【拾集昔語一】      肥後古記集覧巻廿八   大石真麻呂集
一、阿蘇大宮司公神孫御代々之事

一、阿蘇四ヶ社・四ヶの神領と申事付健軍明神之事

一、同神主公従前々天正中頃迄の御領知之事「

一、同神主公前々御家頼(來)侍仁人之事

一、永正年中阿蘇神主惟長公を菊池家の主将ニ菊池侍取候連判仁人之事

一、阿蘇神主公中古以来天正年中迄益城郡矢部へ被遊御住城候事、
  以後同神主惟豊公御名誉御高位之事
    阿蘇の御家御宝物愚老拝見申候事

一、益城郡御船古城根元之事

一、同城主甲斐宗運事

一、甲斐宗運同郡の熊の庄合戦之事、同郡早河(川)城主・同所円福寺渡辺氏討死之事

一、甲斐宗運黒田氏を被討候事

一、甲斐宗運・同宗立飽田・詫广両郡境旦花(旦過)の瀬合戦之事

一、相良氏阿蘇家の内益城郡豊田響の原まて発向之事、
    甲佐松の尾城主伊津野等討死之事、同豊田の城様子之事、
    同甲斐宗運響の原え出馬合戦相良氏を被討之事

一、田代宗伝・渡辺吉次首尾能事
     目録終

    阿蘇大宮司公神孫御代々之事
一、人皇一代目神武天皇を神倭磐余彦命と奉申候也、

一、神武天皇の太子人皇二代目綏靖天皇ヲ神八井命と奉申候、

一、綏靖天皇の王子ヲ健磐龍命奉申、阿蘇明神一の宮の御事也、

一、健磐龍命ノ御子惟倉速瓶王命ト奉申候、

一、速瓶王命の御子惟倉命ト奉申候、

一、惟倉の命より神主公御初代ニて御座候、

一、阿蘇二の宮を阿蘇都媛と奉申候、草部吉見明神の御事也、
      惟倉公   成兼公   成輔公   高正公
      高軌公   友則公   友兼公   惟兼公
      惟風公   利名公   頼高公   成時公
      則高公   惟教公   惟文公   惟氏公
      忠行公   惟峯公   友助公   惟顕(アキ)公
      惟保公   遠明公   宗延公   惟清公
      友利公   友成公   友仲公   頼元公
      惟助公   惟親公   惟信公   惟通公
      惟満公   惟遠公   惟雅公   惟綱公
      惟員公   惟行公   惟真公   惟貞公
      友孝公   友実公   友房公   惟俊公
      惟宣公   資永公   惟泰公   惟次公
      惟義公   惟国公   惟直公   惟時公
      惟澄公   惟村公   惟郷公   惟忠公
      惟歳公   惟家公   惟乗公   惟長公
      惟豊公   惟将公   惟前公   惟種公
      惟光公   惟善公   友貞公   友隆公
     (テル)
右神武天皇ゟ友隆公迄七十三代

阿蘇四ヶ社・四ヶ神領と言事、健軍宮明神之事有増
一、阿蘇明神・甲佐明神・健宮明神・郡浦明神、是を四ヶ社と申候、

一、阿蘇三百五十丁   南郷 八十町

一、甲佐三百五十町   堅志田八十町

一、郡浦三百五十町   網田 八十町

一、健宮三百五十町   津守 八十町   是を阿蘇四ヶ神領と申也、

一、健宮明神は阿蘇明神ニて被成御座候、阿蘇にて東に向立せ給ふ事は王城鎮護のため、健宮ニて西に向立せ玉ふ事ハ異国しらき(新羅)をのそけたまハんとて、東西右の通に跡を垂給ふ也、

「阿蘇の神主公従前々天正中ツ頃迄の御領知之事」
一、宇土郡の内郡(こう)の浦三百五十町・網田八十町

一、詫广郡の内健宮三百町

一、飽田郡の内正保・深海(しんかい)・蛎ノ江・国町、合四十五町

一、玉名郡の内日置八町

一、阿蘇・南郷・菅の尾・小国、惣の数千町

一、益城郡甲佐三百五十町、堅志田八十町、小川百廿町、鈎野(つるの)四十五町、津守八十町、中山八町、海東八丁(?)、小熊野五十五町、砥用七十町、御船五百四十町、守山八町、木山三百五十町、熊無田の庄千丁、小野百丁、萩の尾十八町、豊福三百五十町、諸富(もろとみ)千丁、七半済(なゝはんさい)早川十八町、津志田・田口・中山・吉田、在々合五十五町、豊田九十町、六ヶ百六十町、矢部四百貫分百四町

一、薩广国ニて伊豆守一跡

一、筑後国ニて穂波郡

一、豊後国ニて井田・太宰・青野・山田・家中(かちゅう)・坂田

一、日向国ニて鞍岡二町、右の通天正年中迄阿蘇神主公御領知ニて御蔵納、其外そこ爰城主・其外御家来の侍に被下候也、

「阿蘇殿天正前三十年天正十四年比落去の砌ニて御家直参侍仁人之事、大名・小名組荒増」
矢部岩尾野城代、后御舟城代

甲斐大和守親宣       甲甲斐民部太輔親直入道宗運

甲斐相模守親秀入道宗立  村山丹後守     柏治部太輔

仁田水長門守       迫三河守      関上総守

野尻豊後守         西越前守      西加賀守

恵良筑後守         東遠江守      上嶋彦八郎

小陳刑部小輔        南左京太夫     犬飼備後守(愛籐寺城代)

黒仁田豊後守(岩尾城代)  北美濃守      甲斐将監(勝山城主)

早川越前守吉秀(早川城主) 早川越前守秀家   早川丹波守秀貞

渡辺右衛門太夫吉久(南早川城主) 渡辺軍兵衛吉次  甲斐相模守

甲斐能登守        甲斐志广守     甲斐無弼(むきゅう)

田上右近         中山若狭守     西左衛門惟安(堅志田城主)

村山治部少輔       中山衛門尉     伊津野三河守

木山備前守惟久(木山城主)万治丸八千左衛門  田代宗傳

甲斐正運(竹宮城主)   光永左衛門尉    南坂梨右衛門尉

北坂梨内蔵人       坂梨孫太郎     西源兵衛

甲斐右馬允(隈庄城代)  野尻忠左衛門    玉目丹波守

今村蔵之助        高森伊与守     北里加賀守(北里城主)

高森三河守        村山刑部少輔    市下山城守

竹崎与左衛門              二千石九郎左衛門  関右京太夫

長野蔵之助        野原権五郎     下田左京太夫

竹原甚五右衛門      豊福丹後守     篠原後藤次

小野武蔵守        大野天進      早桑良治部

小野屋丹後守       中村忠五郎     小倉美濃守

小嶋五郎三郎       野中出雲守     今村隼人

阿蘇品下野守       瀬田彦三郎     井田長門守

三宮近江守        横田阿波守     蔵原志广守

三河嶋弥八郎       野中出雲守     湯浦九郎三郎

井旦僧景         北里将監      小境板景

久家百熊丸        佐々原後藤兵衛   串野玄番允

目丸遠江守        草壁左衛門         菅原弾正忠

鞍岡勤七         大野民部少輔    海東伊織

野部左近         蘇生主水正     中嶋左馬允

中村右近         中嶋右近      砥用出雲守

林喜一郎         向山三郎左衛門   大山田源左衛門

鈎野民部少輔       栗野修理      山田金左衛門

原常陸守         野部右近      海東右馬允
 山西越前守    近見隼人    久木野備後守  田代半十郎

荒木次郎右衛門  郡浦五郎三郎  大矢野主馬介  栖本権之進

松崎兵太夫    井日向守    橋本将監    高橋帯刀

早楠権五郎    大河清太夫   広瀬豊後守   今村六郎次郎

阿蘇山城守    四桑四郎    伊津野十郎   舟津式部少輔

白石次郎太郎   光永又四郎   鳥子若狭守   光永孫三郎

弁﨑安芸守    高森摂津守   村山右衛門尉  坂梨又五郎

小陳玄蕃允    光永中務    北北五左衛門尉 下城采女正

石井遠江守    野中孫二郎   北里安芸守   喜利子次郎太郎

三宮源次郎    二太夫松次郎  井手三郎四郎  井手孫二郎

中崎孫九郎    小嶋五郎二郎  小陳伊豆守   竹原下野守

今村六郎     今村宣五郎   岩下三郎    久家太兵衛

瀬田彦六     今村新三郎   瀬田三郎四郎  原二郎太郎

三ケ嶋弥八郎   横田新左衛門  今村四郎三郎  竹原民部少輔

鞍岡八郎     石野六郎    堀左京進    続安芸守

久木野因幡守   田上三郎次郎  久木野隼人   内野江兵庫頭

向山次郎衛門   三宮近江守   大山田源右衛門 吉田左衛門 

蒲生原二郎五郎  三宮掃部    田上新左衛門  匠随子助五郎

今村新五郎    今村三郎    今村塩市丸   大戸孫太郎

倉原犬坊丸    湯浦九郎三郎  今村太郎四郎  下田山城守

原常陸守     田上甲斐守   光永三郎左衛門 荒木若狭守

下田源右衛門   相良主税    脇川備前守   瀬田周防守

菅弾正入道    高柳又八    今村左馬助   三宮民部丞

井手掃部     長野出雲守   高吉尾張守   高森信束

北里三河守    北里左馬之助  北里亦介    村山善五郎

山嶋孫太郎    林喜市郎    北里太郎左衛門 田代半七

北里大蔵     下城乗行    下城右近    下城采女正

下城九之助    下城四郎兵衛  伊津野太兵衛  田上備後守

田上周坊守    津々良隼人   甲斐守昌(隈庄城代)甲斐親房

甲斐親秀     砥用丹後守(馬入城主)

甲斐宗運内
  甲斐伊勢守    同武蔵守   下山勘解由左衛門
  栗林伊賀入道   緒方喜蔵
  井芹加賀守    同氏河内守

早川越前守内     佐渡大学   同能登守
                           同修理

林山家人       堪渕甚喜   同大和   鹿ノ末安芸守
甲斐右馬允守昌内   甲斐帯刀   同運天   北之里内
           北之里与三兵衛

伊津野内       江原雲晴   伊津野四郎右衛門

右の又内御陳中ニ度々阿蘇殿の御用ニ罷立候故、御目見へ御礼直の衆同前ニ申上候也、
右書出に仁人ハ阿その御家の侍達ニて候、
阿蘇の神主惟種公、益城郡矢部の御所え被遊御在館御善世の砌ハ、遠近を不論毎月朔日(ツイタチ)、十五日の御礼ニ矢部ニ相勤をり申候、旨申伝候、矢部へ被遊御在城の分ケは書出べく候、

【永正年中阿そ神主惟長公を菊池大将ニ取持可申との菊池家の仁人願候故ニ惟長公菊池へ被成御座候へ共御逗留(トウリュウ)は不成候、其砌菊池家名の面々連判の写】

一、永正二乙丑年十二月日  城上総守頼峯

隈部式部少輔武治     赤星弾正忠重規

内空閑備前守重載     田嶋右京進重実

小森田安芸守能世    内田遠江守重国    長野備前守運貞

立田伊賀守重雄     窪田大和守為宗    隈部和泉守宗直

鹿子木民部左衛門貞治  御宇田上総守重直   長田右衛門尉武秀

長田刑部太夫重綱    立田小太郎重治    城大蔵少輔敏峯

隈部豊前守貞明     吉田左衛門尉公世   北山城守公村

隈部源兵衛守治     関部新左衛門尉朝家  内田右京進重貞

小森田伊津豆守朝右   内空閑二郎左衛門朝具 瀬田新左衛門尉惟夏

山北掃部助景直     若黨源兵衛忠通        隈部弥十郎晴平

赤星右京助惟清     臼間田又十郎武益   高倉図書之助俊直

相良式部少輔朝長    竹崎右左衛門尉惟忠  竹崎兵部進惟直

赤星飛騨守房継     吉田新十郎公陳    関将監公頼

高橋薩广守朝乗     古閑山城守貞載    長野清左衛門尉運俊

阿佐古清左衛門尉能世  内空閑周防守朝誠   小森田加賀守高直

平山十郎太郎能世    隈部右馬允重門    合志蔵人少輔隆烽(峰か)

小山十郎三郎運貞    関部万龍丸      小森田四郎兵衛運清

窪田式部丞重宗     山井丹後守頼直    赤星大蔵少輔重直

隈部新兵衛頼夏     城弥七郎昌峯     御宇田山城守直貞

佐藤日向守重秀     鹿子木式部丞房員   内窪(空か)閑神十郎運直

合志掃部助隆久     馬見塚籐左衛門盛秀  出田六郎貞峯  

佐野伊豆守朝経     多比良出雲守朝道   内田右衛門尉長籐

立田刑部少輔武実    赤星安芸守道継    馬見塚新左衛門尉長行

平山中務少輔秀直    若薗源右衛門尉忠村  竹崎六郎左衛門惟次

馬見塚左衛門尉盛峯   中村対馬守継世    大河内和泉守氏直

田中弾正忠朝宗          竹崎図書之助惟秀

右の連判、あそ殿え御座候を前々写おき候を書出候、

「中古以来あその大宮司惟種公迄益城郡の中矢部ニ被遊御在館候ニ付色々之事」

一、益城郡の内矢部犬飼村ニ有之候古城を愛専(籐か)寺の城と申候、彼城ハあそ神主殿前々御築被成候由ニ候、天正中ツ比国中一同ニ令落去、其比は犬飼備前守と申仁阿そ殿の御家臣ニて御城代仕居被申候の由、かたり伝候、

一、同町頭ニ有之候古城は岩尾の城と申候、此城も前々あそ殿御座被成候御城の由ニ候、此城も落去ハ右同前ニて候、あそ神主公ハ右書出候通あそ明神の御神孫にて被成御座候、神書ニも肥後国を最初ハあその国と申候て有之候由承り、就夫あその明神を国造の明神共奉申候由申語伝候、然は神主殿御善世天正中ツ比迄は、彼岩尾の城番を黒仁田豊後守と申に被相勤居候由申候、其前廉ハ甲斐大和守新(親)宣(宗運)と申御家老御城番被致の由ニ候、黒仁田氏分ケ候て滅亡被致候、其跡は阿そ家の御家老中替ル/\被相勤候由ニて、彼岩尾の御城は御要心ニ能城と御座候て、従阿蘇被成御座候て中古より天正のとしうち迄、惟種公彼御地へ被成御座候、夫故ニ御家老衆替ル/\に御城番被勤候て、神主公は彼御城辺ニ御陳の内とも浜の御所・浜の御屋形共申候所に被遊御在館候て被成御座候、彼御城の近所に浜と申村も有之候、然共御陣の内ハ其村の内ニては無之候得共、矢部は海辺遠里ニて浜と申事矢部ニては珍言故、御座候処を右の通ニ申候由御座候、浜の町なとゝ申来候事も左様の由緒と語伝候、如此伝益城にも然々無之候と見へ申候、惟種公迄右の通ニ彼処に被遊御在館被成御早世、其儘其砌令乱国候ゆへ彼城も天正中ツ比致落去候、彼城ニハ右の通ニ御城番被相勤居候て神主公を守護被申候由ニて、浜の御前神主殿被遊御安住、岩尾の城ハ右の通ニ御座候へつると、乍恐たゞ今御花畑に通ニて御座候半と奉存候、右の城の落去致候て、加藤主計頭清正公・小西摂津守行長へ南北半国づゝ、従秀吉公様御拝領被成候ニ付、矢部ハ小西行長領分被成候由、然は右の愛東(籐)寺・岩尾両城番ニ、従行長結城弥平次・大田市兵衛と申侍頭両人ニ与力の侍被差添被遣置候、岩尾城は平人罷出候事不相成候てさたなしニ、其砌各愛東寺迄ニ被罷在候由語伝候、右の備頭両人共ニ二千石取ニて候、右の通与力衆も手ニ付御城番被召候由ニ候、与力の侍衆ハ、五百石土橋掃部・三百石平地源右衛門・三百石石嶋沢市右衛門・三百石中小路三衛門・三百石速水七左衛門・同後藤三五兵衛・同田部平右衛門・同横田勘衛門・同加々山次郎衛門・同岡平衛門・同天木庄太夫・同小野田弥右衛門・同吉田木右門
此通ニ城番の由ニ候、然ハ小西氏滅亡以後従 
家康公様、清正公え肥後国をふさねて被為拝領候砌、右両人の侍頭を清正公被成御抱候て、城番頭ハ被成御替別条ニ被召仕候て、城番ニハ長尾豊前守・加藤万兵衛と申御侍頭、何れも知行三千石取に彼番頭被遣候て、与力衆も同前ニ被成御抱候、与力衆ハやつパ前々の通ニ被成御付置候、然共その以後古城々被成御立候事、従天下様御禁制と被仰出、古城々山野、或山畠と成果候、清正公・行長へ肥後被為拝領候事、清正公の一国ふさねて従 家康公様拝領の分ケ後筆ニ可書出候、

一、阿蘇の神主公ハ右ニ書出候通ニ御神孫ニて、殊更前々ハ御大名にて、乍其上高位高官の御家ニて御座候、右ニ書出ハ前々の御領知を当分石積ニ致候ハヽ三、四十万石も可御座候、然は神主殿御代々付ニ御座候、惟種公ニ其砌の帝従 後奈良院様、御内裡ニ御修理を被成御勤候て被成御献上候様ニとの就 御勅定、右の通の領内を被成御勧進、金子ニ御ふさね被成候て、其比迄ハ海陸共ニ人心不可然候ゆえ、矢部ニ当分まても有来候天台寺・福王寺申候、彼福王寺其砌の住持法印ニ被成御持せ御献上被成候て被御調上候、以の外被遊御叡感、烏丸どのを 勅使ニ矢部浜の御所へ被為差下、惟豊公ニ悉クも従 後奈良院様 御勅筆被為御頂戴、惟豊公矢部ニ乍御座有従二位の御位階被遊 御勅定候、綸旨・口宣、其外御公家衆より被為進候御書、愚老此前御病用ニ被召阿蘇友隆候様へ伺公仕候砌、被成御免身を浄メ頂戴仕候て奉薫誦冥加の至、天山難有奉存候、ケ様の御事はあそ家頼の末孫/\ニ有之儀ニてハ無之候、大形ニ被致間敷候、愚老儀は曾祖父渡辺奥ニ書出候通ニ、永禄八乙丑年三月十二日ニ、熊の庄舞の原ニてあそ殿御用戦合ニ被致討死、家伝子同氏軍兵衛愚老か祖父、相良義陽の侍頭豊永籐次を討取、阿蘇怨敵の井芹大将かゞの守を討取、此後筆ニ可書出候通ニ、惟光・惟善公御両殿の御母上様ニ付廻り御奉公を勤、佐々成政公へ肥後国侍一揆を起したる砌も、名誉なるのちづめ各同前ニ致シ助城仕被申候事、是皆神主公ニ被奉伺たる事共候、ケ様の自然の道理にて被上候、軍兵衛吉次の伝子愚老か実父渡辺吉政入道号休巴、右先祖以来神主とのへ年々当年迄も年始の御祝儀闕シ不申候、左様の分にて神主殿御一家の中にも不被成御免拝、御宝物を御拝せ被成候、前々御旧例とは乍申、友隆公両度拙宅へ被遊御出候も、古今怠慢不致右の通故ニて御座候間、此旨を被相守候て、愚老無ク成候迚(とて)も年ニ一度づゝは阿そ殿へ御礼可被相勤候、軍兵衛吉次忠節の段々後筆ニ可細書出候、扨又右の御宝物迄ニ限不申、一同ニ被成御見候色々有増書出候ニ、如此の御宝物奉拝候事ハ天和元年辛酉二月十一日ニ奉拝候、此段は珍事ゆへ書出候、

