見よふぞとてそれより臨終頃廿年ほど一滴もさけをのみ不被申臨終被致侯と申侯

一 七越瀧巍々敷見物所にて瀧之上に七越瀧尾權現と申社御座候先年 御當太守樣被遊 御覽彼社被遊御修建侯彼瀧尾之社に致通夜侯人無之由申侯愚老祖父吉次(軍兵衛)成程男ら敷仁にて廿有余之頃被令通夜侯に夜半前にごと/\杖をならし座頭參侯吉次存侯は座頭夜半參社侯と存ふら/\致侯に座頭罷歸侯由それより又ふら/\ねふり侯内に吉次をひつかゝへかや野之中に召置侯ねふりさめ侯へは左之通に付行法者にて侯故吉次法を一座野原見令修侯へは右之社へ不覺ひつかゝへすゑ置侯と語り居被申侯と亡父慥に被申聞侯兼々吉次被申侯ひたるは座頭は山ぐものばけたるにて侯はん少々之者は通夜を致し得まじく侯と語笑被致をり侯と亡父被申聞侯

一 彼宗傳之嫡子か次男かいづれ兩人に一人國代落去後に筑前に令逐電其孫は秋月に大知行を取當分被罷有侯阿蘇惟善公へ進上書にて書状進上被有をり侯此旨實正承侯
  同郡木山古城前々之城主備後守惟久入道紹宅事附豪淳大僧都法印事               

一 同郡木崎(山か)村之古城主前々木山備後守惟久と申侯被致入道紹宅と申たる由に侯彼備後甲斐宗運嫡子始めは拾員改名宗立と申侯彼宗立之聟宗運孫聟にて侯彼紹宅は風雅之道に達仁人にて花車なる名人之由申傳侯彼紹宅發句千句記紹宅自筆のを持居たるを先年阿蘇友隆公七越瀧見物に御出之砌私宅へ御一宿之時分御見上に右之千句記進上申侯後千句記に等與/\と御座候は甲斐宗運之家老栗林伊賀入道號等與と申侯紹宅と右之道を切たり突たり迄にてはなくきやしやな事と前々を存侯
彼紹宅上京被致侯に京着即日之晩其砌之花之本紹巴天正初頃之由北野にて笠着之附句ばいかひ被召侯旨紹宅風聞即晩北野へ被參侯に紹巴附ケ句に
  また七たひのわかれおそする(こそすれか令失念侯)
即座不取敢紹宅
  八重櫻一重はさきにちりそめて  と附ケ被申侯へは紹巴あつと被感何方の仁かと仰侯紹宅田舎之者にて侯田舎は何國侯ぞと御座候に鎮西方之者にて侯と被申侯へは扨は肥後木山の紹宅と申仁にては無之侯哉と仰にさん侯と申され侯へは手を引上られ對座にて知人に被相成侯由に侯

一 紹宅木山城主之砌飯田山に花盛之時分參詣之處に山詣之仁人櫻之花を枝共に手々々手折侯を風覽侯て
  風よりもはけしき人の心にて
    手ことに折しはなの枝かな
如此に詠しられ侯を其頃賞翫申たると語傅侯

一 其以後紹巴法眼にて紹宅歌をよみならひうたのとりやりめされ九州の歌人にて御座候ひたると申つたへ侯

一 紹宅以後國侍亡絶從太閤樣被仰付侯にも法眼口達に而紹宅は被成御免都へも被召上侯と申ならはし侯其砌法眼之御望か又は自餘之方被仰侯哉つくし戀敷おもはれ侯はんに頓作をと御座候に紹宅如此にあひさつ被致侯と古老咄申侯
  うつ蝉の羽よりもかろき身を持て
    つくしよしとはおもはさりけり      

一 宰府之天神末社に彼紹宅を可被召加との御神詫ましますに付寺社五十餘人一同にいか樣成分ヶにて紹宅奉遂(と) 御神慮に侯哉と敬白各被致侯へば重ねて御神詫に木山紹宅が 
          人をおくりてかへる夕暮れ  と云附ヶ句に
            身をいつのけふりのために殘すらん  と附ヶたる句被爲叶  御神慮侯と
の御神答故に御末社に崇初申侯由其上神號を煙之宮と祝ひ侯へとの神勅にて煙之宮といはれられ侯と申つたへ侯

一 前々木山備後守惟久盛城主之砌彼古城下より當分泉出侯水前々今分通にて城内すさまじく童女驚怖にて城下に安養寺と申天台宗之寺有之侯彼寺は城主之祈禱寺にて侯前々は大寺にて彼寺之住持甲佐宮之神宮寺住持豪淳法印と申智僧かけ住持被召侯然處に惟久御賴願侯は彼城下之出水を豪淳に御加持被有侯て御とめ可給侯と御重賴侯故法印被申侯はヶ樣の祈念は難成物にて侯へ共致加持見申侯はんとて泉水(ワク)本に檀を粧り一七日行法加持被召侯へば七日目は彼泉水必止と相止り侯其頃不思議千萬妙事と取沙汰いたしたると申侯然は彼水泉(ワ)き出侯事は右之通に侯へ共城之地底令動揺鳴動侯に付城在之各令驚怖侯就夫惟久又豪淳に再賴被召侯は御祈念之故に彼出水如此にて難有致感譽侯處に彼出水城之地底へ令動揺女童部令驚怖乍無理前々之通に出水侯樣に被祈直可給侯と重賴之由に侯法印承之左樣之非道之儀ならざる物にて侯其譯は諸天善神天龍八部に斷を申新に如此申かなへ侯水止之儀又前々ひとしくとは不被申侯貴殿に如此に被仰付給れと漸斷を申かなへ侯て斷り申かなへ侯へとももはや斷は不入侯前之通にと申侯て通り可申哉以同前之事にて扨も是は難題成事侯一命を捨て祈念可致侯と仰侯て又水之出本に右之通に檀をたて一七日祈禱被召侯に七日目に如前々水泉出當分迄も其通りに侯其祈禱之檀上に七寸五分の小さすがを置御加持被召侯處願之成就之上にて法印令蘇生侯と仰侯由申傳侯惟久も合爪被有敬白拜をなし法印を尊崇被有侯と申侯此水前々之通に不泉出は自害と思ひ定めて渡り侯に先は目出度し/\と法印のたまふと語りつたへて侯七寸餘九寸餘の小さすが/\は前々如此之入具に古昔之名鍛冶作り侯て令寄進侯の申傳へ侯は實正にて侯法印檀上に七寸五分置被召侯は此法にて不令水止侯はゞ法印が失命と御座候爲に被召たる小さすがなればにて侯

一 彼豪淳は天正初頃(天正:1573~1592)には阿蘇山熊本護國寺北目のあいら山松橋の談儀所川尻の談儀所木山の安養寺尤甲佐神宮寺右之寺院をかけ持/\に被召侯て月に三四五日づゝ法釋被召居侯智德之名僧にて被成御座たると申傳侯甲佐明神御在之村宮内にても然も甲佐神宮寺本住之豪淳にて御座候然處に彼宮内がけ下之村にて豪淳御在寺之砌天正之初頃大地震動致侯て村上山半腹引わり龍(ツ)ぐへ致し可申と各申侯故法印仰侯はたつぐへを三百年はとめて可置侯其以後は無覺束侯と仰侯て石に字を書社僧を引連がけに上て御祈念被有侯へば動揺も治りたつも上り不申由に侯然ば其龍豪淳之御在寺邊之小池に被召寄被置侯哉神宮寺の寺地に少斗之水湛小池侯に雨降可申とて其小池の地底より枇杷之樣なる大尾をさし出し/\致侯故彼村之老若人は天氣日和之善惡は是にて知侯と申傳侯彼がけ山に黑雲たなびき風雲さう/\しきはまきれもなきたつぐへせんとの事にて渡り侯とめて置べしと仰侯て右之通之由に侯

一 甲斐宗運豪淳を兼々へして仰侯はぬる聖道げにふかひ事は渡る間敷く/\と惡口らしく仰をり侯由之處に家頼之若輩共入道に申侯は豪淳は犬同前に侯其譯は不浄成所へ飯つぶ御座候をひろい喰被申侯と申侯へば眉をひそめ宗運仰侯は扨々豪淳は末世之釋迦にて渡り侯を自老は令謗言をり侯いかひつみを作り侯手ごしおこせ甲佐法印江(え)參侯てざんきざんげせんとて手與にて甲佐神宮寺へ入御侯へば法印御申侯は扨々御船殿は不思議成る御出かなと馳走之處に宗運仰侯は自老は法印へ改悔之爲に參侯其譯は法印智學之僧と仁人申侯故ぬる聖道左は有之間敷侯とへしをり申侯事扨も誤りにて侯法印は末世今時之釋迦にてましますを此中令惡口罪を作りて渡り侯眞平御免侯へとて被拜せ侯へば豪淳仰侯は扨々無勿體事を承侯拙僧は御入道老をはぢ侯て一句之法文を説き侯にも御入道にはぢおぢ致し申に付あやまり無之侯などゝ御座候而互に珍語之儀共の由に侯前々はこたつとては無之火桶迄之由に侯火桶と云は當分の火箱之事之由に侯宗運仰侯は法印は火をけ有之侯哉と侯處法印然々之火をけ持不申老身令迷惑侯と御座候へば入道が秘藏之桐火をけを進申べくとあいさつにて御歸城之由に侯然者甲斐殿御失念にて  火桶不被進候に法印頓作之狂歌を宗運公へ被進侯
    きり/\と火をけたもらんやくそくに
        たれがひをいれをけといふらん
此狂歌宗運詠覽被有侯て實に令失念侯伊勢持參侯へとて火桶を一之家老に持せ被進候と亡父折々被申咄侯