一、忝も 御奈良院様の御勅筆・御綸旨(リンジ)・口宣

一、右同前に従御家衆神主殿え被為進候御書

一、あそ神主様の御由来の御文字色々

一、神主殿ハ阿そ明神の御神孫慥成御由来の書立

一、阿蘇の御社家衆の由来書

一、神主どの御代々御頂戴被遊候綸旨・口宣、百ニ及奉拝候

一、正平の年中ニ薩广の国主をあ蘇殿え被遊御勅許候との御綸旨

一、阿蘇山衆従大宮司諸下知相守候へとの綸旨

一、同衆徒中ゟ(ヨリ)大宮司の御下知背申間敷との連はん書物

一、阿そ四ケ社の神事無怠慢大宮司勤候へとの綸旨

一、大宮司ニ九州を引卒し鎌倉へ責上り逆徒を可令追罰候との綸旨

一、高氏・直義逆心を構候間不日ニ責上追罰候へとの御綸旨

一、頼朝公より被進候御書

一、北条殿御代々ゟ被進候御書

一、新田左中将の御書并絹の切レニ御書被成被進候御手紙の御書

一、直冬公ゟ被進候御書

一、今河了俊公より被進候御状

一、筑紫少弐より被進候御状

一、大友殿より被進候御状

一、薩广嶋津とのより阿蘇宮へ御願書

一、あ蘇ニ可被成一味との相良殿の書物阿そ宮ニ被納候書物

一、下野の御狩の御絵図
右の御数々奉拝候、此外色々御宝物・馬ノ角なとをも見申候、為後覚書出候、

一、惟種公ハ当友隆公の御曾祖父ニて御座候通り、天正中ツ比迄は岩尾御城・浜の御所へ被成御座成候、然は惟種公ノ御舎弟を惟前公と申候、彼惟前公ニ先々御親父従惟将公御神主職を被成御譲候、然れ共御乱心ニ被為成候故ニ、御舎弟惟種公へ御神主ごゆづらせ被成候て、惟前へは砥用・中山・甲佐、在々ニて過分の御知行被進、甲佐伊津野居城松の尾の上、当分迄も御陳の内と申所の三、四丁四方も可有之平地一面の所、当分迄も大堀有之候処被成御殿作御安座御館被成候、甲斐宗運取持被申候て御兄弟の御中、めて度様ニ道の道を諌言被申上居候故、矢部・甲佐目出度御両殿えあ蘇御家人群集致、無事ニめ出度相通り申候由ニ付、然弟惟種公ニ若君御両人御誕生御嫡子を惟光公、御次男を惟善公と申候、


 「御船城根本之事 御舟当分古城也」
一、益城郡石津の郷甘木庄御船の古城の城名を御船ノ城と申候、彼城地を御舟と申候は、太古従大国 日羅(ら)と申法師日本へ仏経を被渡候砌、被乗渡候船の由ニ候、其ふねいご(船以後)山と成居候を前々城ニ築き初させ候由語伝候、就夫城名を御舟と云、町在々なとも御舟言ならハし候と語伝候、定て日羅法師の被渡候砌迄ハ御舟只今の在々ハ海ニても候ハんずれ、御舟城近辺のさげなと云物ニ一艘二艘なと云さげ名共有之候得ハ、扨(さて)は船三艘も被渡候ハんや、然レハ御舟を三舟と書習し可申事と存候、然共右ニ書出候阿蘇殿前々御領知付ニ御船五百四十丁と書候て有之、旧記ニ御舟と書出候有之候上ハ、御舟と書候儀勿論ニて候、日羅の舟の儀紛無之間敷候ハ、和漢合運図年代記ニも日羅の船肥後ニ着と見へ候由有(成)ル仁被申候、殊ニ飯田山は日羅の開基ニて、日羅の被渡たる仏像なと縁起の飯田山ニ有之候由ニ候、飯田山下の御舟とて候得ハ舟山城尤の事候、
「御船城主甲斐宗運事」

一、御船城主ニ永正の年中ニ房行と申悪人有之候て、其砌ニ阿そ殿不忠不義仕候故、甲斐大和守親宣と申候御家老ニ、房行ヲ討取ニ御舟城領共ニ従阿蘇殿被下御舟城ニ発向可有との処、親宣の嫡子同氏民部太輔親直、乍若輩被申出候は、自分初陣ニ是非共御舟討取候合戦被遊御免候様阿そ殿へ被仰上被下候ヘハ、達て願被申候付親直謹て願の通被下候へは、若年ニて神妙なる事を願上候、如願被遊御免と被仰出候付、親直ニ其通被申渡候得ハ、親直謹て御受被申上、矢部より御舟へ被致出陣、苦身坂の峠ニ本陣をはり、木倉御舟ニて被遂合戦、親直被得勝利御舟城を乗取、房行を討取、上下四百八の首を取、御舟の城主ニ被罷成候儀、親直智仁勇三兼の侍ニて、以後ハあそ御家の一の大老ニて所々ニて度々の合戦ニ打勝、四百ツ(八か)ヽの首を度々一世中ニ取被申候て、国中ハ不申及、九州の御や形様とかしつき申たる大友とのへ直参の城主衆ニも異見・教訓を仕候へば、従大友殿被仰付たる仁にて候、乍其上日本にも令顕名、阿そ家の惟の上字を被為免候て、老期には惟親と名乗被申候由ニ候、

一、親直被致入道号を宗運と申候、阿その家天正中ツ比迄は御善世故、彼宗運ハ一の大老ニて薩广方の坊(侍か)大将ニハ彼入道、肥前・筑前・筑後の同断ニハ木山・下陳・健宮城主達、宇土・天草・球广方の同断ニは熊無田の庄城主、豊前・豊後方の同断ニは両坂梨・高森・北の里・下の城、日向方の同断ニは仁田水・犬飼・黒仁田、右の城主々大老宗運の下知を請、右の通被相勤矢部浜の御所を守護被致候由ニて、

一、甲斐宗運ハ阿そ二の宮の化人と申伝候、其分は親宣の内方毎朝阿蘇明神の閼(ふさぐ、あつ、えん)伽(か、とぎ)の水を奉供、願クハ顕名仕候ハん男子を出生仕候ニて念願被仕居候て、被致出産御子息則宗運の由ニて、宗運誕生の日、阿蘇二の宮の妙戸内ゟ(より)開ケ申候由ニて化身と申伝候と亡父被申候、

一、宗運一世中軍陳出馬の砌は御舟城辺ニ阿蘇・甲佐勧請候を、若宮明神山并堀内天満宮森ゟ鷹舞出、宗運旗竿の上ニ舞候を被拝候て、自身大貝を吹立出陣仕居申候なとゝ語伝候、大貝は砥用烽(ほう、のろし)の尾嶽より出候由、宗運は七尺余の大男ニて大力の由語伝候、右の大貝は二尺余廻りの由語伝候、


 甲斐宗運熊無田の庄合戦之事
一、甲斐宗運ハ子共達数多有之候由ニて、婿達も数ニて候、甲斐(佐か)松の尾城伊津野山守・早川城主早川越前守吉秀入道休雲・熊無田庄城主甲斐右馬允守昌、右の三将婿ニて、木山備後守惟久は息宗立の婿ニて宗運為ニは孫婿ニて候、然処甲斐守昌宗(衍)宗運処え参被申候ニ、奥ニ通り咄被申候の処、宗運の鎧通シのさすがを刀懸にかけおき被申候ニ、猫障り候得ば抜候て、其下ニ茶臼有之候上逆ニおとし刃さき五、六歩ほど臼ニぬかり立候を、守まさ(昌)見被申候て、以の外驚キ其後所望被申候由ニ候、然共入道被申候由ハ、安き事ニ候へ共、阿そ殿他ニ異ニ思召候故、何事も候ハヽ乍老身御用ニ立死可致と存居候処、当分遣候儀不相成候、併遺物ニ遣申へく候と被申候ニ付、其分ニて候処、守昌内方を遣候て盗被申候、昔の小鳥ニてハ無之候へ共、夫ニ類し候とて小がらす丸と名付、宗運の一の宝物ニて候を右の通ニ候、然共入道ハ其分よと何の別条も無之候処、守昌被存候ハ、入道公深々敷惜ク可被思召物を如此候上は、当分阿そ殿へ被申上無首尾者ニ可仰付候、然上ハ手替可有とて、宇土の城主本郷伯耆守と被致一味、向後は薩广方ニ可被成との約束被仕候、其段宗運慥(たしか)ニ被聞届候て以の外被致立腹、惟将公へ被申上候ヘハ、殊の外の御悪心ニて熊の庄討取可申旨被仰出候付、宗運其年中責被申候得共落城無之候故、翌年永禄八年三月ニ従阿そ殿被仰出候ハ、宗運婿共か見せしめのためニ早川・甲佐両城代并早川厳嶋宮の権大宮司・渡辺右衛門大夫吉久・同円福寺・甲佐社家共宗運ニ致加力発向へと被仰付候故、早川越前守吉秀入道休雲・承陽山円福寺住持春蔵司・渡辺吉久、城主の侍頭佐渡大学・同図書・同修理・同能登、各七十五騎、雑兵三百四人、即日辰ノ刻ニ出陣候て、巳刻熊の庄ゟ(より)半里手前吉野茶臼山一の谷頭ニ陣取候由、伊津野も同日同刻ニ着陳、侍頭ニ江原雲晴、甲佐宮の赤星一太夫・権大宮司・数人の祝部・都合八十五騎、雑兵四百余、熊の庄ゟ(ヨリ)一里手前の出水村の前河原ニ遠陳を張居候、宗運の陳処は上﨑(嶋か)村の川向ニ千原村の南坂本村方ニ被取申候由ニ候、然は宗運ノ侍頭乍其上軍法物下山勘ケ由申候ハ、早川の陳処茶うす山を先々ひかせられ、余所ニ陣取被召候様ニと存候、茶うすハひかでハ敵を粉ニなし得不申候と申侯ヘハ、宗運聞被申候て尤の事実々と被申候て、早川余方に陣処かへられ候へと被申候へ共、かへ申間敷由ニて其分ニて候、然は入道(宗運)ハ城中思ひかけ無之方より被責入被申筈の工夫ニ候所、彼城は無類の名城ニて七重の堀築地甚敷、可責入手立無之候へ共、堀内令周章、彼入道は智謀人ニて以ケ様の手立もや被致候ハんと、城中の手たれ共各宗運の責口を守堅メ居候由ニて、左候得ば前以守昌宇土本郷を頼被置候ハ、早川・甲佐各三将衆被致発向候由令風聞候、実正ニて候ハヽ急ニ加兵を頼入候ト被申置候由ニ付、本郷の執事、乍執事伯耆の舎弟本郷武蔵守を大将ニて、侍頭ニ大河六弥太・成松式部右衛門都合二百主従宇土差遣候、彼人数木原村・阿高村・塚原村(何れも現 熊本市富合町・城南町)の山辺を忍ひ、沈目村ニ忍ひ入令伏兵罷在候事、早川の軍人努々不存、宗運と刻限の約束ニ任せ、はや川(そうかわ)・甲佐両将舞の原堀部道を忍ひ、大手の一の城戸大堀迄をの/\責より申筈の処、甲佐衆遅々(近くか)ニ及候付、早川人数一手計ニてせめより候処ニ、思がけ無之沈目村ノ方より赤旗一流真黒ニ打て懸り候ニ付、休雲・春蔵司・渡辺一同ニ申候ハ、城を見捨後攻に引返し懸レ/\と、向ふ敵を振捨て宇土勢と火花をちらし戦候故、城中より甲斐運天・同帯刀、城戸を開キ令後詰候ゆへニ、前後剛兵ニて早川人数令敗北候、然共本郷武蔵守後陳ニ控へ居候処、休雲武蔵を引組、双方差違候て両人討死候、一処ニて渡部・春蔵司討死、右の通故早川人数不残致討死候、然共大将本郷武蔵守如此上ニ乍負の面目と、早川事令沙汰候由ニ候、扨早川の仁人宇土本郷より加兵の勢令詰後不残致討死候旨、入道の本陳ニ相達ニ付、宗運の陳から早川衆討死の所迄は十五、六町程も可有之ニ、本陳には田代を被置、不断の逞兵二百騎程ニて飛鳥の様ニかけ被付、大河・成松沈目村の林を小かけニ致し息を休め控え居候ニ、真一文字に鑓をいれ被申候ニ付、以外左行右行ニ成候処、宗運領内山出村大武明神の社人田上周防と申者大河六弥太を討取候、同村地侍井芹河内と申者成松式部左衛門を討取候、両侍頭如此ニ付本郷勢敗北、不大形沈目村の沼田ニ迯(にげ)入かけ込み、見苦キ死を致候者多く不残討取被申、宗運被申由ハ、自分手を砕キかほとニ戦候事今迄ニは多ク無之と被申候由ニ候、帰陣の上ニて入道被申候は、自分は天道冥加ニ相叶武運つよき者ニて候、其子細ハ宇土勢と令一戦候処を城より令後詰候ハヽよほとの可令難義候ニ、兼々入道ニをぢはぢ致候故左無之仕合ニて候と被申候て被致一笑候などゝ語伝候、さて又甲佐人数河原よりかけ上り本郷勢の後詰仕被申候ハヽ、早川衆敗北の義ハ念もなく得勝利可申候処、違陳を取早川衆を令見殺候段不及是非候とて入道以外被致立腹、甲佐え人数を打捨可候申やと被存候由ニ候得ば、却て熊の庄ニ利を得させ可被無是非と被存、致堪忍用捨被申由、入道其以後折々被申出候由ニ候、然共此段惟将公ニ被申上候ヘハ、殊の外被遊御立腹伊津野ニ切腹可被仰付候へ共、彼者ハ村上天皇の御末葉ニて御綸旨を頂戴仕候分ケ有侍故死罪は被遊御免候、併御追放と被仰出、天草へ被遊御追放候、然処あそ家の仁人は不及申、阿そ山・亀甲山・飯田山、其外諸出家衆矢部へ被致列参、伊津野本領安堵・帰城御免の御訴訟被申上候ニ付、三年目ニ被遊御免許被致帰城候、其城の悪名無是非存られ、相良発向の砌にハ不及籠城出陣、背水の被致陣取一足不去討死被仕候半と、其有心の仁人致取沙汰候などゝ語伝候、
一、早川休雲嫡子秀家・渡部吉久嫡子又太郎・次男孫四郎・円福寺小僧善忠、彼者共御用ニ立討死仕候跡ニて悪ク被仰付間敷候、急度宗雲(運)承ニて可被仰付候との御事ニて、忌中ニ御目見ハ不被仰付候との仰出ニて、追付ケ宗運承ニて秀家を越前守ニ仰付早川城領共に如前々被為拝領候、其上金子亡父(休雲)供養のためにとて被下難有入道ゟ(より)御礼被申上候、又太郎も前々の通ニ権大宮司役知行被為拝領候、其上同郡御舟木倉御蔵納の内しと・きよつじ二名御加増被下、両人共ニ今度吉久御用ニ立死候御褒美ニ、御殿中ニて傘履被遊御免候と被仰出、眉目過之不申、其砌是而己令取沙汰候由ニ候、其砌ハ御老中衆も右の通候段ハ難成候由と語伝候、円福寺小僧儀は無学無能ニて乍罷在後住被仰付、前々の通寺領被下候との仰出、何も宗運処へ呼寄右の通を被申渡候由ニ候、又太郎・孫四郎、十五、十七の時ニて、申老臣・籐次郎と申候中老、彼等両人ニて守立候由ニ候、下人頭に源五と言者有之由ニ候、百十ノ上ニて死候由、亡父若輩の比(ころ)迄存命せしめ、其砌の咄共亡父ニ細々仕聞せり候と亡父語被聞候、籐次郎ハ糸田村ニて死候、忠兵衛が祖父ニて候、玄蕃ハ早川ニて死、理右衛門が祖父の事ニて候、扨又円福寺の弟子善忠十六ニ成被申候時ニて、師匠の陳立ニ付そひ被参候て、各合戦の時は鑓をふりかたげ、麦畠の中ニ忍ひ居候て見居候処、円福寺・渡辺は休雲討死後ニ八人を相手に切合被申候処、三人は○(この○は討被申候て)五人と成申、又あひてになし戦被申候内に渡部吉ひさ(久)被致討死候、其跡に三人ニ成候を春蔵司あいてとして切合被申候内に、春蔵主討死被召候ニ、両人ハ立去候処、一人相残り師の首をかきしを善忠見すまし、麦畠より無二無三ニ走り寄り、鑓ニてたゞ中を突通シつきとふしおき、鑓ハ打捨置、師の最後迄被持居候長刀をおつ取なく/\迯(にげ)さり、不(府)領村ニ円福寺の末寺有之候ニ走入死をのがれ、早川の様ニ帰候と、善忠亡父なと又ハ其外当所の老共にも語聞せり被申候と亡父被申候置候、亡父目水をたれ、昔の乍事残念ニ候ハ、円福寺・渡部両人ニて八人を相手に致し三人を討取、五人を相手に致し両人討死は扨も大手柄ニて有之候へは、入道(宗運)も見不申、早川人数各討死せしめ候故見候人も存候人もなし、善忠の咄迄ニて無是非はたらきと申候て、百年余の後に無念がりをり被申候、渡部は武士ニても候、春蔵司右の通不思儀と父亡善忠ニ被申候ニ、善忠咄おり被申候ハ、師の坊ハ五尺の屏風立物を外ニ立候て長刀をつかひ飛こし、たてもの屏風のふちニ上り歩ミ候て長刀をつかひ居れ候と、善忠被申候と亡父被語聞候、彼長刀を善忠右の通りニ被持帰候を、円福寺本尊当分まても御座候弥陀木像のわきニ立おき、何等も被召置候由ニ候、然は天正年中国代落去一同ニ寺社も同前ニて、円福寺寺領共百姓高成小西領分ニ成候時分、渡部三蔵と申侍の知行ニ右の寺領も成候故、円福寺を山の中に迫入候て寺地を屋敷に被致在宅被召ニ候、左候て彼長刀を見被申候て被致押取、小西とのへ上申候ニ、正身の正宗ニて行長一の重宝になり申候由、亡父咄被聞せ候、柄入かまのえびしりノ様ニ打まげ候て有之由ニ候、急用ニ正宗作り候時うちまげニ作り立候ニ如此有之候と、其比申たるなどゝ亡父咄被申候、

 一、惟将公、甲斐入道ニ被仰付候ハ、健宮正運は元来其方が一家ニても候、軍慮も宜候間、彼者を同陳ニて熊の庄乗取候へと被仰出候、其段即正運へ被申聞候得ば、謹て被奉得其意、両将出陣被致御舟川・水泉寺川ニなれたる河達水鍛(錬)造共を忍バセ、浜戸川を夜中ニわたさセ城内に令放火、漸クもの事ニ都合三年目に被致落城候由語伝候、宗運数度の高名他国迄も被致顕名候弓取ニて候へ共、三年目ニ右の通尤の事と申候、其分ヶハい後小西行長領分に成候故、彼熊の庄城を一覧候て目ニ付、居城ニ可被取立と被思召候得共、城辺薪山を可被仕立の地無之とて用捨の由ニ候、其後加藤清正公肥後ふさねて被遊御領候砌、此城被遊御一覧、前々より御目ニ被為付候由ニて城ニ又御取立可被成と御座候へば、城辺に薪山地無之候とて被遊御用捨候、然共小西領分の砌ハ舎弟主殿佐を城番ニ被遺置、大形城分ニ成居候由語伝候、

一、先筆書おとし候、右の円福寺善忠ハ生所中山内九尾村ニて候、当時作左衛門・七左衛門・木左衛門・玄左衛門、当分御百姓相勤罷有候、彼者共曽祖父ハ吉慶と申者の叔父ニて候、

一、早川城主の侍頭佐渡大学・同図書・同能登・同修理、彼仁人の子孫、当分矢部の内佐渡村ニ百姓と成罷在候、早川村と彼さわたり一村同所の分ヶ後筆ニ可書出候、

【甲斐宗運黒仁田氏被討候事】
一、岩尾の城代黒仁田豊後守ハ、甲斐宗運の嫡子同相模守親秀入道宗立の舅(しゅうと)ニて候、然処彼豊前守あそ家の後家老分の仁ニて候ニ、あその御家を背き日向国伊東ニ随意(身か)有之旨宗運聞届被申候、去とてハ不忠不義不及是非候討可申候との事ニて、娵(よめ)の宗立内方ニ被申候ハ、其方が父豊前守は阿そ殿を背日向伊東ニ随身の旨慥(たしか)ニ聞届候、爰元(ここもと)え呼よせ可討候、かわごぜも可致一味候哉、有躰ニも申出候へと被申候へば、娵(息子と結婚した女性を親の側からいう語、息子の妻)被申候は、扨は左様ニて御座候や、及是非不申候、代々の主君を被奉背無法の仁を親と存可申様無之候、急キ御討可被成候、味方可仕様も無御座候と申候へば、入道機嫌ニて、扨々能言たり/\、尤の事、扨(さて)ハ誓言を可聞候と被申候得ば、有之と誓言被申候付、黒仁田一家中不残幕下至迄、豊後守同前ニ御舟川狩遊ニ令招受、日を定呼受被申候て、大将の黒仁田豊後守一人宗運奥座敷ニ通シ、飯後ニ手討ニ豊後守を被討候て、一ツ貝ヲ吹被申候と一同ニ亭々客々ヲ討候へば、御舟城下九十九小路中ニ被申渡置何某は何某所々と宿割被申付置、右の通ニ一ツ貝ヲ合図にて各一同ニ客々を討候由ニ候、如何の知略故入道の家人ヲ一人も不損上下四百八人即時に討取被申候、宗立内方尋常ニ衣文刷ひ罷出、入道ニ扨々御本望不過之候、わらハも大悦此事ニ存候と祝詞を申てから/\と打笑、目水一滴落シ不申と語伝候、

【甲斐宗運・同宗立丹花(旦過)の瀬合戦の事】
一、天正中ツ三月十七日ニ甲斐宗運・同宗立、飽田・託广の境丹花の瀬ニて無類の合戦被致候、高名分ケハ河尻・鹿子木・隈本・宇土・高橋の城主々元来豊州大友殿幕下ニて、殊更甲斐宗運阿蘇殿の大老ニて又内の侍ニて候得共、大友の他ニ異ニ被思召肥後國ノ仕置そこ爰ニ冝ク御頼思召との事共ニて、隈部・合志何等も宗運とハ無他事語らい被申の処、右の城主衆思い/\心々ニ成被申候て豊後を相背き、密々薩广・肥前心々ニ被罷成大友義統公ニ不忠ニて候へ共、阿蘇との計豊州方ニて御座候を右の城主々猜(さい、そねむ)被申候て、阿そ家計如此のだん見苦候、阿そ家を可被亡と内談有之由を甲斐入道慥(たしか)ニ被聞届、不移時日八千町を催、大将分/\八千人・入道手勢三百騎、父子大将ニて明後日出陣とて御舟城々代迄ニてハ無心元候間、孫の早川越前守秀家今度御用の陳立同前の勤ニて候間、御舟ニ被罷越為悪(要)心被致入城可給候、早川の用心ニハ、一家ニて候上は渡辺孫四郎被致入城宜候との使者、入道より被差越候付、秀家祖父と云イ大老の宗運と申味方と被存候ての事と云、阿蘇殿御用立同前と令申越候事、旁(かたわら)ニて無拠御舟被罷越候、渡辺吉次(軍兵衛)も御城ニ相詰候由得其意申段返事申候故、入道(宗運)満悦候て父子の入道大将ニて手勢右の上ニ、領内在々庄官等阿蘇家惣勢一万余ニて託广本庄ニ被致発向候処、隈部・鹿子木・隈本・高橋の城主々白河丹花の瀬を前ニあて各陣取候て被控候由ニ候、宇土・河尻両勢ハ丹花の瀬ニて矢合の砌宗運の跡を取切可令後詰とて、とがハらと云村の辺りに令状兵罷在候由ニ候、然而宗運父子本山のよやすと云村の小篠林の影ゟ左邑鷺矢旗を押立、無二無三ニ丹花の瀬のこなたへ人数を押寄是へ/\と招れ侯へ共、各川を渡し不申侯付、御比興(卑怯)千万是へ/\と恥しめ被申候ヘハ、各一同ニひた/\とおつひ(てカ)かけ入被申候処、甲佐・御舟の大河ニなれたる川達水練の若武者共水の浅深をも不論かけこミたくりよせ、川中ニて無双の大合戦、其外矢辺(部)・砥用・中山・南郷・菅の尾・阿蘇・小国・山野・谷坂不行自由の馬達者、各神便の様ニ戦候故、右往左往ニかけ立られ敗北、不大形後詰存懸も、川尻・宇土の軍士本所々へ迯可申筈ニ候処、追討候と存候哉、薬師町の○深渕を渡り河向なる味方ニ相加り、高橋ゟ(より)熊本をさして引取候所存の外、北目衆敗北ニて各右の通城主々おくれを取家兵大分討死候、宗運父子如此被得勝利候事ハ唯事ニ非ス、阿蘇明神の御冥加と各上下一同ニ阿その御煙を拝申候由ニ候と、今度の合戦にも入道吉例ニて四百八ッの首を取、勝閧(こう、たたかう)を上られ、上下一同食水被致候処、引取候味方を押分ケ武者三ン騎近クはせより名乗候は、我々は城の家臣木葉・平川・城の籐左衛門と申者共ニて候、我等事ハ国中に令顕名候故御聞も被成候ハん、今日致他出先刻の戦ニ不罷出御事未懸御目申候、乍慮外御父子ニ自分を不交勝負をおふき奉り度と申もあへす打て懸り候、宗運被申候ハ、扨も一騎当千の侍見事ニて候、心さしの通りニと被申候て、味方ニ先手指そ老後に花軍して見すへしとて、三人の荒手の者共と受ツ流しッ古今無双の見事ニて、終には木葉・平川を入道父子ニて討取被申候て、国中是沙汰の手柄被致候由ニ候、城籐左衛門ハかいふって迯候を、きたなしかへせ/\と惣軍勢のゝしり候へ共無難迯去(にげさり)候が、取て返しかけ来り、竹宮八千左衛門殿はおわせぬか見参せんと申候故、八千左衛門是を聞願ふ所ニ幸とて馳来り、八千左衛門罷在候と云よりはやクかけ合秘法を尽くし戦候得共遂ニ勝負なく、双方気力つき相引ニ、なんなく籐左衛門ハ隈本をさして引取候由ニ候、宗運ハ四百八ッの首を取帰陳被致候ニ、宗運事は漸ク千丁の領主ニて候得ハ、右ニ書出候通神の化人ニて候や、薩广の太守義久・肥前隆信不大形名侍、又嶋津の大老新納武蔵守乍又内日本ニ令顕名名高弓取立、彼甲斐入道ニは以外恐脚(怖カ)不大形、北目迄ハ折々隆信万騎の勢にて発向侯得共阿蘇え出馬無之侯、御舟近所迄ハ被令出陣候得共御舟城ニ被押懸候儀無之候、然は彼八千左衛門其日の合戦ニ有名の首七ッ宗運ニ見せ候由ニ候、彼藤八千左衛門各別双方気力つき相引の事、八千左衛門ハ尤の事と其比申候由ニ候、彼八千左衛門ハ其日ハ不限そこ爰ニて無類の手柄仕候故、阿蘇とのより八千丁ニ無比の軍士と被仰出、仮名を八千左衛門と被仰付、右ニ書出候通の阿蘇家武者揃ニ万治丸八千左衛門と候はこの八千左衛門か事ニて候、其砌ハ仮名・実名従主将被下候を天山の高名ニ存候由ニ候、彼八千左衛門元来ハ矢辺(矢部)の御殿近所に被罷在御奉公被相勤候か、竹宮甲斐正運事宗運ニ内縁の分ケ有故健宮ニ参往候ハんと哉と存候、宗運健宮の城主正運内縁の分ケ御筆ニ可書出候、城籐左衛門事、天正年中隈本城殿の家人籐左衛門ハ剛者故城名字を被免候、八千左衛門健宮ニ罷在候ニ、双方知ル人ニ成不申候事いかゝ敷候、然共其砌ハそこ爰と領主/\持切ニて候つる故、隈本ゟ健宮ニ行、健宮ゟ隈本ニ行候事も当分他国へ参候同前ニて、殊更其領主/\の木印札を不断ニさげ居候ハねハ、殺ししめ殺候も盗人と名付候故可仕様無之時世の由ニて、扨は籐左衛門・ 八千左衛門乍両人剛の者ニて、互ニ見参候望ハ有之候ハんつれ共、右通故初て右の通ニて候ハんと存候、他国ハ不存候、亡父不存候ニ、天正の比迄ハ大小指なから茶水酒飲たへ候由ニて、客ニ行来候ても大小さしなからあいさつニて有之候と被語候、右の通後(彼カ)籐左衛門迯候を入道家来若武者共追討可申を、入道深副心被申候て被申候由は、彼等か様成ル武士ハ敵ニても惜ク候、扨又彼者を討取候ハねば味方負候にてハなし、かち軍士なから彼者打取ルは惜し、家頼を討せ候も猶又惜候、迯々と被申候由語伝候、帰陣の上ニて阿そ殿え被申上、今度の首は大友殿え致進上、宜奉存候と御座候て、有名の首豊後ニ進上被申候へハ、大友義統公え被成御満悦入道ニ御感状被下、飽田郡の内池上在々を今度の忠節を被下候との御書出拝請申候由ニ候、然共程なく入道も死去、追々乱国ニ成候故、当分迄の如此なる昔語と成果候、右八千左衛門娘矢部の御殿ニ御奉公仕居候て、御落去以後令縁付津志田ニ近年伯楽致居候、七右衛門母即八千左衛門娘の子ニて候、扨又右の首を豊州へ持参候は、首くさり候故悪臭をかぎ毒となり候て人馬大分ニ死候由語伝候、


甲斐宗運益城郡豊田村響の原合戦相良義陽を被討侯事、伊津野山城守討死、田代宗運・渡邊吉次事
一、相良修理太輔義陽ハ天正初比迄ハ球广・芦北・八代三郡を随へ八代郡古麓に住城、彼古麓の城を前々八代の城と申侯由ニ侯、義陽も元来大友殿幕下ニて侯由、然は阿そゟは宗運承ニて右の証人ニ被罷出、互ニ誓紙書物被取替被申侯て、相良の誓紙ハ阿蘇宮、阿その誓紙ハ八代白木社宮ニ御奉納の由ニ侯、阿その誓紙ハ宗運家来侍頭甲斐伊勢守書侯、彼伊勢は学力能書色々故実者ニて侯つる由語伝侯、然処義陽右の誓証文を違背被仕侯て嶋津家の随意被申侯由ニて、相良被申侯由ハ、阿そと令約束侯誓証文を令違背侯上は、多分従阿そ可被取懸侯間、左無之内ニあそへ令発向侯可キとの事ニて、相良の幕下八代郡興善寺城代相良伊勢守・同岡の城代佐々木宮内左衛門・同吉本城代東掃部助・同種山城代蓑田五兵衛・芦北郡田浦城代悪兵衛・同佐敷城代西肥前守・同津奈木城代同水俣此両城代深水宗甫、此外天草刑部少輔、此天草ニは其比相良ニ縁引ニて侯事、以ケ様の分ヶかニて同陳侯哉、語伝覚無之侯、右の城代々々并ニ諸出家の武者所存芸法師を始メ数人の出家各引卒し出陣侯て、天正八年十二月二ニ(日か)義陽産神白木社明神ニ社参有之侯処、旗竿鳥居ニ懸り真中に切レ侯由ニ侯、此段ハ阿蘇と右の約束誓文相違の御冥罰と、其比有心の仁人致沙汰侯由侯、然共左様ニ怪事ニも不被驚無心事、即日騎馬・雑兵一万余ニて出馬ニて、益城郡の内小川町・守山・小野村々を焼立、小野村上野の峠しやはかミ(娑婆峠)と云所ニ、古麓ゟ七里程押シ本陣を取被申侯て、翌朝未明堅志田北左衛門尉の居城赤峰の尾ニ西肥前守、甲佐伊津野守松の尾ニ東掃部之助、彼両将ニ三千余の軍士を差添被差向侯、西一手の軍人千余ニて赤峰の尾ニ打向侯処、堅固令籠城侯故頓て責落侯事難儀、取巻侯迄ニて時刻を移侯、東一手の軍士二千余ニて甲佐松の尾ニ令発向、大将東本陣を油坂と云坂の峠ニ取居侯て、軍人を甲斐近所迄差向侯処、伊津野城下を引卒し可被申間も無之、相良勢何程の事か可有之うか/\と被存侯哉、又ハ運尽侯ての事ニ侯や、手廻の者計ニて早速出陣侯て碧(緑)川を打渡り、日和瀬河原の平かなる芝河原ニ陣取侯て、東か本陣油坂へ人数を被差向侯処、東の軍士ハ坂ノ上より真下ニかゝり、伊豆野軍士ハ坂下より真上りニ坂中ニて相戦ひ、即時に伊津野勢令敗北、大将の本陣日和瀬河原ニ引退侯処を、東の軍士得勝利、急に追かけかハらニて手痛く戦侯に、東の人数ハ二千、山城の人数は二百ニも不過故たまるへき様無ク、後ハ大河可引道も無ク、即時に伊津野被致討死侯、彼山州碧川を渡り、大河を後に当敵のかゝりばよき大平の河原に陣取侯て被致討死侯ハ、先年熊の庄合戦の砌、