一 彼法印は權者にて御座候と其頃申たる段は尤之事と存侯豪淳之墓所は甲佐馬場末の山邊に有之侯森之中に有之侯法華千部之石塔之碑文に顯密傳燈之沙門大僧都豪淳と有之侯此石文を乍不存令拜見侯に和漢合運圖(図)年代記に最澄に顯密傳燈之號を賜ふ空海に顯密傳燈號を賜ふと御座候を令拜見此田舎之端に如此之石文殊大僧都之位階彼是前後無双之御出家と存侯右之段々  御勅許之名僧にて被成御座たると驚感仕侯

一 右法印の墓所森下に有之侯彼はか所へ右法印從高野山土を被取寄はか所へまかれ侯と申傳侯左も侯はん熊本古阿彌陀寺當りの野邊を前々より高野べたと申ならはし侯此故事は行基僧正高野之土を彼野邊にまかれ侯故彼の野邊に死骸をおくり侯へば令得道申傳侯扨は豪淳右之通左も侯はん

一 百餘年以前迄は能化の出家も御座候ひたると難有存侯は彼豪淳甲佐にては社僧故人をおくり不浄は禁制をも被召侯はんすれ共不浄不苦(ル)砌にてこそ侯はん彼豪淳御船宗運之家頼林氏何某が妻臨終侯を彼豪淳導師被召侯にくわしやおろし侯を法印黑雲をきつとにら見居被召侯へば雲そびき去侯と申侯然ば右葬禮之日邊田見東禪寺之住持洞春和尚庭前から小僧共/\と被召侯に皆參侯へばあのはか所へくわしやがおろすを見よ/\と仰侯に小僧共見申侯へ共目に懸り不申侯故御住持は亂氣に御成り侯哉と申たるに其後豪淳に御對顔之砌洞春仰侯は折々法印には邪魔か見江(え)侯と仰侯へば釋迦院一和尚遷化にも野僧令燒香侯に見え申侯故手杖とらせ侯へば迯(にげ)申侯林妻にも左樣侯故にらまへ申侯へば迯申侯と御咄に氣遣致し居侯小僧共舌をまき扨々方丈樣も豪淳がにらまれ侯故しれ者が迯ぞ/\と仰侯て高笑被成侯が扨々不思儀なる御出家達と小僧共其頃見聞之仁人感譽仕侯と申傳侯
    同下陣津守古城少々書出侯事

一 同郡下陣之古城は光永中務と申仁城主成り之砌令落去侯彼古城も前々阿蘇殿之御幕下之城にて侯光永氏は阿蘇殿之家老臣にて侯健宮は四ヶ社之神領組合之故に健宮津守兩城主被斷絶侯へば双方何れより城主の連續にて侯中書之子か孫か雅樂と申侯て有之侯令落髪露庵と申侯當國一の能書にて侯
    源八郎爲朝九州在國就中肥後國之居住實否不分明併推量咄申傳へ侯色々之事

一 六條判官爲義之八男八郎殿爲朝鎮西に御下九國を手に入鎮西之八郎殿と申たると申傳侯保元記に新院本院御位を被爲諍爲義公九州へ追下被置侯八郎を被召上侯はゞ一方之御用にも相立可申といづれの院樣にか被仰上侯故被爲召上義朝之乍御舎弟兄御親子合戰之處に義朝御敗北以後又九州へ爲朝御下り侯哉以後九州田之根より被尋出とか御座候保元平治以後爲朝配流之樣にも見江(え)侯由いづれ不分明に侯阿蘇にも八郎の住城八郎殿之墓所とて有之侯木原山にも正く爲朝之住城にて侯ひたると申古城有之侯山出大武明神社之上山も八郎殿の御在城と申ならはし侯定而山出御在城は爪山古城にても侯ひたるか山出上原を陳原と申上は左もや彼山出に八町と云村有ければ八郎殿射場之所當分村にいふなるや不分明に侯爲朝九州江(え)被追下侯跡をしたひ源家普代相傳臣下之仁人にても侯哉渡邊判官綱久坂田丹後金任平井權正重定武邊行恒彼等五人彼等を引率し九州を随へ肥後之國内そこ爰に城を築き被置侯を彼も是も爲朝の城を古城と申にや不分明に侯木原の古城は要害廣大にして嘸(さぞ)や八郎殿之城と下々共も見申侯前々彼古城は上々も被遊御密覽侯と申ならはし侯以後都より被召上侯砌は山出に御住城にて御座候はん哉以後滿足賀事之御下向とては無之御配流被爲誅侯げに御座候へば歸城は無之侯故山出城に八郎殿内御座候に爲朝御上京之砌目出度下向迄は渡邊氏親實之臣下故に内方に被仰付置上京も被成侯哉以後無下向にて渡邊氏に被育御座候ひつれ共昔忍敷せんかたなう思召水淵に身をなげたまひてむなしく御成り侯か身をしづめたまふ淵は多分津志田ひないがみにては有之間敷侯哉八郎殿山出城下之者共扨々いたはしき事とて其七月彼淵端に念佛踊かね太鼓を打源氏の白旗とて白布を竹にゆひ付ヶ吊ひさゝ踊仕侯てそれより若き者共以後は引例に山出よりひないがみに盆毎/\に踊るにては有之間敷哉ひないがみと云故事はひな人のかみ池といふにては侯まじきや多分か樣もやと物に似たる書出し樣に侯へ共存寄之推參を書出し侯彼爪山いただきより方々見侯に遠近に目之障り無之爪山下のさこざこ東南は見事堀にても侯はん哉陳原は家頼/\の居屋敷にても侯哉又は山出大武明神之神號をもたゞならずいづれより八郎殿御上京も侯はんと存侯山出に渡邊氏百姓成にても罷有侯

一 又は木原必定八郎殿之住城にても侯はん彼の六殿社京都又は南良大工之所建とも申侯又平小松重盛公之御建立とも申侯彼六殿源家鎭守の神明にて爲朝御建立か不分明併彼社邊に城を築かれ侯上は八郎殿の被築侯はんかとも被存侯

一 下益城陳内村は陳之内と書侯彼村に以外成大石に柱をたて侯穴を彫りたる石有之侯数多田原之中に有之侯黑石ひとしき土器山林に多く侯彼かわら硯にして能侯と陳内村人まゝ申侯彼陳内も爲朝公御座候か又は御一家衆御在住も被有侯哉語傅も無之不分明に侯然共右之通に大石に柱を彫居へたて侯事凡人不成(ル)事に侯かはら今迄われて有之も見事に侯は不大形事に侯筑前宰府四王寺之舊跡に有之類之柱彫穴大石にて侯陳内と申からは寺院之舊跡にては有之間敷侯正く家宅所と見請侯殊祇薗社も有之侯都人之舊跡紛無之哉と存侯都は過半祇薗之産子之上なればと存侯彼八郎殿在住の地にて無之侯はゞいかさまに都の貴人高人の御住跡にやと不分明に侯時去り年月過ぎ侯へば語り傳の證もなく侯

一 同郡中山手永萱野村八幡の御座候小社之邊りに古城形之山畑有之侯所々老身も前後不覺何某之前々住城と云事不分明にて侯物らしき書出しにて侯へべしと存侯其譯は彼古城近所に源氏の氏神八幡社を崇め被置侯からはと存侯
    前々古鬼の住城鬼の岩穴と申所々には石の不動御座候事

一 早川の内横野之内境横野之内玉虫不動岩之事或智德なる出家之仰侯は彼不動岩は空海之被遊侯由仰侯左候て此出家語らしめ侯は前々惡鬼神魔住居侯を空海退散被成其跡には石像之不動をめしすへられ侯か穴か岩に彫付られ被召置侯其穴岩屋に再來せしめざる樣にとの御はからひと語り聞侯左も侯は此不動岩の脇の谷を鬼之城と從古昔申傳侯彼鬼之城谷すさまじく左もとおもふ岩穴有之侯其わきに不動岩に不思儀有之侯は岩下之深淵より不動に龍燈上り侯を横野村に令正見侯者當分も有之侯彼不動岩火燈などはあり/\と見江侯乍草双紙酒天童子大江山鬼が城にて賴光に前々は弘法大師傳授大師といふゑせ者目が國土を去れと追出す今は左樣の法師なき故に如此にすみよひと申たるは尤の事に侯往昔鬼が居侯びたるといふ所にはまことに石像の不動必々ましまし侯中山拂川(ハラヒカハ)之手前不動岩と申侯て當分は在宅御侍衆屋敷の近所にも石不動まします岩穴有之侯彼岩穴向ふに以前はちく林有之侯其内に人之骸骨いくらも有之侯を拙老も若輩之砌五十年以前に令慥見侯然ば彼不動岩は岩穴之入口に石像之不動有之侯此不動も弘法之御所作と存侯穴向ふに死骨有之侯事共は正(タシ)か彼岩穴に鬼類罷有人を害したるにて侯はん左候を穴の口に不動を弘法の安置ましましつ覽と有難し惡魔降伏之大聖不動なればなり
    佛神冥罸附色々不思議事