をくれをとり被申侯て面目を失被申侯残念にて、背水の陳取被召討死被致哉と、其比致取沙汰侯由ニ侯、山州ハ討死被致侯得共、家老伊津野四郎右衛門を大将として家頼一太夫・甲佐宮の社頭・権大宮司・数人の祝部、中ニも田上伊豆守、各一同ニ大将今朝城下を御催なく出陣、我々共遅参不及是非侯と申侯処、伊津野四郎右衛門と申家老ハ、朝宿ニ有合不申侯て大将を討せ無是非侯、東掃部を討取らすハ二度び甲佐へハ立帰間敷と猪の歯咬をなし、引取味方を押返し/\油坂え切て上り侯ニ、相続仁人ニハ田上伊豆・赤星一太夫・権大宮司・数人の祝部、面もふらす四郎右衛門真先キ油坂へ、山州を討取上下のゝじり居侯処ニ、二百程ニて乍寄立真黒ニ切上り侯処、真先ニ懸四郎右衛門か乳ノ下を東掃部鑓ニて表ニ突通侯、四郎右衛門剛の者ニて手伝寄侯て東掃部を討取侯、東軍士大勢とは乍言、東大将討死侯故以外ニ周章右行左行ニ令敗北侯処を、赤星・田上、其外の仁人死を一途ニ致侯て追懸/\手痛戦侯故、東の軍士多ク討取、四角八方残兵令敗北、四郎右衛門右の通深手負を家人せをひ(背負)侯て、油坂の下岩下ニ甲佐宮の惣禄祝部と申社家の所ニ置侯由ニ侯、松の尾城下の家人令遅参侯事尤の事ニ侯、坂谷・水越・横部田遠境の在々ニて、恩下の地侍内野伏の兵人かけ付侯事不相成侯、右の田上伊豆守ハ、甲佐宮の鬼丸祝部と申社家ニて侯田上甚兵衛曾祖父甲佐作之允高祖父ニて侯、赤星は甲佐の一太夫ニて社家ニて侯、当分安平村ニ城形少々有之侯、赤星の住所ニて侯、国代落去以後ニハ有無の躰ニて侯を、安平村当分の庄屋の祖父右の赤星を懇ニ労育致侯故、赤星名字をも相譲侯、此外孫々とても無之侯、伊津野四郎右衛門ハ江原雲晴と伊津野の大老の嫡子ニて、山城守の親父三河守の娘山城守の妹を四郎右衛門女房ニ致侯間、江原も改メ伊津野名字ニ成侯、伊津之氏ハ村上天皇の末故有之家ニて侯、然ハ天正初り比ニ、従京都碁楽と申天下一の碁打豊後大友殿え下り侯、就夫碁楽を九州の内御幕下を令一廻侯付甲佐伊津野えも来り、左侯得ば山城守ハ伝受と言事無クして国中無類の碁名人ニて、彼碁楽と碁一盤を両日ニ被令成就、先手を碁楽ニ被渡侯、又二盤ニ碁楽負ニ成り、是非共一ツを取返度存侯、天下ニて名を失ひ侯と碁楽申侯由ニ侯へ共、伊津野被申侯は、其方連の下手と打侯得ば、てき面ニ碁石の手下り侯間いや/\と被申侯故、無是非松の尾よりすぐ様ニ豊後ニ立帰り無念かり、いきほしを付キ絶食、船中ニて気を頓死侯由、亡父咄聞被申侯、右の通を渡邊吉次見被申侯て、慥成咄ニて、右の四郎右衛門娘ハ愚老伯父九郎右衛門女房ニて侯、彼九郎右衛門惣領子を助兵衛、惣領娘当分の助兵衛女房ニて侯、助兵衛両人の子又兵衛・惣兵衛ニて侯、助兵衛女房の弟甲佐宮の宮寺神宮寺只今の法印ニて侯、扨ハ伊津野の末孫ハ如此ニ侯、彼四郎右衛門ハ母方ニ令連続、軍兵衛とは従子ニて旁重縁ニ、四郎右衛門令法躰、法号清念と申侯を、九郎右衛門所ニて育殺侯、山城守の子息宮内少輔と申侯、右の合戦の折節ハ大病中ニて被致平伏出陣無之由ニ侯、落去後加藤清正公ニ被召出手筈有之侯得共、如何被存侯哉、筑州ニ知処有之侯とて、鬼神太夫と言伊津野家ニ伝来侯大脇差をさし、深編笠を着侯て被致逐電、以後成行不相知由ニ侯、扨東討死の残兵共を中山・砥用より令発向、堅志田かたひらと云所に林の左右ニて大合戦致侯ニ、東の残兵共又々令敗北山林方々え令退散侯由ニ侯、砥用馬入城代砥用丹波守・佐々原後藤兵衛・中山・串野の玄番允・祓川・小や野の何某、各荒手ニて追かけ/\悉ク討取侯、串野の玄番は中山当分の惣庄屋中山孫右衛門高祖父ニて侯、佐々原後藤兵衛ハ砥用大庄屋善兵衛先祖ニて侯、後藤兵衛妹は愚老祖父吉次の妻女ニて亡父ノ母ニて侯、小や野は祓川ニ末々有之侯、小屋野の証文祓川村の慥ニ源兵衛と言老身令持所侯、右の仁人相良本陣の近所に令遠慮長追討ハ不致侯由ニ侯、以後宗運を始なれたる古老共申侯由ハ、右の荒手の仁人赤峰の尾を取巻居侯西肥前守か後詰を致シ城より切て出侯は、西氏をも討取侯ハんに、軍士なくして無是非事などゝ申たるよしにて、然上は義陽本陣え伊津野討取侯、然共東令討死侯通り相達侯えは、さばがみゟ半里甲佐の方ニ押よせ、四方十町ほどの平地一面の所響の原と云ニ本陣を張、伊津野討侯祝の酒宴被致居り侯由ニ侯、

一、豊田の城代村山丹後守ニ従義陽使を以被申侯ハ、村山氏相良の幕下に被相成可被逐一礼も、及異儀侯ハヽ軍士可差向侯、急ニ有無の儀返事ニ被申越侯へと被申遣侯、然て村山丹後守ハ矢部の御殿ニ当月番ニ被相詰侯由ニ侯、留守居の城代此由承侯て返事申侯ハ、村山丹後守今月ハ阿蘇殿御館月番ニて矢部ニ被罷上留守ニ御座候、私議湛淵甚喜と申家頼にて留守迄を被申付仕置侯ニ付、私に有無の返事可申侯へ様罷成不申侯、尤人数を出シ防申事の私不罷成侯、殊更家来少の侍共ハ村山召連右の通侯故尚更此段不罷成侯、此方ニ御軍士被差向侯は村山の妻子と共ニ自害仕侯より外分別ニ及不申侯、如此の御使の段村山方ニも此段今日可申遣侯、然上は従村山方邪正の返事は可被申侯、此皆義陽公ニ被仰上可給侯、是非乍此上も御人数被押向儀共ニ侯ハヽ其段被仰聞被下侯、則閉門仕居可申侯、此旨被仰上有無の段被仰聞被下侯へと申侯、此旨相良殿へ申上侯処、各評定取々ニて押懸可被打捨哉、至極の道理を申侯ニ付手差被成間敷哉と吟味の処、侍頭豊永氏すゝみ出申様、去とては湛渕か申段至極の事ニて御座候、留守居承侯身上ニて得共意侯と申侯て御礼申侯ハヽ其座ニて討取可申を、主人の上を計イ不申侯道の返答申事見事ニ侯、人数被押懸侯ハヽ矢を一筋射不申村山氏の妻子を手ニかけ見事可致自害侯、其時には人口不可然侯、いかにも至極と思召侯、村山氏より返事次第ニ侯、其間は御かまい不被成との使を被遣御尤存侯と申侯得は、各一同ニ尤の事とて使を甚喜へ被差越侯ニ付、豊田の城は其日無事ニて先々相通り侯由ニ侯、然は甚喜右の通ニ丹後守ニ即刻申遣侯得ハ、返事ニ申様、無残所侯得共其意侯、弥申越侯様心得罷在侯得ハ、若相良より村山ハいか様に申越侯哉と使ニ申来侯は、返事ニ可申ハ、村山申越侯は先以妻子ニ無御構侯旨難有存侯、今日中罷帰侯て宜申達と申上置侯得と返事を申侯て、だまりて罷在用心仕可申侯、早々可罷帰と申侯間、甚喜か飛脚早々差戻御殿ニ罷上相良発向の段相良より村山ニ申越侯、使口上の趣、留守居湛渕か返事の段細申上侯得ハ、惟種公被聞召上、即刻帰城可仕侯、御舟の様ニ参候て宗運ニ申聞下知を可請侯、最早多分宗運ハ可令出陣被為思召侯と被仰出、御暇被下急速ニ村山被罷在候由ニ侯、彼甚喜今度の首尾中々甲斐入道の機ニ入、村山氏ニ乞被申侯て巳後ハ入道家頼被成侯、国代落去浪人となり果申侯、甚喜曾々祖父孫早川村ニ当分御山の口仕居侯新兵衛ニて侯、右の通祖父吉次ゟ慥(たしかに)申伝侯、

一、宗運え甲佐早川より注進申侯ハ、相良義陽発向有侯て今朝未明堅志田・甲佐両城へ東西両将被差向侯付、伊津野今朝被致出城ひより瀬河原ニて被逐合戦被致討死侯、併寄手大将東掃部助を伊津野四郎右衛門討取申侯、西肥前守大将ニて、赤峰の尾令発向侯得共、堅固ニ令籠城侯故取巻申侯まてニて無別条侯、相良の本陣ハ豊田響の原ニて御座候と申進侯、宗運承知、不被移時刻兼類近従を放不被申、甲斐武蔵守・同伊勢守・栗林伊賀守入道等与と申侍頭共ニ被申付、不行の逞兵二百騎程ニて早々被出立侯ニ、嫡子親秀入道宗立ニ被申付侯ハ、御舟郷中の百姓共を即時早々飯田山ニのほセ、山の峠を鍬ニて開せ、峯なとさめさセ、大勢色めき侯て響の原当(あたり)より見侯処を右の通ニと申侯得、扨又城代ニ旅の者・他領の者外川より内に入間敷侯、色々致要心侯得と被申付侯て、若宮明神并城内天満宮を拝、黒の名馬に打乗、自身大貝を吹たて軍士を引イ侯を吉例とて拝し、響の原の順道ハ押不申通りを可押とて山出村ニ被押出、彼村領内故彼村の大武明神の社人田上備後と申者并同村地侍頭井芹河内と申者を供を(とカ)して、田口村と津志田村との間道を押、安見村ニ被押出侯も、相良の物見共見侯て大将ニ申侯ハ、御舟より北ニ当て見へ申侯ハ高山の峠ニ大分人数見へ申侯、乍其上峯をさめつちを突申哉、新の土色見へ申侯、扨亦是ゟ壱里計下り末の村際を鎧武者大分見へ申侯、乍去旗差物ハ見へ不申侯と申侯得ば、相良の人々申侯ハ、曽て難心得心と申ゟニ、義陽被申侯ハ、宗運居城を筈(はず)し飯田山に引上り侯ハんと察侯、扨又見へ侯人数は宇土本郷伯耆兼々懇のゆへニ、こんどましき(益城)えし(自)分令出馬侯段被聞付、為加兵被差越侯人数ニて可有之侯、誠以重(祝)着の至不斜と各太悦仕心もなく被罷有侯処、下糸石際の堀通し道を宗運隠、急ニ押通シ、義陽の本陣響の原ニ押上り、三、四町ほども前ニて左巴鷺矢籏を押立閧(こう、たたかう)の声をあげ、貝を吹立、無軍法の太鼓を打、真一文字ニかゝり被申侯ニ付、相良の仁人ははや甲斐宗運侯と周章侯処、をしかけ右往左往ニ懸放し突崩し、片時の間ニ義陽を討被申侯、惣て宗運兼々目を懸侯一騎当千の剛の者共と申侯本田・田之上・下山・栗林・緒方・志戸・岡・井芹・鳥居・湛渕・椎葉・杉田・保田・林・村山、彼者共ハ一面ニ切崩突崩戦侯故、相良勢一人も立合人無之、追まくり切まくり悉ク討取侯故、四角八方へ迯(にげ)去敗北、不大形糸石山しやはがミ(娑婆神)を指て令退散侯、相良家の法師武者所存芸法師を田上備後守討取侯、彼備後ハ先年熊の庄合戦の砌、宇土本郷家の地侍大河六弥太を討侯田上周防が嫡子ニて侯、中横田村庄屋伝右衛門曾祖父ニて侯、存芸法師・天草刑部少輔・東西南北ニと言相良家の四天の侍・豊永なと言侍頭、皆々宗運討取被申侯、義陽は入道家人緒方喜蔵と申者討申侯、片時の間は有名の侍七十余人・雑兵弐百余人討取被申侯て勝閧を上被申侯由ニ侯、宗運家人ハ左程不損響の原を引取、す(巣)林村の前経の坪と言丸野畠に小高き地ニ陣取、被召上下飯食を調休息の処、

一、宗運幕下の田代在々の領主田代城代宗伝と申仁走参候、謹て被申侯は、今日の御出馬遅ク承り響の原の御手ニ合不申、残念ニ奉存侯、不珍の御事とは乍申、相良を被成御討侯事無類の御儀と感悦申上侯得は、宗運被申侯由は、其事ニ侯、併堅志田・甲佐え令発向侯東西は残兵とも、義陽を打せ晴々とハ引退心得有之間敷侯、其上可引道を如此ニ差塞居侯上は、一途の合戦相残侯、然共此方え不相構向の山辺を引侯ハヽ手差せ間敷侯、窮鼠却て猫を咬と謂伝て渡り侯と被申侯得ば、田代入道承り申侯は、仰は御尤ニて御座候得共此方ニ相構不申侯、山辺を引申侯とても伊津野を討通り申侯者共を晴々と難通存侯、是非共愚老ニ一合戦被成御免可被下侯、自余を不交荒手ニて一合戦逐申度と申侯得ば、宗運様子次第ニと被申侯処、甲佐・早川え令発向侯軍士共義陽打れられ侯事を聞、前後不覚ニ成侯て糸石の桑の迫と言所を転引ニ引、宗運に陳所えハ不構申侯へ共、宗伝歩立の軍士二百程ニて一面ニ鑓を揃え真黒ニ突入被申侯ニ、片時の間黒煙立侯て相良の人々令敗北、し(や脱か)ばがミを差て引も是有、糸石山ゟ小熊野・海東(宇城市小川町)をさして引人も有、見苦しかりし事共ニて侯、堅志田原ニ相残侯東西の残兵共桑の迫の難儀を聞、何方へ可引やと十方を失ヒ罷在侯を、赤峰の尾ゟ令出陣致追討侯故四角八方へ令退散、糸石と堅志田との間ニ当分も清水泉所有之侯、彼右左ニて堅志田若宮明神の寺社落去侯得共不相知成侯由ニて、万余の相良勢一人も不得見躰ニて見苦しかりし事也、扨田代宗伝、相良の軍士五十余人討取宗運ニ見せ申侯由ニ侯、宗伝家人は左程不損致手柄侯、宗運彼申侯は、今度乍不限事粉骨神妙ニ侯と勧譽被召侯と語り伝侯、今度も宗運吉例ニて響の原桑の迫首数四百八ツ討取高名の段語伝侯、

一、宗運は阿その御家國内の御領知は不及申、其外右ニ書出侯通の国々所々の御領知の仕置被申付侯ニ、第一被申付侯ハ、若事急ニ珍事令出来侯時分ハ住城堅固ニ相守り令籠城、疎に不可致出陣侯、入道が差図を得城外へハ可罷出侯、籠城及難儀侯ハヽ後詰の助兵を以可遣侯、城代/\ニ被申渡置侯、伊津野出城不及是非侯と其砌致取沙汰由ニ侯、就夫早川城主越前守秀家、相良の軍士甲佐え令発向由風聞と即時ニ被致籠城侯、しかる処早川厳島宮の権大宮司渡邊孫四郎吉次事、秀家とは乍一家阿蘇殿へ直参の者ニて侯故、甲斐入道出陣の段令風聞、玄番と云古老玄番と云古老壱人供シ響の原への近道舟津・篠の尾越より西山正法寺門外を通り、野伝イに入道ノ陣所経の坪え参着侯て、入道ニ致対面侯て、吉次(軍兵衛)と申侯ハ御出陣遅ク承り遅参、響の原・桑の迫両御手にあい不申、残念ニ存侯と申侯得共、宗運仰侯は、懇志故ニ早々被罷越致満悦侯と侯て、両度の合戦の次第被咄聞侯を承り、田代入道へも感悦申居侯処、陣所より南の縄手田原の中を馬ニ放レたる武者と相見へ、長刀を横たへ只一人心静ニ不臆引退侯を吉次見侯て、宗運申侯ハ、あれは相良家有名の者ニ見受申、討取可懸御目と申侯て追懸、其方ハ相良の仁と見受侯、名乗侯得、此ク申者ハ阿そ家ニて渡邊吉次と申者ニて侯と申侯得ば、扨々左様ニ侯、某は相良家ニて少々侍頭承り侯豊永籐次と申者ニて侯、家頼致落去如此ニ侯と申も不散、長刀まくりかけかゝり侯を、吉次二尺五寸の刀ニてさすり合、なんなく籐次を討取侯て両入道ニ見せ申侯て手柄致侯、然ニ彼籐次は一方ノ侍頭大将分の侍を甲斐・田代両入道の眼ゼんにて高名、宗運証ニ被立惟種公ニ被申上侯得ハ、殊の外御感ニて、厳島宮・下七半済の在々ニて某内の蔵納ニて加増被下、乍其上御刀被為拝領、軍に兵との御ほふ(褒)美の御言ニて仮名軍兵衛と被仰付、冥加の至得家名侯と亡父申聞侯、則亡父の実父軍兵衛ニて侯、健宮八千右(左)右門を阿蘇領八千丁ニ無類軍士被仰侯て、八千左衛門と仮名被下侯段、右書出侯軍兵衛と被仰付侯儀、其類ニて侯、被致拝領侯刀令伝承、其方ニ遣侯刀ニて侯、然は豊永討取の刀の銘我里馬と打て有之侯を、其比従京都佐渡原加運申目察者、豊州大友殿え罷下侯を御幕下被差廻侯ニ、阿そ殿へも参候故阿そ家被差廻侯付、早川えも見へ侯ニ、吉次彼討取侯刀見せ侯得共、加運見申侯て申侯ハ、此刀は阿部仲丸大国え被遣侯砌、勅定ニて名鍛冶ニ御うたせ被成侯無類の名作ニて、胡馬北風ニ何とやらと云故事を以て此銘をきり申侯なとと申侯て、大友殿え被召上、以後は上々へ上り侯と吉次致風聞侯か
内裡へ上り申侯や、公方ニ上り申侯やと被申居侯と亡父被咄聞侯、右玄番ハ吉久の被召仕侯玄番が子ニて侯、

一、然処村山丹後守留守居湛渕甚喜使を以宗運ニ申上侯ハ、乍恐以使申上侯、甲斐武蔵殿宜御取成可被下侯、夕部相良殿ゟ御使被下侯口上ニハ、村山氏今度相良ニ可逐一礼哉いかゞ、可被逐一礼侯ハヽ人数可被差向侯、有無返事可申旨被仰越侯、甚喜返りニ申侯ニハ、扨ハ、左様ニて村山氏を当月ハ矢部御殿月番出ニて御座候故、矢部へ参勤被仕留守ニて御座候、私の所存として実否の御返事申進侯儀罷成不申侯、家来共ハ矢部へ召連私一人ニ妻子を守らせ召置侯、即刻矢部へ飛脚を差立御使の分ケ村山へ可申達侯、村山所存の趣被成御聞、其上ニいか様共と奉存侯、乍此上御人数被押懸侯て少も防不申村山の妻子を手ニ懸申侯て自害仕より外無御座候、即閉門仕罷有可申侯間、此方相良殿え被仰上、只今御評定の趣可被仰聞侯と返言申侯ヘハ、従相良殿被仰越侯ハ、村山氏ゟ(より)返事の邪正次第との御使ニて御座候、右の段村山方ニ委細申遣侯、いまた如何様とも不申越侯、右の通故村山領内の男頭々ハ城籠り置侯て、女の分ハ縁引/\ニ忍ハせ申侯、如此の通ニ付先刻ゟ無音申上居侯、追付村山罷帰伺公可被申上侯、乍憚謹て被仰上被下侯へと申上侯付、宗運以外感シ思召侯迚褒美の言の由ニ侯、然処村山丹後守急寄ニて致参着すぐに経の坪ニ被参侯て入道ニ被致面談、湛渕が飛脚の通リニ付、惟種公早速帰城仕侯へと御暇被下、御船の様ニ参候て貴老ニ段々申送、御下知を請侯へと被仰出、急馬にて御城下迄参上候て御出陣の旨承之、唯今如此ニ御座候、然は強敵を急速ニ被成御討侯事絶言語申侯、御手柄の祝詞を被申侯へは先々急キ可被致帰城侯、如此と侯ても堅家心尤侯間能々無怠慢可被相守侯、義陽事今度社被致無分別も、元来ハ学力も有之侯、位階をも身代ニて侯、見事のあたら事と存侯、今度村山家頼への使なとは尋常ニ存侯ハ若輩分別の者ニ侯、うわきの族にて侯ハヽ村山氏留守居と聞侯ハヽ幸と思ひ人数を押懸城を乗取、其風聞取沙汰を根元にせんと可存侯へ共、少の智力有侯者は格別にて侯と相良を宗運誉被申侯を、丹州も感シ被居侯由ニ侯、真星の宗運被申分と存侯ハ、右の積故村山氏の領内と於于今相良殿石塔有之侯、右の積ニて村山氏の領内ニ相良殿ゟ心易如此立寄被申侯半と察し申侯、右の通ニ湛渕其時の首尾以外宗運の心に叶申侯故、村山氏乞被申侯て入道の家人と成申侯由ニ侯、