一 元和之年中(1615~1623)に甲佐三宮社に有年之夜修行者拜殿に泊り伏居侯處に從 御寶殿貴音聲にては八鉾參れと神勅被成侯へば參侯と御答へ侯に舟津討て參れと被仰侯又一時斗過侯て討て參侯と被申上侯を右之修行者慥に承之元朝に大町村千右衛門と申者之處にて夕部如此と咄侯に年之夜舟津村之庄屋令頓死侯段前々より甲佐之宮下にて侯を左でなしとの産下諭有之侯左樣之事かと申ならはし侯

一 熊本祇薗社之宮寺本覺寺豪傳法印と申住持元來當所嚴島明神之祝部筋目にて侯本覺寺寺内に桶屋罷在候に借馬ひかせ嚴島社前之宮島に被成御座候砌彼社地大竹林にてかれ竹ふそ/\と多侯を馬につけて右之桶屋晝の九ツ時分に熊本へ罷歸侯のが道不見やみひとしく罷成宮邊のおそのを川小淵に馬をおひ込あがるてだてなく荷なわをずた/\にきりくづし川邊にかれ竹を引おろしほふて私宅へ參侯是は祝部筋目之法印にて侯へ共神慮に不叶と法印思召法華讀經共にて侯

一 拙老未生以前に糸田村に長右衛門と申其砌の庄屋にて彼仁之從子右之社之大竹をぬすみ唐白を作侯に其晩爲何事も無之侯に其唐白に上りくびをくゝり申そのまゝ死申侯其頃舌をまき致驚怖侯と申侯

一 正保前後に當所のきもいりをつとめ侯孫三郎寛永之初頃局(実際は局に点有り)を作り侯とて右之宮林の大竹ぬすみ剪二の木舞(コマヒ)に仕侯由に侯造作仕廻侯ふきくさの餘りを其二之木舞の眞下に召置侯に其萱くづより火いでゝ二の木舞之通りにもえ上り火事と相成侯に亡父家も近く庄屋父子も近く侯ひたるに類火なく孫三郎一人ほろ/\とやけ侯由是も大竹右之通故と仁人舌をまきたると申傳侯

一 自老十四五歳の砌亡父仕侯傳七と申下人夜半にふと起き家之内光り渡り侯耳にわん/\となるかねが耳ネにあたり心苦きとて狂ひ廻り侯亡父起上りわごれは今月九日に神前へ供上侯御酒を宮本に持せ侯間むさと隣家へゆきそといましめ置侯に何方へ參侯哉ざんげ致せと申され侯へば一家之所へ參侯へば産を仕侯處にて侯にそこでにごり酒被下侯と有體に申侯故亡父はらひを致し手をすり申侯へば狂ひやみふせり申侯不浄ないやうに亡父被申付侯乍聞右之通故耳にわに口をあてゝたもり侯にて侯大事成儀共皆人申侯て驚申侯

一 圓福寺寺地に罷在候古太郎兵衛が女房宮島林之竹にまじわり有之椿お實を取をり侯へば椿の實のかど手のゆびに當りいたみいて其指ひやうそではなしにふつときれ侯寛永之年中がをへがし申侯

一 矢滿下庄助祖父善三郎權現山にて薪を折々拾ひ侯由之處有時彼山に薪取居侯に辻風ちよとふき來り右善三郎を風がひつつゝみ三四尺程中に上り權現注連之外迄中を風よりそびかれ罷出侯由令驚怖二度と彼山に入不申侯と善三郎自身慥申聞侯

一 亡父被參宮下向之日嚴島明神へ通夜之處の當所中より酒を持寄終夜酒宴之處に亡父名子源助と申者あれこれと醉狂令喧嘩を亡父なだめられ侯へ共非道を申其年名主之自老亡父に無理をたくみ名子を相離れ侯扨又右下向之晩令看經侯を致し其珠数を以源助おがむぞ/\喧嘩なしそ/\とおがまれ侯をも承伏せず以後は亡父之屋敷を罷出別所へ移り侯然ば移侯て兩月之内に七八歳にか相成侯三と申■(粉なく米→身)卒驚風煩出し珠数のおふよ/\おそろしい/\と申死に致侯是は乍慮外亡父看經被致珠数にて拜み被申侯事をつゆとも不存侯ひたる罸と申物かと存侯

一 拙老若輩之頃は鮎をあみにて取侯事得手にて廿七にか相成侯砌麻生原村下之金八の申深淵之上瀬に八月末頃鮎之付瀬と申を見出し毎夜彼瀬に付き侯鮎取に唐網を令持參鮎を澤山にとり/\致侯て小者に藁をになはせたて廻し少之間づゝ令休息打々致侯に少々まどろみ侯處に其下河原よりくろねこ跡足にてふら/\歩み來り侯見苦き物かなと夢心に存侯間に其猫參侯故何物ぞと夢にとがめ侯へば我等は金八どのゝ使にて侯と申侯夫は何事の使かと申侯へば此瀬に毎夜參侯故川上下之障りになり侯少々遠慮せしめ侯へとの斷にて侯と申侯故申侯某は神職人故酒などほかひ進侯にと申侯へば彼ねこそれ故に斷りを申侯左なき人にて侯はゞその村の助左衛門かごとくと申侯てひたひに一ツ目有之侯てすさまじきつらに其猫相成り侯を見る/\夢さめ侯小者わらの間にふせりね入たるをおこしそのまゝ罷歸侯其付き瀬に參り侯事令用捨侯然ば當所に罷在侯助左衛門と申物網の上手にて鮎取に不斷川に罷出侯者にて然處に夏頃ほうさきにもくるしほど物令出來侯にいたくもかゆくもないを其上をそりにてきりやぶり侯へば白水少出侯迄にて何の別條も無之侯にたゞ物ひろくふとくなりたち後にはかほくゑたち侯て目痛みかた/\の目くさりすたり目一ツになり三四年程ながらへ罷有死侯時分は其かほさがら鬼面に異ならず成侯てみぞの湛り水にかほをつきひたし死に侯に左なくば助左衛門がごとくとくろねこの手にて目をおさへ侯へば其目なくなりすさまじきかほに成り侯が其猫面(ヅラ)になり助左衛門死に侯

一 或下々身をしちにおき相果侯に其死侯下人兄之何某に夢に來り早々身之代主人に相拂くれ侯へ殊外苦に成侯と申侯仁田子村源四郎此事仁田子村に有之侯事と慥に申聞侯(小者源四郎申侯)

一 明暦二年(1656年)八月十六日之夜夢に人來りて濁赤には生甘草一味妙藥とつける

一 萬治元年(1658年)二月十七日に邊田見村彦七と申者之馬石子うむ大小石六つ

一 寛文元年(1661年)五月二日の當所古寺養壽院舊跡に罷在侯源左衛門と申百姓に其居侯山よりうさぎ舌をまきくり出しくるしげなる有樣にて源左衛門になれなれ敷より侯を源左衛門見ておのれは舌に何ぞたてたると見江(え)侯いで/\見てとらせんと申侯て舌を見るに大きなるいげの小枝したにつけて罷在候を漸々の事にとりくれ侯へば尾を打ふり山に入侯を直に源左衛門咄し聞申侯

一 別册に犬之ゆうれい子を持侯と計書侯かるが故に書出し侯寛文二年(1662年)の二月一日に當時之百姓庄左衛門と申者之白犬御鷹之飼犬に當所惣左衛門と申百姓彼犬をひき犬討之所に參慥に犬討にうたせ其役勤仕廻罷歸侯然ば其庄左衛門が白犬庄左衛門所へ參侯に付其犬をひき熊本犬討之所へ惣左衛門如此と申侯へば惣左衛門申侯は正くうち殺し侯と申に付庄左衛門不思儀千萬に存侯に此犬庄左衛門が屋敷之林之中にぬかぐら作り置侯其ぬか藏にて白き子を三ツ持侯皆仁人見申侯乍白毛はい色の白き子にて侯に持侯犬子にては侯へ共然々物だつべく犬子とも不被申侯一兩日中に母犬も犬子もいかゞ成侯哉不相知侯定て此犬はらみたるにて此ぬかぐらにて子をうむべしと思ひ罷在侯念にて死後にかくのごとくとふしぎと見る人々自分皆々申侯

一 寛文四年(1664年)ほうきぼし出る翌年まで

一 萬治二年(1659年)之十月守山八幡宮社邊に罷有侯百姓之忰熊本へ小者奉公仕居侯に十月は産神八幡宮之十月廿五日之神祭に參侯はんとて主人に斷申侯て罷歸侯に道にて無量の子共集りいざ/\相撲を取べきと何人ともしれず取懸り侯に精をもぬけ氣心うせ侯樣に成侯處に向ふより大小をさゝれし侍見え來竹の先におびをゆひつけ其おびに小石をゆひ付け幼兒がばんほふとてもて遊ぶ物なるをたもり是にて取懸る子供を打はらひ/\致侯はゞのき可申ぞとて給りたるをしへの通りにふりまはし/\せしにひとりうせたりうせ皆見えず成り侯彼倅罷歸り此旨父母に申聞侯を八幡之法印是を見聞被有ふしぎに思召もて來る小竹にゆひ付し帯を見たまふに八幡神前之鰐口之緒にて侯産神是を使者にもたせかくのごとくなるらんと有がたし此事小熊野村常樂院慥に被語聞侯