一、甲斐宗運、相良義陽発向侯を討申段侯、委細経の坪ゟ甲斐伊勢守を以惟種公へ被致言上侯処、御感被遊侯て御感状被成下之、義陽の首御舟の城中ニかけ侯へと被仰出侯ニ付、御舟原ニかけられ侯由ニ侯、当分迄も相良の首塚と申侯て御舟原ニ森有之侯、首をかけられ侯砌相良より首を受ニ有名の侍参候ニ、甲斐伊勢守首を相渡侯て申かけ侯、いか様の御用ハ何時にも可承侯、左様御心得へく侯と申侯て笑ひかけ/\、祝ニ一笑被成侯て御かへりあれ/\と申かけ侯へ共、一言も返言を不申侯、首をうけ取箱ニ入しほ/\として罷在侯由語伝侯、か様の筈の事ニて社侯ハんすれと其砌令見聞侯仁人申侯由語伝侯、愚老乍推参存侯ハ、余所ニ参候て罷立侯時笑ふて立侯物と申来り侯、不笑物をも不言罷立侯事も、右の通の事ニていやと申たる儀共と存侯、
肥後古記集覧巻廿八

【拾集昔語一】 肥後古記集覧巻廿八 大石真麻呂集
一、阿蘇大宮司公神孫御代々之事
一、阿蘇四ヶ社・四ヶの神領と申事付健軍明神之事
一、同神主公従前々天正中頃迄の御領知之事
一、同神主公前々御家頼仁人之事
一、永正年中阿蘇神主惟長公を菊池家の主将ニ菊池侍取候連判仁人之事
一、阿蘇神主公中古以来天正年中迄益城郡矢部へ被遊御住城候事、
  以後同神主惟豊公御名誉御高位之事
    阿蘇の御家御宝物愚老拝見申候事
一、益城郡御船古城根元之事
一、同城主甲斐宗運事
一、甲斐宗運同郡の熊の庄合戦之事、同郡早河(川)城主・同所円福寺渡辺氏討死之事
一、甲斐宗運黒田氏を被討候事
一、甲斐宗運・同宗立飽田・詫广両郡境旦花(旦過)の瀬合戦之事
一、相良氏阿蘇家の内益城郡豊田響の原まて発向之事、
    甲佐松の尾城主伊津野等討死之事、同豊田の城様子之事、
    同甲斐宗運響の原え出馬合戦相良氏を被討之事
一、田代宗伝・渡辺吉次首尾能事
     目録終

    『阿蘇大宮司公神孫御代々之事』
一、人皇一代目神武天皇を神倭磐余彦命(カムヤマトイワレヒコノミコト)と奉申候也、
一、神武天皇の太子人皇二代目綏靖(スイゼイ)天皇ヲ神八井命と奉申候、
一、綏靖天皇の王子ヲ健磐龍命(タケイワタツミノミコト)奉申、阿蘇明神一の宮の御事也、
一、速瓶王命(ハヤミカタマノミコト)の御子惟倉命ト奉申候、
一、健磐龍命ノ御子惟倉速瓶王命ト奉申候、
一、惟倉の命より神主公御初代ニて御座候、
一、阿蘇二の宮を阿蘇都媛と奉申候、草部吉見明神の御事也、
      惟倉公   成兼公   成輔公   高正公
      高軌公   友則公   友兼公   惟兼公
      惟風公   利名公   頼高公   成時公
      則高公   惟教公   惟文公   惟氏公
      忠行公   惟峯公   友助公   惟顕公
      惟保公   遠明公   宗延公   惟清公
      友利公   友成公   友仲公   頼元公
      惟助公   惟親公   惟信公   惟通公
      惟満公   惟遠公   惟雅公   惟綱公
      惟員公   惟行公   惟真公   惟貞公
      友孝公   友実公   友房公   惟俊公
      惟宣公   資永公   惟泰公   惟次公
      惟義公   惟国公   惟直公   惟時公
      惟澄公   惟村公   惟郷公   惟忠公
      惟歳公   惟家公   惟乗公   惟長公
      惟豊公   惟将公   惟前公   惟種公
      惟光公   惟善公   友貞公   友隆公
 右神武天皇ゟ(ヨリ)友隆公迄七十三代

    『阿蘇四ヶ社・四ヶ神領と言事、健軍宮明神之事有増』  
一、阿蘇明神・甲佐明神・健宮明神・郡浦明神、是を四ヶ社と申候、
一、阿蘇三百五十丁   南郷 八十町
一、甲佐三百五十町   堅志田八十町
一、郡浦三百五十町   網田 八十町
一、健宮三百五十町   津守 八十町   是を阿蘇四ヶ神領と申也、
一、健宮明神は阿蘇明神ニて被成御座候、阿蘇にて東に向立せ給ふ事は王城鎮護のため、健宮ニて西に向立せ玉ふ事ハ異国しらき(新羅)をのそけたまハんとて、東西右の通に跡を垂給ふ也、

    『阿蘇の神主公従前々天正中ツ頃迄の御領知之事』
一、宇土郡の内郡(コウ)の浦三百五十町・網田八十町
一、詫广郡の内健宮三百町
一、飽田郡の内正保・深海(シンカイ)・蛎(カキ)ノ江・国町、合四十五町
一、玉名郡の内日置(ヒオキ)八町
一、阿蘇・南郷・菅の尾・小国、惣の数千町
一、益城郡甲佐三百五十町、堅志田八十町、小川百廿町、鈎野(ツルノ)四十五町、津守八十町、中山八町、海東八丁、小熊野五十五町、砥用七十町、御船五百四十町、守山八町、木山三百五十町、熊無田の庄千丁、小野百丁、萩の尾十八町、豊福三百五十町、諸富(モロトミ)千丁、七半済(ナナハンサイ)早川十八町、津志田・田口・中山・吉田、在々合五十五町、豊田九十町、六ヶ百六十町、矢部四百貫分百四町
一、薩广国ニて伊豆守一跡
一、筑後国ニて穂波郡
一、豊後国ニて井田・太宰・青野・山田・家中(カチウ)・坂田
一、日向国ニて鞍岡二町、右の通天正年中迄阿蘇神主公御領知ニて御藏納、其外そこ爰(ココ)城主・其外御家来の侍に被下候也、

   『阿蘇殿天正前三十年天正十四年比落去の砌ニて御家直参』
侍仁人之事、大名・小名組荒増
矢部岩尾野城代、后御舟城代       御舟城代
甲斐大和守親宣          甲甲斐民部太輔親直入道宗運
                           豐田城代
甲斐相模守親秀入道宗立  村山丹後守     柏治部太輔
仁田水長門守       迫(ハサマ)三河守    関上総守
野尻豊後守        西越前守益城道上城主 西加賀守
恵良筑後守        東遠江守      上嶋彦八郎
小陳刑部小輔       南左京太夫     犬飼備後守(愛籐寺城代)
黒仁田豊後守(岩尾城代) 北美濃守      甲斐将監(勝山城主)
早川越前守吉秀(早川城主)早川越前守秀家   早川丹波守秀貞
渡辺右衛門太夫吉久(南早川城主) 渡辺軍兵衛吉次   甲斐相模守
甲斐能登守        甲斐志广守     甲斐無弼(ムキュウ)
田上右近         中山若狭守     西左衛門惟安(堅志田城主)
村山治部少輔       中山衛門尉     伊津野三河守
木山備前守惟久(木山城主)万治丸八千左衛門  田代宗傳(南田代城主)
甲斐正運(竹宮城主)   光永左衛門尉(下陳城代)南坂梨右衛門尉
北坂梨内藏人       坂梨孫太郎     西源兵衛
甲斐右馬允(隈庄城代)  野尻忠左衛門    玉目丹波守
今村蔵之助        高森伊与守     北里加賀守(北里城主)
高森三河守        村山刑部少輔    市下山城守(市下城代)
竹崎与左衛門              二千石九郎左衛門  関右京太夫
長野蔵之助        野原権五郎     下田左京太夫
竹原甚五右衛門      豊福丹後守     篠原後藤次
小野武蔵守        大野天進      早桑良(ソウコウラ)治部
小野屋丹後守       中村忠五郎     小倉美濃守
小嶋五郎三郎       野中出雲守     今村隼人
阿蘇品下野守       瀬田彦三郎     井田長門守
三宮近江守        横田阿波守     蔵原志广守(二部脇城主)
三河嶋弥八郎       野中出雲守     湯浦九郎三郎
井旦僧景         北里将監      小境板景
久家百熊丸        佐々原後藤兵衛   串野玄番允
目丸遠江守        草壁左衛門         菅原弾正忠
鞍岡勤七         大野民部少輔    海東伊織
野部左近         蘇生主水正     中嶋左馬允
中村右近         中嶋右近      砥用出雲守
林喜一郎         向山三郎左衛門   大山田源左衛門
鈎野民部少輔       栗野修理      山田金左衛門
原常陸守         野部右近      海東右馬允
山西越前守    近見隼人    久木野備後守  田代半十郎
荒木次郎右衛門  郡浦五郎三郎  大矢野主馬介  栖本権之進
松崎兵太夫    井日向守    橋本将監    高橋帯刀
早楠権五郎    大河清太夫   広瀬豊後守   今村六郎次郎
阿蘇山城守    四桑四郎    伊津野十郎   舟津式部少輔
白石次郎太郎   光永又四郎   鳥子若狭守   光永孫三郎
弁﨑安芸守    高森摂津守   村山右衛門尉  坂梨又五郎
小陳玄蕃允    光永中務    北北五左衛門尉 下城采女正
石井遠江守    野中孫二郎   北里安芸守   喜利子次郎太郎
三宮源次郎    二太夫松次郎  井手三郎四郎  井手孫二郎
中崎孫九郎    小嶋五郎二郎  小陳伊豆守   竹原下野守
今村六郎     今村宣五郎   岩下三郎    久家太兵衛
瀬田彦六     今村新三郎   瀬田三郎四郎  原二郎太郎
三ケ嶋弥八郎   横田新左衛門  今村四郎三郎  竹原民部少輔
鞍岡八郎     石野六郎    堀左京進    続安芸守
久木野因幡守   田上三郎次郎  久木野隼人   内野江兵庫頭
向山次郎衛門   三宮近江守   大山田源右衛門 吉田左衛門 
蒲生原二郎五郎  三宮掃部    田上新左衛門  匠随子助五郎
今村新五郎    今村三郎    今村塩市丸   大戸孫太郎
倉原犬坊丸    湯浦九郎三郎  今村太郎四郎  下田山城守
原常陸守     田上甲斐守   光永三郎左衛門 荒木若狭守
下田源右衛門   相良主税    脇川備前守   瀬田周防守
菅弾正入道    高柳又八    今村左馬助   三宮民部丞
井手掃部     長野出雲守   高吉尾張守   高森信束
北里三河守    北里左馬之助  北里亦介    村山善五郎
山嶋孫太郎    林喜市郎    北里太郎左衛門 田代半七
北里大蔵     下城乗行    下城右近    下城采女正
下城九之助    下城四郎兵衛  伊津野太兵衛  田上備後守
田上周坊守    津々良隼人   甲斐守昌(隈庄城代)甲斐親房
甲斐親秀     砥用丹後守(馬入城主)

甲斐宗運内
  甲斐伊勢守    同武蔵守   下山勘解由左衛門
  栗林伊賀入道   緒方喜蔵
  井芹加賀守    同氏河内守

早川越前守内     佐渡大学   同能登守
                      同修理

林山家人       堪渕甚喜   同大和   鹿ノ末安芸守
甲斐右馬允守昌内   甲斐帯刀   同運天   北之里内
           北之里与三兵衛
伊津野内       江原雲晴   伊津野四郎右衛門
右の又内御陳中ニ度々阿蘇殿の御用ニ罷立候故、御目見へ御礼直の衆同前ニ申上候也、
右書出に仁人ハ阿その御家の侍達ニて候、
阿蘇の神主惟種公、益城郡矢部の御所え被遊御在館御善世の砌ハ、遠近を不論毎月朔日、十五日の御礼ニ矢部ニ相勤をり申候、旨申伝候、矢部へ被遊御在城の分ケは書出べく候、

『永正年中の阿そ神主惟長公を菊池大将ニ取持可申との菊池家の仁人願候故ニ惟長公菊池へ被成御座候へ共御逗留(トウリュウ)は不成候、其砌菊池家名の面々連判の写』

一、永正二乙丑(1505)年十二月日  城上総守頼峯
隈部式部少輔武治     赤星弾正忠重規
内空閑備前守重載     田嶋右京進重実
小森田安芸守能世    内田遠江守重国    長野備前守運貞
立田伊賀守重雄     窪田大和守為宗    隈部和泉守宗直
鹿子木民部左衛門貞治  御宇田上総守重直   長田右衛門尉武秀
長田刑部太夫重綱    立田小太郎重治    城大蔵少輔敏峯
隈部豊前守貞明     吉田左衛門尉公世   北山城守公村
隈部源兵衛守治     関部新左衛門尉朝家  内田右京進重貞
小森田伊豆守朝右   内空閑二郎左衛門朝具(貞カ) 瀬田新左衛門尉惟夏
山北掃部助景直     若黨(薗カ)源兵衛忠通        隈部弥十郎晴平
赤星右京助惟清     臼間田又十郎武益   高倉図書之助俊直
相良式部少輔朝長    竹崎右左衛門尉惟忠  竹崎兵部進惟直
赤星飛騨守房継     吉田新十郎公陳    関将監公頼
高橋薩广守朝乗     古閑山城守貞載    長野清左衛門尉運俊
阿佐古清左衛門尉能世  内空閑周防守朝誠   小森田加賀守高直
平山十郎太郎能世    隈部右馬允重門    合志蔵人少輔隆烽(峰カ)
小山十郎三郎運貞    関部万龍丸      小森田四郎兵衛運清
窪田式部丞重宗     山井丹後守頼直    赤星大蔵少輔重直
隈部新兵衛頼夏     城弥七郎昌峯     御宇田山城守直貞
佐藤日向守重秀     鹿子木式部丞房員   内窪(空カ)閑神十郎運直
合志掃部助隆久     馬見塚籐左衛門盛秀  出田六郎貞峯  
佐野伊豆守朝経     多比良出雲守朝道   内田右衛門尉長籐
立田刑部少輔武実    赤星安芸守道継    馬見塚新左衛門尉長行
平山中務少輔秀直    若薗源右衛門尉忠村  竹崎六郎左衛門惟次
馬見塚左衛門尉盛峯   中村対馬守継世    大河内和泉守氏直
田中弾正忠朝宗          竹崎図書之助惟秀
右の連判、あそ殿え御座候を前々写おき候を書出候、

  『中古以来あその大宮司惟種公迄益城郡の中矢部ニ被遊御在館候ニ付色々之事』
一、益城郡の内矢部犬飼村ニ有之候古城を愛専(籐カ)寺の城と申候、彼(コノ)城ハあそ神主殿前々御築被成候由ニ候、天正中ツ比(コロ)国中一同ニ令落去、其比は犬飼備前守と申仁阿そ殿の御家臣ニて御城代仕居被申候の由、かたり伝候、
一、同町頭ニ有之候古城は岩尾の城と申候、此城も前々あそ殿御座被成候御城の由ニ候、此城も落去ハ右同前ニて候、あそ神主公ハ右書出候通あそ明神の御神孫にて被成御座候、神書ニも肥後国を最初ハあその国と申候て有之候由承り、就夫(ソレニツイテ)あその明神を国造の明神共奉申候由申語伝候、然は神主殿御善世天正中ツ比迄は、彼岩尾の城番を黒仁田豊後守と申に被相勤居候由申候、其前廉ハ甲斐大和守新(親)宣(宗運)と申御家老御城番被致の由ニ候、黒仁田氏分ケ候て滅亡被致候、其跡は阿そ家の御家老中替ル/\被相勤候由ニて、彼(コノ)岩尾の御城は御要心ニ能城と御座候て、従阿蘇被成御座候て中古より天正のとしうち迄、惟種公彼御地へ被成御座候、夫故(ソレユエ)ニ御家老衆替ル/\に御城番被勤候て、神主公は彼御城辺ニ御陳の内とも浜の御所・浜の御屋形(現在の濱の館)共申候所に被遊御在館候て被成御座候、彼御城の近所に浜と申村も有之候、然共(シカレドモ)御陣の内ハ其村の内ニては無之候得共、矢部は海辺遠里ニて浜と申事矢部ニては珍言故、御座候処を右の通ニ申候由御座候、浜の町なとゝ申来候事も左様の由緒と語伝候、如此伝益城にも然々無之候と見へ申候、惟種公迄右の通ニ彼処に被遊御在館被成御早世、其儘(ママ)其砌(ミギリ)令乱国候ゆへ彼(コノ)城も天正中ツ比致落去候、彼城ニハ右の通ニ御城番被相勤居候て神主公を守護被申候由ニて、浜の御前神主殿被遊御安住、岩尾の城ハ右の通ニ御座候へつると、乍恐たゞ今御花畑に通ニて御座候半と奉存候、右の城の落去致候て、加藤主計頭(カズエイノカミ)清正公・小西摂津守行長へ南北半国づゝ、従秀吉公様御拝領被成候ニ付、矢部ハ小西行長領分被成候由、然は右の愛東(籐)寺・岩尾両城番ニ、従行長結城弥平次・大田市兵衛と申侍頭両人ニ与力の侍被差添被遣置候、岩尾城は平人罷出候事不相成候てさたなしニ、其砌各愛東寺迄ニ被罷在候由語伝候、右の備頭両人共ニ二千石取ニて候、右の通与力衆も手ニ付御城番被召候由ニ候、与力の侍衆ハ、
五百石土橋掃部・三百石平地源右衛門・三百石石嶋沢市右衛門・三百石中小路三衛門・三百石速水七左衛門・同後藤三五兵衛・同田部平右衛門・同横田勘衛門・同加々山次郎衛門・同岡平衛門・同天木庄太夫・同小野田弥右衛門・同吉田木衛門
   此通ニ城番の由ニ候、然ハ小西氏滅亡以後従 
家康公様、清正公え肥後国をふさねて被為拝領候砌、右両人の侍頭を清正公被成御抱候て、城番頭ハ被成御替別条ニ被召仕候て、城番ニハ長尾豊前守・加藤万兵衛と申御侍頭、何れも知行三千石取に彼番頭被遣候て、与力衆も同前ニ被成御抱候、与力衆ハやつパ前々の通ニ被成御付置候、然共その以後古城々被成御立候事、従天下様御禁制と被仰出、古城々山野、或山畠と成果候、清正公・行長へ肥後被為拝領候事、清正公の一国ふさねて従 家康公様拝領の分ケ後筆ニ可書出候、     (つづく)