一 寛文八年(1668年)四月廿四日之夜寅の時に夢に見侯は熊本長谷寺開帳侯間觀音を可奉拜とて參り侯處に厨子を聞きて有之をづしのしきに頭をもたせ奉拜侯に木地木像之觀世音にて難有拜み侯處に觀音左之御手をづしの敷迄御さし下され脉(みゃく)を見よと被仰侯御左脉うかゞひ申侯へば又右之御手をも御さし下され脉御見せ被成侯御兩手彼厨子之敷迄御下ヶ被遊侯事夢心に扨々佛は御自由成御事と奉感慮侯に脉はいかにと難有御音聲にて被仰侯沈大に被爲見侯に付御中風かと申上侯へばいや/\風は自身に不惱と被仰侯扨は中寒哉と申上侯へば中寒は左もと被仰侯汝が心に欲る藥を得させよと被仰侯奉得其意侯と申上侯とそのまゝ夢さめ侯翌日附子理中丸に抹香を衣にかけ調合侯て同氏休加孫兵衛と申たる砌右之丸藥翌日右之通に致調合翌々廿六日の日もたせ長谷寺觀世音の御寶前に任佛勅渡邊玄察御藥進上仕侯と申上佛前に差上罷歸れと申遣侯
 一切如來大慈悲  合集一體觀世音
 八寒八熱大那羅苦  大慈一人代受苦
或出家衆に右之咄いたし侯へば中寒は左もと御座候は難有侯八寒之苦之代に衆生を助けたまふ此觀音之願文なればなりとて手腹にかいて見せたまふをそら覺江(え)ながら書付侯字之あやまり不分明ごみに御出家中寒と佛語難有と仰侯故書出侯佛に御藥乍夢進上申侯儀醫冥加難有侯

一 寶永五か六年(1708、1709年)かに毛がふり毛がおゑ侯中之院御書所樣之御詠
    天なかし地もまた久しき例には
        ふるもおふるももろしらがかな

【拾集物語五】
       目 次
一 益城郡堅志田赤峰尾(セダオ)之古城昔主西金吾殿事

一 同郡田代之古城昔主田代宗傳之事
    付 七越瀧之事

一 同郡木山古城前主備後守入道紹宅之事
    付甲佐宮神宮寺昔住豪淳法印之事
    同郡下陣津守り古城少書出侯事

一 往昔源之八郎爲朝推量咄シ之事

一 前古鬼在之岩屋岩穴石像不動之事

一 佛神冥罸之事色々

      『益城郡堅志田赤峰尾(セダオ)古城前主西金吾殿事』
一 以前彼(カノ)城主を西左衛門尉金吾と申侯天正年中(1573~1591)落去頃は北左衛門と申したる由に侯落去於于今彼城も城之山形斗にて野山と成果侯彼城は前々西氏令斷絶侯へは北氏北氏無氏之砌は西氏兩氏より跡城主に被相成侯樣に申侯

一 西金吾殿は天狗之弟子にて神道術法者之由申傅へ侯又一説には天法を宜く行得被召侯共語傅侯永正之年中(1504~1520)に専一妙將之由語傅へ侯彼金吾殿は元來阿蘇御一家にて金吾公之末孫阿蘇神主殿へ當分一老二老にて被罷有侯坂梨二郎右衛門同平右衛門などの先祖にて侯

一 永正年中(1504~1520)に右之金吾同前に名高き文武兼達之弓取有之侯由隈部忠直と申たる由に侯儒佛神道風雅之道諸事分明之武士にて御座候ひたると申傅侯上京被有五山之御住/\に面謁被召被令問答侯何れ僧侶衆手を取舌をまかれ侯などゝ語傅侯隈本藤崎宮之名鐘之銘文彼(カノ)忠直自作同所連歌所初而之建立も忠直被仕置侯由に侯然處に忠直兼々被申侯由は益城堅志田西金吾とて鬼神にてはよもあらじかし令一戰侯而見侯半とて赤峰尾(セダオ)に發向被召甲佐舟津山之峠せだのをより半里手前まかどゝいふ野に本陣を被取赤峰(セダ)の尾に可被取懸と令處に金吾被申侯は忠直に物見せてくれ侯はんとて法を一座修業被召侯へは堅志田は不及申に近里迄黑闇に成侯而夜白不分明に侯左候處に忠直之軍士共各同士戰サ(イクサ)相始右往左往に令合戦令切死剰大將忠直を同士討に討申侯然者(シカラバ)忠直も唯人にては無之侯哉忠直之首空死なく隈部に首を持歸侯に親父に被逢侯而目を塞(フサ)ぎ臨終被召侯と語傅侯其頃迄は出家も在家も不思議成事共有之由に侯扨又(サテマタ)其後菊池之者令上京南都見物に參侯處に春日之邊(アタリ)に而忠直に行逢侯に付畏謹而殿は正く(マサシク)御他界被成侯が是はいかゞと申侯へは忠直は春日之樣に歸り侯といへと仰侯而書消す樣にうせられ侯と申侯扨右之通故赤峰(セダ)の尾より出城合戰と申事もなく城に可取懸軍人もなく併あしこ爰(ココ)に軍士罷有侯故金吾殿之領内下原と申村忠直之陳所近所にて彼村之名主百姓從金吾殿指圖(サシズ)は無之侯へ共弓おつとりきふう矢をはげまかど下原とのあひに小ぜこ有之侯にせこ向ふにむらがり罷有侯隈部の野伏共を思ふさまに射除侯其以後金吾御賞被有其せこ田を其名主に被下侯當分迄も彼せこ田のさげなをきふう田と于今申侯

一 赤峰尾(セダオ)城下に馬場と申村有之侯其村にかたひらと云名主有之侯彼(カノ)名主次郎兵衛と申侯彼二郎兵衛高祖父金吾殿之氣入之小者にて侯ひたる由に侯彼小者を方々被召連風雲上あなたこなたと被召居り侯由に侯彼小者九十迄令存命罷在仁人(ジンニン)に咄(ハナシ)居侯を聞侯孫々共尤(モットモ)自老祖父(吉次)なども慥(タシカ)申傅へ語被居侯金吾殿何方へも右之小者被召連侯時には東西南北何方へ成共むけと仰侯而おのれをつれ侯事心氣ぞと仰侯而侯方に向侯と其まゝ正氣をうしない夜白不分明に罷成夢之樣に成り侯て時々足のうらに木之葉しか/\致侯を覺侯事共有之侯左候而ねふり目さめたるやうに侯而諸方見侯に終(ツイ)に不令見聞侯處京都鎌倉熊野愛宕山吉野又は肥前之高來温泉山之樣成山々又は珍敷(メズラシキ)所々へ御出侯に常に供申居侯と右之小者老身咄申侯由に侯日本國中山々寺々見不申所は無之侯と咄居侯由祖父(軍兵衛吉次)など外老身咄申侯を慥(タシカ)に亡父(吉政)聞侯などゝ被申聞侯

一 右之小者老身稠布不思議を見侯とて咄申たると聞傅へ侯右之通にて供奉仕侯へは熊野山にて御座候に金吾殿大木之杉を引たをめこしをかけて御座候に熊野道者共(モノドモ)各其杉にこしをかけ罷有侯に金吾殿被仰侯は此杉は今々をき上るべく侯間皆々のき侯へと仰侯へは各申たる由は是なる山伏之被申事は從前々はひたをれたる杉の今々いかゞをき可申哉と一同にとつと笑侯故金吾殿仰侯は案内はいふたり扨(サテ)は左候かとて御たち被成侯へは其杉はねをき申侯故こしかけ居たる人々四角八方へはねちらされ落着相知不申侯を慥(タシカ)見申侯とをり侯由にて此一儀世間に令流布侯咄聞彼(カノ)小者老身が咄(ハナ)しより起りたる咄にても遠近此事を金吾殿杉咄しと申傅侯

一 堅志田在々之産神は阿蘇甲佐勧請之明神若宮明神と申て此神前之馬場以前は同村内に於于今舊(キュウ)跡有之侯此馬場末之左之林之中に大石たてゝ有之侯此大石は金吾殿御盛生之砌(ミギリ)赤峰尾(セダオ)山より堅志田宮下之若者共後年之覺に明神之馬場に立置べきとて引下しばゝにたて可申と各仕侯へ共分過て大石故立得不申侯之處に金吾殿あしだを御はき御立覽侯が以後之覺へにたてゝをき度とおのれ共願侯はきどくに侯しからばおれらが後年之爲にたてゝ見せ置べくと仰侯て眞中をいだき御手まわらずなりにかゞめつきにゑい聲(コエ)をいださせられ地中につきいれなされ侯に半分は地中に半分は地上にたつて有之侯ふしぎと于今見る人舌をまき侯彼(カノ)大石當分まで有之侯

一 金吾殿薩摩島津殿御代々之菩提所なる福正寺一見に金吾殿御出被有侯に右之小者被召連福正寺に立入被成侯て住持(ジュウジ、寺の住職)はと御尋被成侯へは留守にて侯と申侯然(シカラバ)は番僧共會勺心に叶はれず侯哉不思議可被見(セ)ため侯哉寺を御一見侯て寺を御立出侯時柱をゑひとのたまひて御ひき侯へは寺令動揺くわら/\とひしめき柱之石口悉(コトゴト)く地にをち侯に付寺内周章(シュウショウ)大驚動にて侯に跡見もなく御歸り之處に跡より住持(ジュウジ)とおぼしき中老僧衣をふみかゝへ追ふて被參御事は何方之御仁にて侯哉福正寺御一見之爲に御來山にて御座候者少々間被成御入寺侯へ拙僧(セッソウ)は住持(ジュウジ)にて他出仕たゞ今罷歸侯に御出と承侯是非共又御立入可被成侯と懇に手を下げ仰侯へは扨は侯と仰侯て住持と打連寺に御入侯に右之柱に先刻之通に手をかけをし上られ侯へはぶる/\と寺ふるひ侯て本之石口に前々之通に居り侯由に侯慥右之小者老身見申侯とはなしをり侯由に侯