一、阿蘇の神主公ハ右ニ書出候通ニ御神孫ニて、殊更前々ハ御大名にて、乍其上高位高官の御家ニて御座候、右ニ書出ハ前々の御領知を当分石積ニ致候ハヽ三、四十万石も可御座候、然は神主殿御代々付ニ御座候、惟種公ニ其砌の帝従 後奈良院様、御内裡ニ御修理を被成御勤候て被成御献上候様ニとの就 御勅定、右の通の領内を被成御勧進、金子ニ御ふさね被成候て、其比(コロ)迄ハ海陸共ニ人心不可然候ゆえ、矢部ニ当分まても有来候天台寺・福王寺申候、彼(コノ)福王寺其砌(ミギリ)の住持法印ニ被成御持せ御献上被成候て被御調上候、以の外被遊御叡感、烏丸どのを 勅使ニ矢部浜の御所へ被為差下、惟豊公ニ悉(カタジケナ)クも従 後奈良院様 御勅筆被為御頂戴、惟豊公矢部ニ乍御座有従二位の御位階被遊 御勅定候、綸旨・口宣、其外御公家衆より被為進候御書、愚老(玄察)此前御病用ニ被召阿蘇友隆公様へ伺公仕候砌、被成御免身を浄メ頂戴仕候て奉薫誦冥加の至、天山難有奉存候、ケ様の御事はあそ家頼の末孫/\ニ有之儀ニてハ無之候、大形ニ被致間敷候、愚老(玄察)儀は曾祖父渡辺奥ニ書出候通ニ、永禄八乙丑(1565)年三月十二日ニ、熊の庄舞の原ニてあそ殿御用戦合ニ被致討死、家伝子同氏軍兵衛(吉次)愚老か祖父、相良義陽の侍頭豊永籐次を討取、阿蘇怨敵の井芹大将かゞの守を討取、此後筆ニ可書出候通ニ、惟光・惟善公御両殿の御母上様ニ付廻り御奉公を勤、佐々成政公へ肥後国侍一揆を起したる砌も、名誉なるのちづめ各同前ニ致シ助城仕被申候事、是皆神主公ニ被奉伺たる事共候、ケ様の自然の道理にて被上候、軍兵衛吉次の伝子愚老か実父渡辺吉政入道号休巴、右先祖以来神主とのへ年々当年迄も年始の御祝儀闕シ不申候、左様の分にて神主殿御一家の中にも不被成御免拝(ハイ)、御宝物を御拝せ被成候、前々御旧例とは乍申、友隆公両度拙宅(玄察)へ被遊御出候も、古今怠慢不致右の通故ニて御座候間、此旨を被相守候て、愚老(玄察)無ク成候迚(トテ)も年ニ一度づゝは阿そ殿へ御礼可被相勤候、軍兵衛吉次忠節の段々後筆ニ可細書出候、扨又右の御宝物迄ニ限不申、一同ニ被成御見候色々有増書出候ニ、如此の御宝物奉拝候事ハ天和元(1681)年辛酉二月十一日ニ奉拝候、此段は珍事ゆへ書出候、
一、忝も 御奈良院様の御勅筆・御綸旨(リンジ)・口宣
       「綸旨とは、蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書」
一、右同前に従御公家衆神主殿え被為進候御書
一、あそ神主様の御由来の御文字色々
一、神主殿ハ阿そ明神の御神孫慥(タシカ)御由来の書立
一、阿蘇の御社家衆の由来書
一、神主どの御代々御頂戴被遊候綸旨・口宣、百ニ及奉拝候
一、正平の年中(1346年~1369)年ニ薩广の国主をあ蘇殿え被遊御勅許候との御綸旨
一、阿蘇山衆従大宮司諸下知相守候へとの綸旨
一、同衆徒中より大宮司の御下知背申間敷との連はん書物
一、阿そ四ケ社の神事無怠慢大宮司勤候へとの綸旨
一、大宮司ニ九州を引卒し鎌倉へ責上り逆徒を可令追罰候との綸旨
一、高氏・直義逆心を構候間不日ニ責上追罰候へとの御綸旨
一、頼朝公より被進候御書
一、北条殿御代々ゟ(ヨリ)被進候御書
一、新田左中将の御書并絹の切レニ御書被成被進候御手紙の御書
一、直冬公ゟ被進候御書
一、今河了俊公ゟ被進候御状
一、筑紫少弐より被進候御状
一、大友殿より被進候御状
一、薩广嶋津とのより阿蘇宮へ御願書
一、あ蘇ニ可被成一味との相良殿の書物阿そ宮ニ被納候書物
一、下野の御狩の御絵図
右の御数々奉拝候、此外色々御宝物・馬ノ角なとをも見申候、為後覚書出候、
一、惟種公ハ当友隆公の御曾祖父ニて御座候通り、天正中ツ比迄は岩尾御城・浜の御所へ被成御座成候、然は惟種公ノ御舎弟を惟前(コレサキ)公と申候、彼(コノ)惟前公ニ先々御親父従惟将公御神主職を被成御譲候、然れ共御乱心ニ被為成候故ニ、御舎弟惟種公へ御神主ごゆづらせ被成候て、惟前へは砥用・中山・甲佐、在々ニて過分の御知行被進、甲佐伊津野居城松の尾の上、当分迄も御陳の内と申所の三、四丁四方も可有之平地一面の所、当分迄も大堀有之候処被成御殿作御安座御館被成候、甲斐宗運取持被申候て御兄弟の御中、めて度様ニ道の道を諌言(カンゲン)被申上居候故、矢部・甲佐目出度御両殿えあ蘇御家人群集致、無事ニめ出度相通り申候由ニ付、然弟惟種公ニ若君御両人御誕生、御嫡子を惟光公、御次男を惟善公と申候、

   『御船城根本之事 御舟当分古城也』
一、益城郡石津の郷甘木庄御船の古城の城名を御船ノ城と申候、彼城地を御舟と申候は、太古従大国 日羅(ニチラ)と申法師日本へ仏経を被渡候砌、被乗渡候船の由ニ候、其ふねいご(船以後)山と成居候を前々城ニ築き初させ候由語伝候、就夫(ソレニツイテ)城名を御舟と云、町在々なとも御舟言ならハし候と語伝候、定て日羅法師の被渡候砌迄ハ御舟只今の在々ハ海ニても候ハんずれ、御舟城近辺のさげなと云物ニ一艘二艘なと云さげ名共有之候得ハ、扨(サテ)は船三艘も被渡候ハんや、然レハ御舟を三舟と書習し可申事と存候、然共右ニ書出候阿蘇殿前々御領知付ニ御船五百四十丁と書候て有之、旧記ニ御舟と書出候有之候上ハ、御舟と書候儀勿論ニて候、日羅の舟の儀紛無之間敷候ハ、和漢合運図年代記ニも日羅の船肥後ニ着と見へ候由有(成)ル仁被申候、殊ニ飯田山は日羅の開基ニて、日羅の被渡たる仏像なと縁起の飯田山ニ有之候由ニ候、飯田山下の御舟とて候得ハ舟山城尤の事候、
      『御船城主甲斐宗運事』
一、御船城主ニ永正の年中(1504~1521)ニ房行と申悪人有之候て、其砌ニ阿そ殿不忠不義仕候故、甲斐大和守親宣と申候御家老ニ、房行ヲ討取ニ御舟城領共ニ従阿蘇殿被下御舟城ニ発向可有との処、親宣の嫡子同氏民部太輔親直(宗運)、乍若輩被申出候は、自分初陣ニ是非共御舟討取候合戦被遊御免候様阿そ殿へ被仰上被下候ヘハ、達て願被申候付親直謹て願の通被下候へは、若年ニて神妙なる事を願上候、如願被遊御免と被仰出候付、親直ニ其通被申渡候得ハ、親直謹て御受被申上、矢部より御舟へ被致出陣、苦身坂の峠ニ本陣をはり、木倉御舟ニて被遂合戦、親直被得勝利御舟城を乗取、房行を討取、上下四百八の首を取、御舟の城主ニ被罷成候儀、親直智仁勇三兼の侍ニて、以後ハあそ御家の一の大老ニて所々ニて度々の合戦ニ打勝、四百ツ(八カ)ヽの首を度々一世中ニ取被申候て、国中ハ不申及、九州の御や形様とかしつき申たる大友とのへ直参の城主衆ニも異見・教訓を仕候へば、従大友殿被仰付たる仁にて候、乍其上日本にも令顕名、阿そ家の惟の上字を被為免候て、老期には惟親と名乗被申候由ニ候、
一、親直被致入道号を宗運と申候、阿その家天正中ツ比迄は御善世故、彼(コノ)宗運ハ一の大老ニて薩广方の坊(侍カ)大将ニハ彼(コノ)入道、肥前・筑前・筑後の同断ニハ木山・下陳・健宮城主達、宇土・天草・球广方の同断ニは熊無田の庄城主、豊前・豊後方の同断ニは両坂梨・高森・北の里・下の城、日向方の同断ニは仁田水・犬飼・黒仁田、右の城主々大老宗運の下知を請、右の通被相勤矢部浜の御所を守護被致候由ニて、
一、甲斐宗運ハ阿そ二の宮の化人と申伝候、其分は親宣の内方毎朝阿蘇明神の閼(フサグ、アツ、エン)伽(カ、トギ)の水を奉供、願クハ顕名仕候ハん男子を出生仕候ニて念願被仕居候て、被致出産御子息則宗運の由ニて、宗運誕生の日、阿蘇二の宮の妙戸内ゟ(ヨリ)開ケ申候由ニて化身と申伝候と亡父(吉政)被申候、
一、宗運一世中軍陳出馬の砌は御舟城辺ニ阿蘇・甲佐観請候を、若宮明神山并堀内天満宮森ゟ鷹舞出、宗運旗竿の上ニ舞候を被拝候て、自身大貝を吹立出陣仕居申候なとゝ語伝候、大貝は砥用烽(ホウ、ノロシ)の尾嶽より出候由、宗運は七尺余の大男ニて大力の由語伝候、右の大貝は二尺余廻りの由語伝候、

    『甲斐宗運熊無田の庄合戦之事』
一、甲斐宗運ハ子共達数多有之候由ニて、婿達も数ニて候、甲斐(佐カ)松の尾城伊津野山守・早川城主早川越前守吉秀入道休雲・熊無田庄城主甲斐右馬允守昌、右の三将婿ニて、木山備後守惟久は息宗立の婿ニて宗運為ニは孫婿ニて候、然処甲斐守昌宗(衍)宗運処え参被申候ニ、奥ニ通り咄被申候の処、宗運の鎧(ヨロイ)通シのさすがを刀懸にかけおき被申候ニ、猫障り候得ば抜候て、其下ニ茶臼有之候上逆ニおとし刃さき五、六歩ほど臼ニぬかり立候を、守まさ(昌)見被申候て、以の外(モッテノホカ)驚キ其後所望被申候由ニ候、然共入道(宗運)被申候由ハ、安き事ニ候へ共、阿そ殿他ニ異ニ思召候故、何事も候ハヽ乍老身御用ニ立死可致と存居候処、当分遣候儀不相成候、併遺物ニ遣申へく候と被申候ニ付、其分ニて候処、守昌内方を遣候て盗被申候、昔の小鳥ニてハ無之候へ共、夫ニ類し候とて小がらす丸と名付、宗運の一の宝物ニて候を右の通ニ候、然共入道ハ其分よと何の別条も無之候処、守昌被存候ハ、入道公深々敷惜ク可被思召物を如此候上は、当分阿そ殿へ被申上無首尾者ニ可仰付候、然上ハ手替可有とて、宇土の城主本郷伯耆守と被致一味、向後は薩广方ニ可被成との約束被仕候、其段宗運慥(タシカ)ニ被聞届候て以の外被致立腹、惟将公へ被申上候ヘハ、殊の外(コトノホカ)の御悪心ニて熊の庄討取可申旨被仰出候付、宗運其年中責被申候得共落城無之候故、翌年永禄八(1565)年三月ニ従阿そ殿被仰出候ハ、宗運婿共か見せしめのためニ早川・甲佐両城代并早川嚴嶋宮の権大宮司・渡辺右衛門大夫吉久・同円福寺・甲佐社家共宗運ニ致加力発向侯へと被仰付候故、早川越前守吉秀入道休雲・承陽山円福寺住持春蔵司・渡辺吉久、城主の侍頭佐渡大学・同図書・同修理・同能登、各七十五騎、雑兵(ゾウヒョウ)三百四人、即日辰ノ刻ニ出陣候て、巳刻熊の庄ゟ(ヨリ)半里手前吉野茶臼山一の谷頭ニ陣取候由、伊津野も同日同刻ニ着陳、侍頭ニ江原雲晴、甲佐宮の赤星一太夫・権大宮司・数人の祝部・都合八十五騎、雑兵四百余、熊の庄ゟ一里手前の出水村の前河原ニ遠陳を張居候、宗運の陳処は上﨑(嶋カ)村の川向ニ千原村の南坂本村方ニ被取申候由ニ候、然は宗運ノ侍頭乍其上軍法物下山勘ケ由申候ハ、早川の陳処茶うす山を先々ひかせられ、余所ニ陣取被召候様ニと存候、茶うすハひかでハ敵を粉ニなし得不申候ヘハ、宗運聞被申候て尤(モットモ)の事実々と被申候て、早川余方に陣処かへられ候へと被申候へ共、かへ申間敷由ニて其分ニて候、然は入道(宗運)ハ城中思ひかけ無之方より被責入被申筈の工夫ニ候所、彼(コノ)城は無類の名城ニて七重の堀築地甚敷(ハナハダシキ)、可責入手立無之候へ共、堀内令周章、彼入道は智謀人ニて以ケ様の手立もや被致候ハんと、城中の手たれ共各宗運の責口を守堅メ居候由ニて、左候得ば前以(マエモッテ)守昌宇土本郷を頼被置候ハ、早川・甲佐各三将衆被致発向候由令風聞候、   

実正ニて候ハヽ急ニ加兵を頼入候ト被申置候由ニ付、本郷の執事、乍執事伯耆の舎弟本郷武蔵守を大将ニて、侍頭ニ大河六弥太・成松式部右衛門都合二百主従宇土差遣候、彼(コノ)人数木原村・阿高村・塚原村(何れも現 熊本市富合町・城南町)の山辺を忍ひ、沈目村ニ忍ひ入令伏兵罷在候事、早川の軍人努々不存、宗運と刻限の約束ニ任せ、はや川(早ソウカワ)・甲佐両将舞の原堀部道を忍ひ、大手の一の城戸大堀迄をの/\責より申筈の処、甲佐衆遅々(近くカ)ニ及候付、早川人数一手計ニてせめより候処ニ、思がけ無之沈目村ノ方より赤旗一流真黒ニ打て懸り候ニ付、休雲(早川)・春蔵司・渡辺一同ニ申候ハ、城を見捨後攻に引返し懸レ/\と、向ふ敵を振捨て宇土勢と火花をちらし戦候故、城中より甲斐運天・同帯刀、城戸を開キ令後詰候ゆへニ、前後剛兵ニて早川人数令敗北候、然共本郷武蔵守後陳ニ控へ居候処、休雲武蔵(本郷)を引組、双方差違候て両人討死、一処ニて渡部・春蔵司討死、右の通故早川人数不残致討死候、然共大将本郷武蔵守如此上ニ乍負の面目と、早川事令沙汰候由ニ候、扨早川の仁人宇土本郷より加兵の勢令詰後不残致討死候旨、入道(宗運)の本陳ニ相達ニ付、宗運の陳から早川衆討死の所迄は十五、六町程も可有之ニ、本陳には田代を被置、不断の逞兵二百騎程ニて飛鳥の様ニかけ被付、大河・成松沈目村の林小かけニ致し息を休め控え居候ニ、真一文字に鑓をいれ被申候ニ付、以外左行右行ニ成候処、宗運領内山出村大武明神の社人田上周防と申者大河六弥太を討取候、同村地侍井芹河内と申者成松式部左衛門を討取候、両侍頭如此ニ付本郷勢敗北、不大形沈目村の沼田ニ迯(ニゲ)入かけ込み、見苦キ死を致候者多く不残討取被申、宗運被申由ハ、自分手を砕キかほとニ戦候事今迄ニは多ク無之と被申候由ニ候、帰陣の上ニて入道被申候は、自分は天道冥加ニ相叶武運つよき者ニて候、其子細ハ宇土勢と令一戦候処を城より令後詰候ハヽよほとの可令難義候ニ、兼々入道ニをぢはぢ致候故左無之仕合ニて候と被申候て被致一笑候などゝ語伝候、さて又甲佐人数河原よりかけ上り本郷勢の後詰仕被申候ハヽ、早川衆敗北の義ハ念もなく得勝利可申候処、違陳を取早川衆を令見殺候段不及是非候とて入道以外被致立腹、甲佐え人数を打捨可候申やと被存候由ニ候得ば、却て熊の庄ニ利を得させ可被無是非と被存、致堪忍用捨被申由、入道其以後折々被申出候由ニ候、然共此段惟将公ニ被申上候ヘハ、殊の外被遊御立腹伊津野ニ切腹可被仰付候へ共、彼者(コノモノ)ハ村上天皇の御末葉ニて御綸旨(リンジ)を頂戴仕候分ケ有侍故死罪は被遊御免候、併御追放と被仰出、天草へ被遊御追放候、然処あそ家の仁人は不及申、阿そ山・亀甲山・飯田山、其外諸出家衆矢部へ被致列参、伊津野本領安堵・帰城御免の御訴訟被申上候ニ付、三年目ニ被遊御免許被致帰城候、其城の悪名無是非存られ、相良発向の砌にハ不及籠城出陣、背水の被致陣取一足不去討死被仕候半と、其有心の仁人致取沙汰候などゝ語伝候、