一 金吾殿常々之修業所成庭前より三四人程にて持侯はん石を二つせだのを(赤峰の尾)山之峠に大一椎木有之に其木之俣に右之行法所之庭前より右之二つ御なげうちはさまれ侯て被仰置侯は後年當國改易/\に此石落べく爲其證如此に被成置侯と御遺言之由語傅へ申侯處に天正年中(1573~1592)阿蘇家迄にも不限一同に國代落去之前年落石侯を祖父(軍兵衛吉次)など慥に見置侯由に然者(シカラバ)御先代忠廣樣御落去前年に一つ相殘侯右之石をち申たるを老父(吉政)慥見申侯に其翌年忠廣樣御落去にて不思議に存侯と申居侯二つ迄にて相殘申石無之侯故右之代と御座侯て石二つなげこみ被召置侯はんと萬慶(バンケイ?)/\

一 金吾殿御自身影を自作に木像にきざみ堅志田圍(カコ)ひと云所へ梅林院と申舊跡(キュウセキ)に於于今御座候金吾殿自作之木像は囘禄(カイロク)にて御焼失にて侯慶長年中(1596~1615)之末頃に中山に幡磨と申野佛匠有之侯ひたる者自作之像を見覺罷有侯のが造侯影にて侯然者(シカレバ)金吾御他界之菩提所にて金吾殿御院號を梅林院と申侯其故に彼(カノ)影堂を梅林院と申なり則赤峰尾(セダノオ)城下圍ひと申所にて侯

一 金吾殿はせだのを(赤峰尾)山にて一つ貝をふき御うせなされ侯と申傳へ侯此段實正之證有之侯

一 西馬場村正法寺と申禪寺有之侯大慈寺末寺にて侯近年迄無寺無住之處に西念と申僧彼舊跡(カノキュウセキ)に來寺被召再建にて今は結構成霊地と相成侯彼古寺に位牌有之侯に其位牌之霊文に
    登霞  梅林玉公 大神祇
如此に御座候かすみにのぼると置字に有之侯上は雲にのりかすみにのぼり御うせ被成侯は實正にて可有之侯

一 彼(カノ)正法寺以前者大寺にても侯はん扨又(サテマタ)以前之昔住再彼身之西念にても侯哉彼西念正法寺昔寺之跡を糺(タダ)し小草堂を造本尊古作之観音被致入佛侯はんとて舊跡(キュウセキ)之堂庵地領に被成居侯を被引平侯處に大土器を三枚被堀出侯かはらのくちに正と云字やき付たるをほり出し又法と云字有之侯を又寺と侯を一枚ほりいだされ侯然者(シカラバ)のきがはら(軒瓦)に正法寺/\とみなやき付けたる三枚彼(カノ)西念被堀出侯當分慥(タシカ)に彼寺に有之侯を老身正く見申侯ふしぎにて侯

一 堅志田内之在々に善惡事可有之とては其家御屋敷中に吹貝之音必有之侯是は右之通金吾殿天狗之御弟子天法を行得被有侯古主之告げと申傳侯

   『田代宗傳并七越瀧通夜咄之事』
一 益城郡木倉手永之内田代に古城有之侯天正之年中頃(1573~1591)之城主を宗傳と申侯彼(カノ)宗傳田代在々之其砌(ソノミギリ)領主にて侯中/\武勇之譽れ有之たる弓取にて侯御舟(ミフネ)甲斐宗運幕下にて度々宗運に令供陣度々名を取申たる仁にて侯豊田響之原にても桑のせこにて他士をまし得す手共計にて五十四人討取於于今田代宗傳くわのせこかつせんと申傳侯彼宗傳は實正之心を得たる武士と阿蘇家にて令感譽侯分ケ(ワケ)は第一此咄にて侯無類之大酒之由の侯然者(シカラバ)甲斐宗運は阿蘇之大老にて侯故に正月朔日(ツイタチ)に阿蘇大宮司殿へ阿蘇家之侍御慶禮に參上侯て翌二日に宗運へ年禮相遂侯に彼宗傳以之外致銘酊(メイテイ)宗運へ一禮各列座之處に甲斐伊勢名代に肴(サカナ)を各へ進侯所へはい寄り伊勢之耳之根を宗傳手之腹にてひたとうたれ侯列座の各あゝと存侯にちい刀を伊勢抜くまねいたし宗傳をさし殺すまねをしにこ/\と打笑被罷在候就夫無事にて相通り侯折々宗傳大酒故前後不覺にて左候事侯故伊勢も被致堪忍宗運も御通し別條無之各退出歸宅にて侯に田代之嫡子被罷歸侯て父之入道に被申侯は扨々是非も無之存侯は老父御事年之始に死人同前に御成侯事口惜存侯と申侯へは何事侯かと入道被申侯に老父之伊勢への仕方一々咄被申侯へは宗傳被相聞侯て被申侯は寒朝故澤山に酒をのみ酔侯故不覺侯嘸々自分か是非なふ存侯はん然れ共令自害侯者氣亂侯扨は伊勢とさし違へ死に侯はゞ理不盡(リフジン)とかくいたすべき樣無之侯然上は今日ゟ(ヨリ)以後酒をのむ間敷人々可申にもあれ程之大酒老身にて侯へ共酔侯て不覺に伊勢に慮外を致され面目なさに下戸(ゲコ)に被相成侯とうたわれて成共見よふぞとてそれより臨終頃廿年ほど一滴もさけをのみ不被申臨終被致侯と申侯

一 七越瀧巍々(ギギ)敷見物所にて瀧之上に七越瀧尾權現と申社御座候先年 御當太守樣被遊 御覽彼社被遊御修建侯彼瀧尾之社に致通夜侯人無之由申侯愚老祖父吉次(軍兵衛)成程男ら敷仁にて廿有余之頃被令通夜侯に夜半前にごと/\杖をならし座頭參侯吉次存侯は座頭夜半參社侯と存ふら/\致侯に座頭罷歸侯由それより又ふら/\ねふり侯内に吉次をひつかゝへかや野之中に召置侯ねふりさめ侯へは左之通に付行法者にて侯故吉次法を一座野原見令修侯へは右之社へ不覺ひつかゝへすゑ置侯と語り居被申侯と亡父(吉政)慥(タシカ)に被申聞侯兼々吉次被申侯ひたるは座頭は山ぐものばけたるにて侯はん少々之者は通夜を致し得まじく侯と語笑被致をり侯と亡父被申聞侯

一 彼(カノ)宗傳之嫡子か次男かいづれ兩人に一人國代落去後に筑前に令逐電其孫は秋月に大知行(チギョウ)を取當分被罷有侯阿蘇惟善公へ進上書にて書状進上被有をり侯此旨實正承侯

  『同郡木山古城前々之城主備後守惟久入道紹宅事附豪淳大僧都法印事』           
一 同郡木崎(山カ)村之古城主前々木山備後守(ビンゴノカミ)惟久と申侯被致入道紹宅と申たる由に侯彼(カノ)備後甲斐宗運嫡子始めは拾員改名宗立と申侯彼(カノ)宗立之聟(ムコ)宗運孫聟にて侯彼紹宅は風雅之道に達仁人にて花車なる名人之由申傳侯彼紹宅發句千句記紹宅自筆のを持居たるを先年阿蘇友隆公七越瀧見物に御出之砌私宅(玄察)へ御一宿之時分御見上に右之千句記進上申侯後千句記に等與/\と御座候は甲斐宗運之家老栗林伊賀入道號等與と申侯紹宅と右之道を切たり突たり迄にてはなくきやしやな事と前々を存侯
彼紹宅上京被致侯に京着即日之晩其砌(ソノミギリ)之花之本紹巴天正初(1573)頃之由北野にて笠着之附句ばいかひ被召侯旨紹宅風聞即晩北野へ被參侯に紹巴附ケ句に
  また七たひのわかれおそする(こそすれか令失念侯)
即座不取敢紹宅
  八重櫻一重はさきにちりそめて と附ケ被申侯へは紹巴あつと被感何方の仁かと仰侯紹宅田舎之者にて侯田舎は何國侯ぞと御座候に鎮西方之者にて侯と被申侯へは扨は肥後木山の紹宅と申仁にては無之侯哉と仰にさん侯と申され侯へは手を引上られ對座にて知人に被相成侯由に侯

一 紹宅木山城主之砌(ミギリ)飯田山に花盛之時分參詣之處に山詣之仁人櫻之花を枝共に手々々手折侯を風覽侯て
  風よりもはけしき人の心にて
    手ことに折しはなの枝かな
如此に詠しられ侯を其頃賞翫(ショウガン)申たると語傅侯

一 其以後紹巴法眼にて紹宅歌をよみならひうたのとりやりめされ九州の歌人にて御座候ひたると申つたへ侯

一 紹宅以後國侍亡絶從太閤樣被仰付侯にも法眼口達に而紹宅は被成御免都へも被召上侯と申ならはし侯其砌法眼之御望か又は自餘之方被仰侯哉つくし戀敷(コイシキ)おもはれ侯はんに頓作をと御座候に紹宅如此にあひさつ被致侯と古老咄申侯
  うつ蝉の羽よりもかろき身を持て
    つくしよしとはおもはさりけり     