一、早川休雲嫡子秀家・渡部吉久嫡子又太郎・次男孫四郎・円福寺小僧善忠、彼者共御用ニ立討死仕候跡ニて悪ク被仰付間敷候、急度宗雲(運)承ニて可被仰付候との御事ニて、忌中ニ御目見ハ不被仰付候との仰出ニて、追付ケ宗運承ニて秀家を越前守ニ仰付早川城領共に如前々被為拝領候、其上金子亡父(休雲)供養のためにとて被下難有入道(宗運)ゟ(ヨリ)御礼被申上候、又太郎も前々の通ニ権大宮司役知行被為拝領候、其上同郡御舟木倉御蔵納の内しと・きよつじ二名御加増被下、両人共ニ今度吉久御用ニ立死候御褒美ニ、御殿中ニて傘履被遊御免候と被仰出、眉目過之不申、其砌是而己令取沙汰候由ニ候、其砌ハ御老中衆も右の通候段ハ難成候由と語伝候、円福寺小僧儀は無学無能ニて乍罷在後住被仰付、前々の通寺領被下候との仰出、何も宗運処へ呼寄右の通を被申渡候由ニ候、又太郎・孫四郎、十五、十七の時ニて、申老臣・籐次郎と申候中老、彼等両人ニて守立候由ニ候、
下人頭に源五と言者有之由ニ候、百十ノ上ニて死候由、亡父若輩の比(コロ)迄存命せしめ、其砌の咄共亡父ニ細々仕聞せり候と亡父語被聞候、籐次郎ハ糸田村ニて死候、忠兵衛が祖父ニて候、玄蕃ハ早川ニて死、理右衛門が祖父の事ニて候、扨又円福寺の弟子善忠十六ニ成被申候時ニて、師匠の陳立ニ付そひ被参候て、各合戦の時は鑓をふりかたげ、麦畠の中ニ忍ひ居候て見居候処、円福寺・渡辺は休雲討死後ニ八人を相手に切合被申候処、三人○(この○は討被申候て)五人と成申、又あひてになし戦被申候内に渡部吉ひさ被致討死候、其跡に三人ニ成候を春蔵司あいてとして切合被申候内に、春蔵主討死被召候ニ、両人ハ立去候処、一人相残り師の首をかきしを善忠見すまし、麦畠より無二無三ニ走り寄り、鑓ニてたゞ中を突通シつきとふしおき、鑓ハ打捨置、師の最後迄被持居候長刀をおつ取なく/\迯(ニゲ)さり、不(府)領村ニ円福寺の末寺有之候ニ走入死をのがれ、早川の様ニ帰候と、善忠亡父なと又ハ其外当所の老共にも語聞せり被申候と亡父被申候置候、亡父目水をたれ、昔の乍事残念ニ候ハ、円福寺・渡部両人ニて八人を相手に致し三人を討取、五人を相手に致し両人討死は扨も大手柄ニて有之候へは、入道(宗運)も見不申、早川人数各討死せしめ候故見候人も存候人もなし、善忠の咄迄ニて無是非はたらきと申候て、百年余の後に無念がりをり被申候、渡部は武士ニても候、春蔵司右の通不思儀と父亡善忠ニ被申候ニ、善忠咄おり被申候ハ、師の坊ハ五尺の屏風立物を外ニ立候て長刀をつかひ飛こし、たてもの屏風のふちニ上り歩ミ候て長刀をつかひ居れ候と、善忠被申候と亡父被語聞候、彼長刀を善忠右の通りニ被持帰候を、円福寺本尊当分まても御座候弥陀木像のわきニ立おき、何等も被召置候由ニ候、然は天正年中国代落去一同ニ寺社も同前ニて、円福寺寺領共百姓高成小西領分ニ成候時分、渡部三蔵と申侍の知行ニ右の寺領も成候故、円福寺を山の中に迫入候て寺地を屋敷に被致在宅被召ニ候、左候て彼長刀を見被申候て被致押取、小西とのへ上申候ニ、正身の正宗ニて行長一の重宝になり申候由、亡父咄被聞せ候、柄入かまのえびしりノ様ニ打まげ候て有之由ニ候、急用ニ正宗作り候時うちまげニ作り立候ニ如此有之候と、其比申たるなどゝ亡父(吉政)咄被申候、

 一、惟将公、甲斐入道ニ被仰付候ハ、健宮正運は元来其方が一家ニても候、軍慮も宜候間、彼者を同陳ニて熊の庄乗取候へと被仰出候、其段即正運へ被申聞候得ば、謹て被奉得其意、両将出陣被致御舟川・水泉寺(水前寺カ)川ニなれたる河達水錬共を忍バセ、浜戸川を夜中ニわたさセ城内に令放火、漸(ヨウヤ)クもの事ニ都合三年目に被致落城候由語伝候、宗運数度の高名他国迄も被致顕名候弓取ニて候へ共、三年目ニ右の通尤の事と申候、其分ヶハい後小西行長領分に成候故、彼(コノ)熊の庄城を一覧候て目ニ付、居城ニ可被取立と被思召候得共、城辺薪山を可被仕立の地無之とて用捨の由ニ候、其後加藤清正公肥後ふさねて被遊御領候砌、此(コノ)城被遊御一覧、前々より御目ニ被為付候由ニて城ニ又御取立可被成と御座候へば、城辺に薪山地無之候とて被遊御用捨候、然共小西領分の砌ハ舎弟主殿佐を城番ニ被遺置、大形城分ニ成居候由語伝候、

一、先筆書おとし候、右の円福寺善忠ハ生所中山内九尾村ニて候、当時作左衛門・七左衛門・木左衛門・玄左衛門、当分御百姓相勤罷有候、彼者共曽祖父ハ吉慶と申者の叔父ニて候、

一、早川城主の侍頭佐渡大学・同図書・同能登・同修理、彼仁人の子孫、当分矢部の内佐渡村ニ百姓と成罷在候、早川村と彼(コノ)さわたり(佐渡)一村同所の分ヶ後筆ニ可書出候、

     『甲斐宗運黒仁田氏被討候事』
一、岩尾の城代黒仁田豊後守ハ、甲斐宗運の嫡子同相模守親秀入道宗立の舅ニて候、然処彼豊前守あそ家の後家老分の仁ニて候ニ、あその御家を背き日向国伊東ニ随意(身カ)有之旨宗運聞届被申候、去とてハ不忠不義不及是非候討可申候との事ニて、娵(ヨメ)の宗立内方ニ被申候ハ、其方が父豊前守は阿そ殿を背日向伊東ニ随身の旨慥(タシカ)ニ聞届候、爰元(ココモト)え呼よせ可討候、かわごぜも可致一味候哉、有躰ニも申出候へと被申候へば、娵(息子の妻のこと)被申候は、扨(サテ)は左様ニて御座候や、及是非不申候、代々の主君を被奉背無法の仁を親と存可申様無之候、急キ御討可被成候、味方可仕様も無御座候と申候へば、入道機嫌ニて、扨々能言たり/\、尤の事、扨(サテ)ハ誓言を可聞候と被申候得ば、有之と誓言被申候付、黒仁田一家中不残幕下至迄、豊後守同前ニ御舟川狩遊ニ令招受、日を定呼受被申候て、大将の黒仁田豊後守一人宗運奥座敷ニ通シ、飯後ニ手討ニ豊後守を被討候て、一ツ貝ヲ吹被申候と一同ニ亭々客々ヲ討候へば、御舟城下九十九小路中ニ被申渡置何某(ナニガシラ)は何某所々と宿割被申付置、右の通ニ一ツ貝ヲ合図にて各一同ニ客々を討候由ニ候、如何の知略故入道の家人ヲ一人も不損上下四百八人即時に討取被申候、宗立内方尋常ニ衣文刷(ハラ?)ひ罷出、入道ニ扨々御本望不過之候、わらハも大悦此事ニ存候と祝詞を申てから/\と打笑、目水一滴落シ不申と語伝候、

     『甲斐宗運・同宗立丹花(旦過)の瀬合戦の事』
一、天正中ツ三月十七日ニ甲斐宗運・同宗立、飽田・託广の境丹花の瀬ニて無類の合戦被致候、高名分ケハ河尻・鹿子木・隈本・宇土・高橋の城主々元来豊州大友殿幕下ニて、殊更(コトサラ)甲斐宗運阿蘇殿の大老ニて又内の侍ニて候得共、大友の他ニ異ニ被思召肥後國ノ仕置そこ爰(ココ)ニ宜ク御頼思召との事共ニて、隈部・合志何等も宗運とハ無他事語らい被申の処、右の城主衆思い/\心々ニ成被申候て豊後を相背き、密々薩广・肥前心々ニ被罷成大友義統公ニ不忠ニて候へ共、阿蘇との計豊州方ニて御座候を右の城主々猜(サイ、ソネム)被申候て、阿そ家計如此のだん見苦候、阿そ家を可被亡と内談有之由を甲斐入道(宗運)慥(タシカ)ニ被聞届、不移時日八千町を催、大将分/\八千人・入道手勢三百騎、父子大将ニて明後日出陣とて御舟城々代迄ニてハ無心元候間、孫の早川越前守秀家今度御用の陳立同前の勤ニて候間、御舟ニ被罷越為悪(要カ)心被致入城可給候、早川の用心ニハ、一家ニて候上は渡辺孫四郎被致入城宜候との使者、入道より被差越候付、秀家祖父と云イ大老の宗運と申味方と被存候ての事と云、阿蘇殿御用立同前と令申越候事、旁(カタワラ)ニて無拠御舟被罷越候、渡辺吉次(軍兵衛)も御城ニ相詰候由得其意申段返事申候故、入道満悦候て父子の入道大将ニて手勢右の上ニ、領内在々庄官等阿蘇家惣勢一万余ニて託广本庄ニ被致発向候処、隈部・鹿子木・隈本・高橋の城主々白河丹花の瀬を前ニあて各陣取候て被控候由ニ候、宇土・河尻両勢ハ丹花の瀬ニて矢合の砌宗運の跡を取切可令後詰とて、とがハらと云村の辺りに令伏兵罷在候由ニ候、然而宗運父子本山のよやす(世安)と云村の小篠林の影ゟ(ヨリ)左邑鷺矢旗を押立、無二無三ニ丹花の瀬のこなたへ人数を押寄是へ/\と恥しめ被申候ヘハ、各一同ひた/\とおつひ(てカ)かけ入被申候処、甲佐・御舟の大河ニなれたる川達水練の若武者共水の浅深をも不論かけこミたくりよせ、川中ニて無双の大合戦、其外矢辺(部)・砥用・中山・南郷・菅の尾・阿蘇・小国・山野・谷坂不行自由の馬達者、各神便の様ニ戦候故、右往左往ニかけ立られ敗北、不大形後詰存懸も、川尻・宇土の軍士本所々へ迯(ニゲ)可申筈ニ候処、追討候と存候哉、薬師町の○深渕を渡り河向なる味方ニ相加り、高橋ゟ熊本をさして引取候所存の外、北目衆敗北ニて各右の通城主々おくれを取家兵大分討死候、宗運父子如此被得勝利候事ハ唯事ニ非ス(タダゴトデアラズ)、阿蘇明神の御冥加と各上下一同阿その御煙を拝申候由ニ候と、今度の合戦にも入道吉例ニて四百八ッの首を取、勝閧(コウ、タタカウ)を上られ、上下一同食水被致候処、引取候味方を押分ケ武者三ン騎近クはせより名乗候は、我々は城の家臣木葉・平川・城の籐左衛門と申者共ニて候、我等事ハ国中に令顕名候故御聞も被成候ハん、今日致他出先刻の戦ニ不罷出御事未懸御目申候、乍慮外御父子ニ自分を不交勝負をおふき奉り度と申もあへす打て懸り候、宗運被申候ハ、扨も一騎当千の侍見事ニて候、心さしの通りニと被申候て、味方ニ先手指そ老後に花軍して見すへしとて、三人の荒手の者共と受ツ流しツ古今無双の見事ニて、終(ツイ)には木葉・平川を入道父子ニて討取被申候て、国中是沙汰の手柄被致候由ニ候、城籐左衛門ハかいふって迯(ニゲ)候を、きたなしかへせ/\と惣軍勢のゝしり候へ共無難迯去(ニゲサリ)候が、取て返しかけ来り、竹宮八千左衛門殿はおわせぬか見参せんと申候故、八千左衛門是を聞願ふ所ニ幸とて馳来り、八千左衛門罷在候と云よりはやクかけ合秘法を尽くし戦候得共遂ニ勝負なく、双方気力つき相引ニ、なんなく籐左衛門ハ隈本をさして引取候由ニ候、宗運ハ四百八ッの首を取帰陳被致候ニ、宗運事は漸(ヨウヤクク)千丁の領主ニて候得ハ、右ニ書出候通神の化人ニて候や、薩广の太守義久・肥前隆信不大形名侍、又嶋津の大老新納武蔵守乍又内日本ニ令顕名名高弓取立、彼甲斐入道ニは以外恐脚(怖カ)不大形、北目迄ハ折々隆信万騎の勢にて発向侯共阿蘇え出馬無之侯、御舟近所迄ハ被令出陣候得共御舟城ニ被押懸候儀無之候、然は彼八千左衛門其日の合戦ニ有名の首七ッ宗運ニ見せ候由ニ候、彼藤八千左衛門各別双方気力つき相引の事、八千左衛門ハ尤の事と其比(ソノコロ)申候由ニ候、彼八千左衛門ハ其日ハ不限そこ爰(ココ)ニて無類の手柄仕候故、阿蘇とのより八千丁ニ無比の軍士と被仰出、仮名を八千左衛門と被仰付、右ニ書出候通の阿蘇家武者揃ニ万治丸八千左衛門と候はこの八千左衛門か事ニて候、其砌ハ仮名・実名従主将被下候を天山の高名ニ存候由ニ候、彼八千左衛門元来ハ矢辺(矢部)の御殿近所に被罷在御奉公被相勤候か、竹宮甲斐正運事宗運ニ内縁の分ケ有故健宮ニ参往候ハんと哉と存候、宗運健宮の城主正運内縁の分ケ御筆ニ可書出候、城籐左衛門事、天正年中隈本城殿の家人籐左衛門ハ剛者故城名字を被免候、八千左衛門健宮ニ罷在候ニ、双方知ル人ニ成不申候事いかゝ敷候、然共其砌ハそこ爰と領主/\持切ニて候つる故、隈本ゟ健宮ニ行、健宮ゟ(ヨリ)隈本ニ行候事も当分他国へ参候同前ニて、殊更其領主/\の木印札を不断ニさげ居候ハねハ、殺ししめ殺候も盗人と名付候故可仕様無之時世の由ニて、扨は籐左衛門・ 八千左衛門乍両人剛の者ニて、互ニ見参候望ハ有之候ハんつれ共、右通故初て右の通ニて候ハんと存候、他国ハ不存候、亡父不存候ニ、天正の比(コロ)迄ハ大小指なから茶水酒飲たへ候由ニて、客ニ行来候ても大小さしなからあいさつニて有之候と被語候、右の通後(彼カ)籐左衛門迯候を入道(宗運)家来若武者共追討可申を、入道深副心被申候て被申候由は、彼等か様成ル武士ハ敵ニても惜ク候、扨又彼者を討取候ハねば味方負候にてハなし、かち軍士なから彼者打取ルは惜し、家頼を討せ候も猶又惜候、迯々と被申候由語伝候、帰陣の上ニて阿そ殿え被申上、今度の首は大友殿え致進上、宜奉存候と御座候て、有名の首豊後ニ進上被申候へハ、大友義統公え被成御満悦入道ニ御感状被下、飽田郡の内池上在々を今度の忠節を被下候との御書出拝請申候由ニ候、然共程なく入道も死去、追々乱国ニ成候故、当分迄の如此なる昔語と成果候、右八(千脱)左衛門娘矢部の御殿ニ御奉公仕居候て、御落去以後令縁付津志田ニ近年伯楽致居候、七右衛門母即八千左衛門娘の子ニて候、扨又右の首を豊州へ持参候は、首くさり候故悪臭をかぎ毒となり候て人馬大分ニ死候由語伝候、