一 宰府之天神末社に彼(カノ)紹宅を可被召加との御神詫ましますに付寺社五十餘人一同にいか樣成分ヶにて紹宅奉遂(ト) 御神慮に侯哉と敬白各被致侯へば重ねて御神詫に木山紹宅が 
          人をおくりてかへる夕暮れ  と云附ヶ句に
            身をいつのけふりのために殘すらん  と附ヶたる句被爲叶  御神慮侯と
の御神答故に御末社に崇初被申侯由其上神號を煙之宮と祝ひ侯へとの神勅にて煙之宮といはれられ侯と申つたへ侯

一 前々木山備後守惟久盛城主之砌彼古城下より當分泉出侯水前々今分通にて城内すさまじく童女驚怖(キョウフ)にて城下に安養寺と申天台宗之寺有之侯彼(カノ)寺は城主之祈禱寺にて侯前々は大寺にて彼寺之住持(ジュウジ)甲佐宮之神宮寺住持豪淳(ゴウジュン?)法印と申智僧かけ住持被召侯然處に惟久御賴願侯は彼城下之出水を豪淳に御加持被有侯て御とめ可給侯と御重賴侯故法印被申侯はヶ樣の祈念は難成物にて侯へ共致加持(カジ)見申侯はんとて泉水(ワク)本に檀を粧り一七日行法加持被召侯へば七日目は彼泉水必止と相止り侯其頃不思議千萬妙事と取沙汰いたしたると申侯然は彼水泉(ワ)き出侯事は右之通に侯へ共城之地底令動揺鳴動侯に付城在之各令驚怖侯就夫惟久又豪淳(僧)に再賴被召侯は御祈念之故に彼出水如此にて難有致感譽侯處に彼出水城之地底へ令動揺女童部令驚怖乍無理前々之通に出水侯樣に被祈直可給侯と重賴之由に侯法印承之左樣之非道之儀ならざる物にて侯其譯は諸天善神天龍八部に斷を申新に如此申かなへ侯水止之儀又前々ひとしくとは不被申侯貴殿に如此に被仰付給れと漸斷を申かなへ侯て斷り申かなへ侯へとももはや斷は不入侯前之通にと申侯て通り可申哉以同前之事にて扨も是は難題成事侯一命を捨て祈念可致侯と仰侯て又水之出本に右之通に檀をたて一七日祈禱被召侯に七日目に如前々水泉出當分迄も其通りに侯其祈禱之檀上に七寸五分の小さすがを置御加持被召侯處願之成就之上にて法印令蘇生侯と仰侯由申傳侯惟久も合爪被有敬白拜をなし法印を尊崇被有侯と申侯此水前々之通に不泉出は自害と思ひ定めて渡り侯に先は目出度し/\と法印のたまふと語りつたへて侯七寸餘九寸餘の小さすが/\は前々如此之入具に古昔之名鍛冶(カジ)作り侯て令寄進侯の申傳へ侯は實正(ジッショウ)にて侯法印檀上に七寸五分置被召侯は此法にて不令水止侯はゞ法印が失命と御座候爲に被召たる小さすがなればにて侯

一 彼豪淳は天正初頃(天正:1573~1592)には阿蘇山熊本護國寺北目のあいら山松橋の談儀所川尻の談儀所木山の安養寺尤甲佐神宮寺右之寺院をかけ持/\に被召侯て月に三四五日づゝ法釋被召居侯智德之名僧にて被成御座たると申傳侯甲佐明神御在之村宮内にても然も甲佐神宮寺本住之豪淳(ゴウジュン?)にて御座候然處に彼宮内がけ下之村にて豪淳御在寺之砌(ミギリ)天正之初頃大地震動致侯て村上山半腹引わり龍(ツ)ぐへ致し可申と各申侯故法印仰侯はたつぐへを三百年はとめて可置侯其以後は無覺束(オボツカナク)侯と仰侯て石に字を書社僧を引連がけに上て御祈念被有侯へば動揺も治りたつも上り不申由に侯然ば其龍豪淳之御在寺邊之小池に被召寄被置侯哉神宮寺の寺地に少斗之水湛小池侯に雨降可申とては其小池の地底より枇杷(ビワ)之樣なる大尾をさし出し/\致侯故彼村之老若人は天氣日和之善惡は是にて知侯と申傳侯彼がけ山に黑雲たなびき風雲さう/\しきはまきれもなきたつぐへせんとの事にて渡り侯とめて置べしと仰侯て右之通之由に侯    

一 甲斐宗運豪淳を兼々へして仰侯はぬる聖道げにふかひ事は渡る間敷く/\と惡口らしく仰をり侯由之處に家頼之若輩共入道(宗運)に申侯は豪淳は犬同前に侯其譯(ソノワケ)は不浄成所へ飯(メシ)つぶ御座候をひろい喰被申侯と申侯へば眉をひそめ宗運仰侯は扨々豪淳は末世之釋迦にて渡り侯を自老は令謗言(ボウゲン、悪口)をり侯いかひつみを作り侯手ごしおこせ甲佐法印江(エ)參侯てざんき(慚愧)ざんげ(懺悔)せんとて手與にて甲佐神宮寺へ入御侯へば法印御申侯は扨々御船殿は不思議成る御出かなと馳走之處に宗運仰侯は自老は法印(豪淳)へ改悔之爲に參侯其譯は法印智學之僧と仁人申侯故ぬる聖道左は有之間敷侯とへしをり申侯事扨も誤りにて侯法印は末世今時之釋迦にてましますを此中令惡口罪を作りて渡り侯眞平御免侯へとて被拜せ侯へば豪淳仰侯は扨々無勿體(モッタイナイ?)事を承侯拙僧は御入道老をはぢ侯て一句之法文を説き侯にも御入道にはぢおぢ致し申に付あやまり無之侯などゝ御座候而互に珍語之儀共の由に侯前々はこたつとては無之火桶迄之由に侯火桶(ヒオケ)と云は當分の火箱之事之由に侯宗運仰侯は法印は火をけ有之侯哉と侯處法印然々之火をけ持不申老身令迷惑侯と御座候へば入道(宗運)が秘藏之桐火をけを進申べくとあいさつにて御歸城之由に侯然者甲斐殿御失念にて  火桶不被進候に法印頓作之狂歌を宗運公へ被進侯
    きり/\と火をけたもらんやくそくに
        たれがひをいれをけといふらん
此狂歌宗運詠覽被有侯て實に令失念侯伊勢持參侯へとて火桶を一之家老に持せ被進候と亡父(吉政)折々被申咄侯

一 彼法印(豪淳)は權者にて御座候と其頃申たる段は尤之事と存侯豪淳之墓所は甲佐馬場末の山邊に有之侯森之中に有之侯法華千部之石塔之碑文に顯密傳燈之沙門大僧都豪淳と有之侯此石文を乍不存令拜見侯に和漢合運圖(図)年代記に最澄に顯密傳燈之號を賜ふ空海に顯密傳燈號を賜ふと御座候を令拜見此田舎之端に如此之石文殊大僧都之位階彼是前後無双之御出家と存侯右之段々  御勅許之名僧にて被成御座たると驚感仕侯

一 右法印の墓所森下に有之侯彼はか所へ右法印從高野山土を被取寄はか所へまかれ侯と申傳侯左も侯はん熊本古阿彌陀寺當りの野邊を前々より高野べたと申ならはし侯此故事は行基僧正高野之土を彼(カノ)野邊にまかれ侯故彼の野邊に死骸をおくり侯へば令得道申傳侯扨は豪淳右之通左も侯はん

一 百餘年以前迄は能化の出家も御座候ひたると難有存侯は彼豪淳甲佐にては社僧故人をおくり不浄は禁制をも被召侯はんすれ共不浄不苦(ル)砌にてこそ侯はん彼豪淳御船宗運之家頼林氏何某が妻臨終侯を彼豪淳導師被召侯にくわしやおろし侯を法印黑雲をきつとにら見居被召侯へば雲そびき去侯と申侯然ば右葬禮之日邊田見(ヘタミ)東禪寺之住持洞春和尚庭前から小僧共/\と被召侯に皆參侯へばあのはか(墓)所へくわしやがおろすを見よ/\と仰侯に小僧共見申侯へ共目に懸り不申侯故御住持(ジュウジ)は亂氣に御成り侯哉と申たるに其後豪淳に御對顔之砌洞春(和尚)仰侯は折々法印には邪魔か見江(エ)侯と仰侯へば釋迦院一和尚遷化にも野僧令燒香侯に見え申侯故手杖とらせ侯へば迯(ニゲ)申侯林妻にも左樣侯故にらまへ申侯へば迯申侯と御咄に氣遣(キズカイ)致し居侯小僧共舌をまき扨々方丈(ホウジョウ)樣も豪淳がにらまれ侯故しれ者が迯ぞ/\と仰侯て高笑被成侯が扨々不思儀なる御出家達と小僧共其頃見聞之仁人感譽仕侯と申傳侯
 
   『同下陣津守リ古城少々書出侯事』
一 同郡下陣之古城は光永中務と申仁城主成り之砌令落去侯彼古城も前々阿蘇殿之御幕下之城にて侯光永氏は阿蘇殿之家老臣にて侯健宮は四ヶ社之神領組合之故に健宮津守リ兩城主被斷絶侯へば双方何れより城主の連續にて侯中書之子か孫か雅樂(ガガク)と申侯て有之侯令落髪露庵と申侯當國一の能書にて侯
 
   『源八郎爲朝九州在國就中肥後國之居住實否不分明併推量咄申傳へ侯色々之事』
一 六條判官爲義之八男八郎殿爲朝鎮西に御下九國を手に入鎮西之八郎殿と申たると申傳侯保元記に新院本院御位を被爲諍(イサカイ、ソウ)爲義公九州へ追下被置侯八郎を被召上侯はゞ一方之御用にも相立可申といづれの院樣にか被仰上侯故被爲召上義朝之乍御舎弟兄御親子合戰之處に義朝御敗北以後又九州へ爲朝御下り侯哉以後九州田之根より被尋出とか御座候保元平治以後爲朝配流之樣にも見江(エ)侯由いづれ不分明に侯阿蘇にも八郎の住城八郎殿之墓所とて有之侯木原山にも正く爲朝之住城にて侯ひたると申古城有之侯山出大武明神社之上山も八郎殿の御在城と申ならはし侯定而(テイジ)山出御在城は爪山古城にても侯ひたるか山出上原を陳原と申上は左もや彼(カノ)山出に八町と云村有ければ八郎殿射場之所當分村にいふなるや不分明に侯爲朝九州江(エ)被追下侯跡をしたひ源家普代相傳臣下之仁人にても侯哉渡邊判官綱久坂田丹後金任平井權正重定武邊行恒彼等五人彼等を引率し九州を随へ肥後之國内そこ爰(ココ)に城を築き被置侯を彼も是も爲朝の城を古城と申にや不分明に侯木原の古城は要害廣大にして嘸(サゾ)や八郎殿之城と下々共も見申侯前々彼古城は上々も被遊御密覽侯と申ならはし侯以後都より被召上侯砌は山出に御住城にて御座候はん哉以後滿足賀事之御下向とては無之御配流被爲誅侯げに御座候へば歸城は無之侯故山出城に八郎殿御内御座候に爲朝御上京之砌(ミギリ)目出度下向迄は渡邊氏親實之臣下故に内方に被仰付置上京も被成侯哉以後無下向にて渡邊氏に被育御座候ひつれ共昔忍敷せんかたなう思召水淵に身をなげたまひてむなしく御成り侯か身をしづめたまふ淵は多分津志田ひないがみにては有之間敷侯哉八郎殿山出城下之者共扨々いたはしき事とて其七月彼(カノ)淵端に念佛踊かね太鼓を打源氏の白旗とて白布を竹にゆひ付ヶ吊ひさゝ踊仕侯てそれより若き者共以後は引例に山出よりひないがみに盆毎/\に踊るにては有之間敷哉ひないがみと云故事はひな人のかみ池といふにては侯まじきや多分か樣もやと物に似たる書出し樣に侯へ共存寄之推參を書出し侯彼爪山いただきより方々見侯に遠近に目之障り無之爪山下のさこ/\(ザコ)東南は見事堀にても侯はん哉陳原は家頼/\の居屋敷にても侯哉又は山出大武明神之神號をもたゞならずいづれより八郎殿御上京も侯はんと存侯山出に渡邊氏百姓成にても罷有侯

一 又は木原必定八郎殿之住城にても侯はん彼の六殿社京都又は南良大工之所建とも申侯又平小松重盛公之御建立とも申侯彼六殿源家鎭守の神明にて爲朝御建立か不分明併彼社邊に城を築かれ侯上は八郎殿の被築侯はんかとも被存侯

一 下益城陳内村は陳之内と書侯彼村に以外成大石に柱をたて侯穴を彫りたる石有之侯數多田原之中に有之侯黑石ひとしき土器山林に多く侯彼かわら硯(スズリ)にして能侯と陳内村人まゝ申侯彼陳内も爲朝公御座候か又は御一家衆御在住も被有侯哉語傅も無之不分明に侯然共右之通に大石に柱を彫居へたて侯事凡人不成(ル)事に侯かはら今迄われて有之も見事に侯は不大形事に侯筑前宰府四王寺之舊跡(キュウセキ)に有之類之柱彫穴大石にて侯陳内と申からは寺院之舊跡にては有之間敷侯正く家宅所と見請侯殊祇薗(ギオン?)社も有之侯都人之舊跡紛無之哉と存侯都は過半祇薗之産子之上なればと存侯彼八郎殿在住の地にて無之侯はゞいかさまに都の貴人高人の御住跡にやと不分明に侯時去り年月過ぎ侯へば語り傳の證もなく侯

一 同郡中山手永萱野(カヤノ)村八幡の御座候小社之邊りに古城形之山畑有之侯所々老身も前後不覺何某之前々住城と云事不分明にて侯物らしき書出しにて侯へ共彼古城も爲朝の一家乍少身住城被召侯古城なるべしと存侯其譯は彼古城近所に源氏の氏神八幡社を崇め被置侯からはと存侯

    『前々古鬼の住城鬼の岩穴と申所々には石の不動御座候事』
一 早川の内横野之内境横野之内玉虫不動岩之事或智德なる出家之仰侯は彼(カノ)不動岩は空海之被遊侯由仰侯左候て此出家語らしめ侯は前々惡鬼神魔住居侯を空海退散被成其跡には石像之不動をめしすへられ侯か穴か岩に彫付られ被召置侯其穴岩屋に再來せしめざる樣にとの御はからひと語り聞侯左も侯は此(コノ)不動岩の脇の谷を鬼之城と從古昔申傳侯彼鬼之城谷すさまじく左もとおもふ岩穴有之侯其わきに不動岩に不思儀有之侯は岩下之深淵より不動に龍燈上り侯を横野村に令正見(ショウケン)侯者當分も有之侯彼不動岩火燈などはあり/\と見江(エ)侯乍草双紙酒天童子大江山鬼が城にて賴光に前々は弘法大師傳授大師といふゑせ者目が國土を去れと追出す今は左樣の法師なき故に如此にすみよひと申たるは尤(モットモ)の事に侯往昔(オウセキ、オウジャク)鬼が居侯びたるといふ所にはまことに石像の不動必々ましまし侯中山拂川(ハタヒカハ)之手前不動岩と申侯て當分は在宅御侍衆屋敷の近所にも石不動まします岩穴有之侯彼岩穴向ふに以前はちく林有之侯其内に人之骸骨いくらも有之侯を拙老(玄察)も若輩之砌五十年以前に令慥(タシカ)見侯然ば彼不動岩は岩穴之入口に石像之不動有之侯此不動も弘法之御所作(ショサ)と存侯穴向ふに死骨有之侯事共は正(タシ)か彼(カノ)岩穴に鬼類罷有人を害したるにて侯はん左候を穴の口に不動を弘法の安置ましましつ覽と有難し惡魔降伏之大聖不動なればなり
 
         『佛神冥罸附色々不思議事』
一 元和之年中(1615~1623)に甲佐三宮社に有年之夜修行者拜殿に泊り伏居侯處に從 御寶殿貴音聲にては八鉾參れと神勅被成侯へば參侯と御答へ侯に舟津討て參れと被仰侯又一時斗過侯て討て參侯と被申上侯を右之修行者慥(タシカ)に承之元朝に大町村千右衛門と申者之處にて夕部如此と咄侯に年之夜舟津村之庄屋令頓死侯段前々より甲佐之宮下にて侯を左でなしとの産下諭有之侯左樣之事かと申ならはし侯

一 熊本祇薗社之宮寺本覺寺豪傳法印と申住持元來當所嚴島明神之祝部筋目にて侯本覺寺寺内に桶屋罷在候に借馬ひかせ嚴島社前之宮島に被成御座候砌彼(カノ)社地大竹林にてかれ竹ふそ/\と多侯を馬につけて右之桶屋晝(ヒル)の九ツ時分に熊本へ罷歸侯のが道不見やみひとしく罷成宮邊のおそのを川小淵に馬をおひ込あがるてだてなく荷なわをずた/\にきりくづし川邊にかれ竹を引おろしほふて私宅へ參侯是は祝部筋目之法印にて侯へ共神慮に不叶と法印思召法華讀經共にて侯

一 拙老(玄察)未生以前に糸田村に長右衛門と申其砌の庄屋にて彼仁之從子右之社之大竹をぬすみ唐臼を作侯に其晩爲何事も無之侯に其唐臼に上りくびをくゝり申そのまゝ死申侯其頃舌をまき致驚怖侯と申侯

一 正保(1645~1648)前後に當所のきもいりをつとめ侯孫三郎寛永之初頃局(実際は局に点有り)を作り侯とて右之宮林の大竹ぬすみ剪二の木舞(コマヒ)に仕侯由に侯造作仕廻侯ふきくさの餘りを其二之木舞の眞下に召置侯に其萱(カヤ)くづより火いでゝ二の木舞之通りにもえ上り火事と相成侯に亡父(吉政)家も近く庄屋父子も近く侯ひたるに類火なく孫三郎一人ほろ/\とやけ侯由是も大竹右之通故と仁人舌をまきたると申傳侯

一 自老(玄察)十四五歳の砌亡父仕侯傳七と申下人夜半にふと起き家之内光り渡り侯耳にわん/\となるかねが耳ネにあたり心苦きとて狂ひ廻り侯亡父(吉政)起上りわごれ(オマエ、キミ)は今月九日に神前へ供上侯御酒を宮本に持せ侯間むさと隣家へゆきそといましめ置侯に何方へ參侯哉ざんげ(懺悔)致せと申され侯へば一家之所へ參侯へば産を仕侯處にて侯にそこでにごり酒被下侯と有體に申侯故亡父はらひを致し手をすり申侯へば狂ひやみふせり申侯不浄ないやうに亡父被申付侯乍聞右之通故耳にわに口をあてゝたもり侯にて侯大事成儀共皆人申侯て驚申侯

一 圓福寺寺地に罷在候古太郎兵衛が女房宮島林之竹にまじわり有之椿の實(ミ)を取をり侯へば椿の實のかど手のゆびに當りいたみいて其指ひやうそではなしにふつときれ侯寛永之年中がをへがし申侯     

一 矢滿下庄助祖父善三郎權現山にて薪(マキ)を折々拾ひ侯由之處有時彼山に薪取居侯に辻風ちよとふき來り右善三郎を風がひつつゝみ三四尺程中に上り權現注連(シメ)之外迄中を風よりそびかれ罷出侯由令驚怖(キョウフ)二度と彼(カノ)山に入不申侯と善三郎自身慥(タシカ)申聞侯         (つづく)

一 亡父被參宮下向之日嚴島明神へ通夜之處に當所中より酒を持寄終夜酒宴之處に亡父(吉政)名子源助と申者あれこれと醉狂(スイキョウ)令喧嘩を亡父なだめられ侯へ共非道を申其年名主之自老亡父に無理をたくみ名子を相離れ侯扨又右下向之晩令看經侯を致し其珠數(ジュズ)を以(モッテ)源助おがむぞ/\喧嘩なしそ/\とおがまれ侯をも承伏せず以後は亡父(吉政)之屋敷を罷出別所へ移り侯然ば移侯て兩月之内に七八歳にか相成侯三と申■(身偏に分:倅セガレ?)卒驚風煩出し珠數のおふよ/\おそろしい/\と申死に致侯是は乍慮外亡父看經被致珠數にて拜み被申侯事をつゆとも不存侯ひたる罸と申物かと存侯

一 拙老(玄察)若輩之頃は鮎をあみにて取侯事得手(エテ)にて廿七にか相成侯砌麻生原村下之金八の申深淵(シンエン)之上瀬に八月末頃鮎之付瀬と申を見出し毎夜彼(カノ)瀬に付き侯鮎取に唐網を令持參鮎を澤山にとり/\致侯て小者に藁(ワラ)をになはせたて廻し少之間づゝ令休息打々致侯に少々まどろみ侯處に其下河原よりくろねこ跡足にてふら/\歩み來り侯見苦き物かなと夢心に存侯間に其猫參侯故何物ぞと夢にとがめ侯へば我等は金八どのゝ使にて侯と申侯夫(ソレ)は何事の使かと申侯へば此(コノ)瀬に毎夜參侯故川上下之障りになり侯少々遠慮せしめ侯へとの斷にて侯と申侯故申侯は某は神職人故酒などほかひ進侯にと申侯へば彼ねこそれ故に斷りを申侯左なき人にて侯はゞその村の助左衛門かごとくと申侯てひたひに一ツ目有之侯てすさまじきつらに其猫相成り侯を見る/\夢さめ侯小者わらの間にふせりね入たるをおこしそのまゝ罷歸侯其付き瀬に參り侯事令用捨侯然ば當所に罷在侯助左衛門と申物網の上手にて鮎取に不斷川に罷出侯者にて然處に夏頃ほうさきにもくるしほど物令出來侯にいたくもかゆくもないを其上をそりにてきりやぶり侯へば白水少出侯迄にて何の別條も無之侯にたゞ物ひろくふとくなりたち後にはかほくゑたち侯て目痛みかた/\の目くさりすたり目一ツになり三四年程ながらへ罷有死侯時分は其かほさながら鬼面に異ならず成侯てみぞの湛り水にかほをつきひたし死に侯に左なくば助左衛門がごとくとくろねこの手にて目をおさへ侯へば其目なくなりすさまじきかほ(顔)に成り侯が其猫面(ヅラ)になり助左衛門死に侯

一 或下々身をしちにおき相果侯に其死侯下人兄之何某に夢に來り早々身之代主人に相拂くれ侯へ殊外(コトノホカ)苦に成侯と申侯仁田子村源四郎此事仁田子(ニタゴ)村に有之侯事と慥(タシカ)に申聞侯(小者源四郎申侯)

一 明暦二年(1656年)八月十六日之夜夢に人來りて濁赤には生甘草一味妙藥とつける

一 萬治元年(1658年)二月十七日に邊田見(ヘタミ)村彦七と申者之馬石子うむ大小石六つ

一 寛文元年(1661年)五月二日の當所古寺養壽院舊跡(キュウセキ)に罷在侯源左衛門と申百姓に其居侯山よりうさぎ舌をまきくり出しくるしげなる有樣にて源左衛門になれなれ敷(シキ)より侯を源左衛門見ておのれは舌に何ぞたてたると見江(エ)侯いで/\見てとらせんと申侯て舌を見るに大きなるいげの小枝したにつけて罷在候を漸々(ザンザン)の事にとりくれ侯へば尾を打ふり山に入侯を直に源左衛門咄し聞申侯
犬御法度なき時の事たかの飼在中より出し侯時の事也

一 別册に犬之ゆうれい子を持侯と計書侯かるが故に書出し侯寛文二年(1662年)の二月一日に當時之百姓庄左衛門と申者之白犬御鷹之飼犬に當所惣左衛門と申百姓彼犬をひき犬討之所に參慥に犬討にうたせ其役勤仕廻罷歸侯然ば其庄左衛門が白犬庄左衛門所へ參侯に付其犬をひき熊本犬討之所へ惣左衛門如此と申侯へば惣左衛門申侯は正(マサシ)くうち殺し侯と申に付庄左衛門不思儀千萬に存侯に此犬庄左衛門が屋敷之林之中にぬかぐら作り置侯其ぬか藏にて白き子を三ツ持侯皆仁人見申侯乍白毛はい色の白き子にて侯に持侯子犬子にては侯へ共然々物だつべく犬子とも不被申侯一兩日中に母犬も犬子もいかゞ成侯哉不相知侯定て此犬はらみたるにて此ぬかぐらにて子をうむべしと思ひ罷在侯念にて死後にかくのごとくとふしぎと見る人々自分皆々申侯

一 寛文四年(1664年)ほうきぼし出る翌年まで

一 萬治二年(1659年)之十月守山八幡宮社邊(アタリ)に罷有侯百姓之忰(セガレ)熊本へ小者奉公仕居侯に十月は産神八幡宮之十月廿五日之神祭に參侯はんとて主人に斷申侯て罷歸侯に道にて無量の子共(コドモ)集りいざ/\相撲を取べきと何人ともしれず取懸り侯に精をもぬけ氣心うせ侯樣に成侯處に向ふより大小をさゝれし侍見え來竹の先におびをゆひつけ其おびに小石をゆひ付け幼兒がばんほふとてもて遊ぶ物之樣なるをたもり是にて取懸る子供を打はらひ/\致侯はゞのき可申ぞとて給りたるををしへの通りにふりまはし/\せしにひとりうせたりうせ皆見えず成り侯彼倅(カノセガレ)罷歸り此旨父母に申聞侯を八幡之法印是を見聞被有ふしぎに思召もて來る小竹にゆひ付し帯を見たまふに八幡神前之鰐(ワニ)口之緒にて侯産神是を使者にもたせかくのごとくなるらんと有がたし此事小熊野村常樂院慥(タシカ)に被語聞侯

一 寛文八年(1668年)四月廿四日之夜寅の時に夢に見侯は熊本長谷寺開帳侯間觀音を可奉拜とて參り侯處に厨子(ズシ)を開きて有之をづしのしきに頭をもたせ奉拜侯に木地木像之觀世音にて難有拜み侯處に觀音左之御手をづしの敷迄御さし下され脉(ミャク)を見よと被仰侯御左脉うかゞひ申侯へば又右之御手をも御さし下され脉御見せ被成侯御兩手彼厨子之敷迄御下ヶ被遊侯事夢心に扨々佛は御自由成御事と奉感慮侯に脉はいかにと難有御音聲にて被仰侯沈大に被爲見侯に付御中風(チュウブウ)かと申上侯へばいや/\風は自身に不惱と被仰侯扨は中寒哉と申上侯へば中寒は左もと被仰侯汝(ナンジ)が心に欲る藥を得させよと被仰侯奉得其意侯と申上侯とそのまゝ夢さめ侯翌日附子理中丸に抹香を衣にかけ調合侯て同氏休加孫兵衛と申たる砌右之丸藥翌日右之通に致調合翌々廿六日の日もたせ長谷寺觀世音の御寶前に任佛勅渡邊玄察御藥進上仕侯と申上佛前に差上罷歸れと申遣侯
 一切如來大慈悲  合集一體觀世音
 八寒八熱大那羅苦  大慈一人代受苦
或出家衆に右之咄いたし侯へば中寒は左もと御座候は難有侯八寒之苦之代に衆生を助けたまふ此觀音之願文なればなりとて手腹にかいて見せたまふをそら覺江(エ)ながら書付侯字之あやまり不分明ごみに御出家中寒と佛語難有と仰侯故書出侯佛に御藥乍夢進上申侯儀醫冥加難有侯

一 寶永五か六年(1708、1709年)かに毛がふり毛がおゑ侯中之院御書所樣之御詠
    天なかし地もまた久しき例には
        ふるもおふるももろしらがかな

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