『甲斐宗運益城郡豊田村響の原合戦相良義陽を被討侯事、伊津野山城守討死、田代宗運(伝カ)・渡邊吉次事』
一、相良修理太輔義陽ハ天正初比(コロ)迄ハ球广・芦北・八代三郡を随へ八代郡古麓に住城、彼(コノ)古麓の城を前々八代の城と申侯由ニ侯、義陽も元来大友殿幕下ニて侯由、然は阿そゟ(ヨリ)は宗運承ニて右の証人ニ被罷出、互ニ誓紙書物被取替被申侯て、相良の誓紙ハ阿蘇宮、阿その誓紙ハ八代白木社宮ニ御奉納の由ニ侯、阿その誓紙ハ宗運家来侍頭甲斐伊勢守書侯、彼伊勢は学力能書色々故実者ニて侯つる由語伝侯、然処義陽右の誓証文を違背被仕侯て嶋津家の随意被申侯由ニて、相良被申侯由ハ、阿そと令約束侯誓証文を令違背侯上は、多分従阿そ可被取懸侯間、左無之内ニ阿そへ令発向侯可キとの事ニて、相良の幕下八代郡興善寺城代相良伊勢守・同岡の城代佐々木宮内左衛門・同吉本城代東掃部助・同種山城代蓑田五兵衛・芦北郡田浦城代悪兵衛・同佐敷城代西肥前守・同津奈木城代同水俣此両城代深水宗甫、此外天草刑部少輔、此天草ニは其比(ソノコロ)相良ニ縁引ニて侯事、以ケ様の分ヶかニて同陳侯哉、語伝覚無之侯、右の城代々々并ニ諸出家の武者所存芸法師を始メ数人の出家各引卒し出陣侯て、天正八(1580)年十二月二ニ(日カ)義陽産神白木社明神ニ社参有之侯処、旗竿鳥居ニ懸り真中に切レ侯由ニ侯、此段ハ阿蘇と右の約束誓文相違の御冥罰と、其比有心の仁人致沙汰侯由侯、然共左様ニ怪事ニも不被驚無心事、即日騎馬・雑兵一万余ニて出馬ニて、益城郡の内小川町・守山・小野村々を焼立、小野村上野の峠しやはかミ(シャバカミ、娑婆峠)と云所ニ、古麓ゟ七里程押シ本陣を取被申侯て、翌朝未明堅志田北左衛門尉の居城赤峰の尾ニ西肥前守、甲佐伊津野守松の尾ニ東掃部之助、彼(コノ)両将ニ三千余の軍士を差添被差向侯、西一手の軍人千余ニて赤峰の尾ニ打向侯処、堅固令籠城侯故頓て(ヤガテ)責落侯事難儀、取巻侯迄ニて時刻を移侯、東一手の軍士二千余ニて甲佐松の尾ニ令発向、大将東本陣を油坂と云坂の峠ニ取居侯て、軍人を甲斐近所迄差向侯処、伊津野城下を引卒し可被申間も無之、相良勢何程の事か可有之うか/\と被存侯哉、又ハ運尽侯ての事ニ侯や、手廻の者計(バカリ)ニて早速出陣侯て碧(緑)川を打渡り、日和瀬河原の平かなる芝河原ニ陣取侯て、東か本陣油坂へ人数を被差向侯処、東の軍士ハ坂ノ上より真下ニかゝり、伊豆野軍士ハ坂下より真上りニ坂中ニて相戦ひ、即時に伊津野勢令敗北、大将の本陣日和瀬(ヒヨリセ)河原ニ引退侯処を、東の軍士得勝利、急に追かけかハらニて手痛く戦侯に、東の人数ハ二千、山城の人数は二百ニも不過故たまるへき様無ク、後ハ大河可引道も無ク、即時に伊津野被致討死侯、彼山州碧川を渡り、大河を後に当敵のかゝりばよき大平の河原に陣取侯て被致討死侯ハ、先年熊の庄合戦の砌、をくれをとり被申侯て面目を失被申侯残念にて、背水の陳取被召討死被致哉と、其比致取沙汰侯由ニ侯、山州ハ討死被致侯得共、家老伊津野四郎右衛門を大将として家頼の侍赤星一太夫・甲佐宮の社頭・権大宮司・数人の祝部、中ニも田上伊豆守、各一同ニ大将今朝城下を御催なく出陣、我々共遅参不及是非侯と申侯処、伊津野四郎右衛門と申家老ハ、朝宿ニ有合不申侯て大将を討せ無是非侯、東掃部を討取らすハ二度び甲佐へハ立帰間敷と猪の歯咬をなし、引取味方を押返し/\油坂え切て上り侯ニ、相続仁人ニハ田上伊豆・赤星一太夫・権大宮司・数人の祝部、面もふらす四郎右衛門真先キ油坂へ、山州を討取上下のゝじり居侯処ニ、二百程ニて乍寄立真黒ニ切上り侯処、真先ニ懸四郎右衛門か乳ノ下を東掃部鑓ニて表ニ突通侯、四郎右衛門剛の者ニて手伝寄侯て東掃部を討取侯、東軍士大勢とは乍言、東大将討死侯故以外ニ周章(シュウショウ)右行左行ニ令敗北侯処を、赤星・田上、其外の仁人死を一途ニ致侯て追懸/\手痛戦侯故、東の軍士多ク討取、四角八方残兵令敗北、四郎右衛門右の通深手負を家人せをひ(背負)侯て、油坂の下岩下ニ甲佐宮の惣禄祝部と申社家の所ニ置侯由ニ侯、松の尾城下の家人令遅参侯事尤の事ニ侯、坂谷・水越・横部田遠境の在々ニて、恩下の地侍内野伏の兵人かけ付侯事不相成侯、右の田上伊豆守ハ、甲佐宮の鬼丸祝部と申社家ニて侯田上甚兵衛曾祖父甲佐作之允高祖父ニて侯、赤星は甲佐の一太夫ニて社家ニて侯、当分安平村ニ城形少々有之侯、赤星の住所ニて侯、国代落去以後ニハ有無の躰ニて侯を、安平村当分の庄屋の祖父右の赤星を懇ニ労育致侯故、赤星名字をも相譲侯、此外孫々とても無之侯、伊津野四郎右衛門ハ江原雲晴と申伊津野の大老の嫡子ニて、山城守の親父三河守の娘山城守の妹を四郎右衛門女房ニ致侯間、江原も改メ伊津野名字ニ成侯、伊津之氏ハ村上天皇の末故有之家ニて侯、然ハ天正初り比ニ、従京都碁楽と申天下一の碁打豊後大友殿え下り侯、就夫(ソレニツイテ)碁楽を九州の内御幕下を令一廻侯付甲佐伊津野えも来り、左侯得ば山城守ハ伝受と言事無クして国中無類の碁名人ニて、彼碁楽と碁一盤を両日ニ被令成就、先手を碁楽ニ被渡侯、又二盤ニ碁楽負ニ成り、是非共一ツを取返度存侯、天下ニて名を失ひ侯と碁楽申侯由ニ侯へ共、伊津野被申侯は、其方連の下手と打侯得ば、てき面ニ碁石の手下り侯間いや/\と被申侯故、無是非松の尾よりすぐ様ニ豊後ニ立帰り無念かり、いきほしを付キ絶食、船中ニて気を頓死侯由、亡父(吉政)咄聞被申侯、右の通を渡邊吉次見被申侯て、慥成咄(タシカナリハナシ)ニて、右の四郎右衛門娘ハ愚老伯父九郎右衛門女房ニて侯、彼九郎右衛門惣領子を助兵衛、惣領娘当分の助兵衛女房ニて侯、助兵衛両人の子又兵衛・惣兵衛ニて侯、助兵衛女房の弟甲佐宮の宮寺神宮寺只今の法印ニて侯、扨ハ伊津野の末孫ハ如此ニ侯、彼四郎右衛門ハ母方ニ令連続、軍兵衛(吉次)とは従子(ジュウシ、甥ノコト)ニて旁重縁ニ、四郎右衛門令法躰、法号清念と申侯を、九郎右衛門所ニて育殺侯、山城守の子息宮内少輔と申侯、右の合戦の折節ハ大病中ニて被致平伏出陣無之由ニ侯、落去後加藤清正公ニ被召出手筈有之侯得共、如何被存侯哉、筑州ニ知処有之侯とて、鬼神太夫と言伊津野家ニ伝来侯大脇差をさし、深編笠を着侯て被致逐電(チクデン:敏速に行動すること)、以後成行不相知由ニ侯、扨東討死の残兵共を中山・砥用より令発向、堅志田かたひらと云所に林の左右ニて大合戦致侯ニ、東の残兵共又々令敗北山林方々え令退散侯由ニ侯、砥用馬入城代砥用丹波守・佐々原後藤兵衛・中山・串野の玄番允・祓川・小や野の何某、各荒手ニて追かけ/\悉(コトゴトク)討取侯、串野の玄番は中山当分の惣庄屋中山孫右衛門高祖父ニて侯、佐々原後藤兵衛ハ砥用大庄屋善兵衛先祖ニて侯、後藤兵衛妹は愚老祖父吉次の妻女ニて亡父ノ母ニて侯、小や野は祓川ニ末々有之侯、小屋野の証文祓川村の慥(タシカ)ニ源兵衛と言老身令持所侯、右の仁人相良本陣の近所に令遠慮長追討ハ不致侯由ニ侯、以後宗運を始なれたる古老共申侯由ハ、右の荒手の仁人赤峰の尾を取巻居侯西肥前守か後詰を致シ城より切て出侯は、西氏をも討取侯ハんに、軍士なくして無是非事などゝ申たるよしにて、然上は義陽(ヨシヒ)本陣え伊津野討取侯、然共東令討死侯通り相達侯えは、さばがみ(沙婆神)ゟ半里甲佐の方ニ押よせ、四方十町ほどの平地一面の所響の原と云ニ本陣を張、伊津野討侯祝の酒宴被致居り侯由ニ侯、

一、豊田の城代村山丹後守ニ従義陽使を以被申侯ハ、村山氏相良の幕下に被相成可被逐一礼も、及異儀侯ハヽ軍士可差向侯、急ニ有無の儀返事ニ被申越侯へと被申遣侯、然て村山丹後守ハ矢部の御殿ニ当月番ニ被相詰侯由ニ侯、留守居の城代此由承侯て返事申侯ハ、村山丹後守今月ハ阿蘇殿御館月番ニて矢部ニ被罷上留守ニ御座候、私議湛淵甚喜と申家頼にて留守迄を被申付仕置侯ニ付、私に有無の返事可申侯へ様罷成不申侯、尤人数を出シ防申事の私不罷成侯、殊更家来少の侍共ハ村山召連右の通侯故尚更此段不罷成侯、此方ニ御軍士被差向侯は村山の妻子と共ニ自害仕侯より外分別ニ及不申侯、如此の御使の段村山方ニも此段今日可申遣侯、然上は従村山方邪正の返事は可被申侯、此皆義陽公ニ被仰上可給侯、是非乍此上も御人数被押向儀共ニ侯ハヽ其段被仰聞被下侯、則閉門仕居可申侯、此旨被仰上有無の段被仰聞被下侯へと申侯、此旨相良殿へ申上侯処、各評定取々ニて押懸可被打捨哉、至極の道理を申侯ニ付手差被成間敷哉と吟味の処、侍頭豊永氏すゝみ出申様、去とては湛渕か申段至極の事ニて御座候、留守居承侯身上ニて得共意侯と申侯て御礼申侯ハヽ其座ニて討取可申を、主人の上を計イ不申侯道の返答申事見事ニ侯、人数被押懸侯ハヽ矢を一筋射不申村山氏の妻子を手ニかけ見事可致自害侯、其時には人口不可然侯、いかにも至極と思召侯、村山氏より返事次第ニ侯、其間は御かまい不被成との使を被遣御尤存侯と申侯得は、各一同ニ尤の事とて使を甚喜へ被差越侯ニ付、豊田の城は其日無事ニて先々相通り侯由ニ侯、然は甚喜右の通ニ丹後守ニ即刻申遣侯得ハ、返事ニ申様、無残所侯得其意侯、弥申越侯様心得罷在侯得ハ、若相良より村山ハいか様に申越侯哉と使ニ申来侯は、返事ニ可申ハ、村山申越侯は先以妻子ニ無御構侯旨難有存侯、今日中罷帰侯て宜申達と申上置侯得と返事を申侯て、だまりて罷在用心仕可申侯、早々可罷帰と申侯間、甚喜か飛脚早々差戻御殿ニ罷上相良発向の段相良より村山ニ申越侯、使口上の趣、留守居湛渕か返事の段細申上侯得ハ、惟種公被聞召上、即刻帰城可仕侯、御舟の様ニ参候て宗運ニ申聞下知を可請侯、最早多分宗運ハ可令出陣被為思召侯と被仰出、御暇被下急速ニ村山被罷在候由ニ侯、彼甚喜今度の首尾中々甲斐入道(宗運)の機ニ入、村山氏ニ乞被申侯て巳後ハ入道家頼被成侯、国代落去浪人となり果申侯、甚喜曾々祖父孫早川村ニ当分御山の口仕居侯新兵衛ニて侯、右の通祖父吉次ゟ(ヨリ)慥(タシカニ)申伝侯、

一、宗運え甲佐早川より注進申侯ハ、相良義陽発向有侯て今朝未明堅志田・甲佐両城へ東西両将被差向侯付、伊津野今朝被致出城ひより(日和)瀬河原ニて被逐合戦被致討死侯、併寄手大将東掃部助を伊津野四郎右衛門討取申侯、西肥前守大将ニて、赤峰の尾令発向侯得共、堅固ニ令籠城侯故取巻申侯まてニて無別条侯、相良の本陣ハ豊田響の原ニて御座候と申進侯、宗運承知、不被移時刻兼類近従を放不被申、甲斐武蔵守・同伊勢守・栗林伊賀守入道等与と申侍頭共ニ被申付、不行の逞兵二百騎程ニて早々被出立侯ニ、嫡子親秀入道宗立ニ被申付侯ハ、御舟郷中の百姓共を即時早々飯田山ニのほセ、山の峠を鍬ニて開せ、峯なとさめさセ、大勢色めき侯て響の原当(アタリ)より見侯処を右の通ニと申侯得、扨又城代ニ旅の者・他領の者外川より内に入間敷侯、色々致要心侯得と被申付侯て、若宮明神并城内天満宮を拝、黒の名馬に打乗、自身大貝を吹たて軍士を引イ侯を吉例とて拝し、響の原の順道ハ押不申通りを可押とて山出村ニ被押出、彼村領内故彼村の大武明神の社人田上備後と申者并同村地侍頭井芹河内と申者を供を(とカ)して、田口村と津志田村との間道を押、安見村ニ被押出侯も、相良の物見共見侯て大将ニ申侯ハ、御舟より北ニ当て見へ申侯ハ高山の峠ニ大分人数見へ申侯、乍其上峯をさめつちを突申哉、新の土色見へ申侯、扨亦是ゟ(ヨリ)壱里計下り末の村際を鎧武者大分見へ申侯、乍去旗差物ハ見へ不申侯と申侯得ば、相良の人々申侯ハ、曽て(カッテ)難心得心と申ゟニ、義陽被申侯ハ、宗運居城を筈(ハズ)し飯田山に引上り侯ハんと察侯、扨又見へ侯人数は宇土本郷伯耆兼々懇のゆへニ、こんどましき(益城)えし(自)分令出馬侯段被聞付、為加兵被差越侯人数ニて可有之侯、誠以重(祝)着の至不斜と各太悦仕心もなく被罷有侯処、下糸石際の堀通し道を宗運隠、急ニ押通シ、義陽の本陣響の原ニ押上り、三、四町ほども前ニて左巴鷺矢籏を押立閧(コウ、タタカウ)の声をあげ、貝を吹立、無軍法の太鼓を打、真一文字ニかゝり被申侯ニ付、相良の仁人ははや甲斐宗運侯と周章(シュウショウ)侯処、をしかけ右往左往ニ懸放し突崩し、片時の間ニ義陽を討被申侯、惣て(スベテ)宗運兼々目を懸侯一騎当千の剛の者共と申侯本田・田之上・下山・栗林・緒方・志戸・岡・井芹・鳥居・湛渕・椎葉・杉田・保田・林・村山、彼者共ハ一面ニ切崩突崩戦侯故、相良勢一人も立合人無之、追まくり切まくり悉ク(コトゴトク)討取侯故、四角八方へ迯(ニゲ)去敗北、不大形糸石山しやはがミ(娑婆神)を指て令退散侯、相良家の法師武者所存芸法師を田上備後守討取侯、彼備後ハ先年熊の庄合戦の砌(ミギリ)、宇土本郷家の地侍大河六弥太を討侯田上周防が嫡子ニて侯、中横田村庄屋伝右衛門曾祖父ニて侯、存芸法師・天草刑部少輔・東西南北ニと言相良家の四天の侍・豊永なと言侍頭、皆々宗運討取被申侯、義陽は入道家人緒方喜蔵と申者討申侯、片時の間は有名の侍七十余人・雑兵弐百余人討取被申侯て勝閧(カチドキ)を上被申侯由ニ侯、宗運家人ハ左程不損響の原を引取、す(巣)林村の前経の坪と言丸野畠に小高き地ニ陣取、被召上下飯食を調休息の処、

一、宗運幕下の田代在々の領主田代城代宗伝と申仁走参候、謹て被申侯は、今日の御出馬遅ク承り響の原の御手ニ合不申、残念ニ奉存侯、不珍の御事とは乍申、相良を被成御討侯事無類の御儀と感悦申上侯得は、宗運被申侯由は、其事ニ侯、併堅志田・甲佐え令発向侯東西は残兵(ゾウヒョウ)とも、義陽を打せ晴々とハ引退心得有之間敷侯、其上可引道を如此ニ差塞(フサグ)居侯上は、一途の合戦相残侯、然共此方え不相構向の山辺を引侯ハヽ手差せ間敷侯、窮鼠(キュウソ)却て猫を咬と謂伝て渡り侯と被申侯得ば、田代入道承り申侯は、仰(オオセ)は御尤ニて御座候得共此方ニ相構不申侯、山辺を引申侯とても伊津野を討通り申侯者共を晴々と難通存侯、是非共愚老ニ一合戦被成御免可被下侯、自余を不交荒手ニて一合戦逐申度と申侯得ば、宗運様子次第ニと被申侯処、甲佐・早川え令発向侯軍士共義陽打れられ侯事を聞、前後不覚ニ成侯て糸石の桑の迫と言所を転引ニ引、宗運の陳所えハ不構申侯へ共、宗伝(田代)歩立の軍士二百程ニて一面ニ鑓を揃え真黒ニ突入被申侯ニ、片時の間黒煙立侯て相良の人々令敗北、し(や脱か)ばがミ(沙婆神)を差て引も是有、糸石山ゟ(ヨリ)小熊野・海東(宇城市小川町)をさして引人も有、見苦しかりし事共ニて侯、堅志田原ニ相残侯東西の残兵共桑の迫の難儀を聞、何方へ可引やと十方を失ヒ罷在侯を、赤峰の尾ゟ(ヨリ)令出陣致追討侯故四角八方へ令退散、糸石と堅志田との間ニ当分も清水泉所有之侯、彼右左ニて堅志田若宮明神の寺社落去侯得共不相知成侯由ニて、万余の相良勢一人も不得見躰ニて見苦しかりし事也、扨田代宗伝、相良の軍士五十余人討取宗運ニ見せ申侯由ニ侯、宗伝家人は左程不損致手柄侯、宗運彼申侯は、今度乍不限事粉骨神妙ニ侯と勧譽被召侯と語り伝侯、今度も宗運吉例ニて響の原桑の迫首数四百八ツ討取高名の段語伝侯、

一、宗運は阿そ(蘇)の御家國内の御領知は不及申、其外右ニ書出侯通の国々所々の御領知の仕置被申付侯ニ、第一被申付侯ハ、若事急ニ珍事令出来侯時分ハ住城堅固ニ相守り令籠城、疎に(オロソカニ)不可致出陣侯、入道が差図を得城外へハ可罷出侯、籠城及難儀侯ハヽ後詰の助兵を以可遣侯、城代/\ニ被申渡置侯、伊津野出城不及是非侯と其砌致取沙汰由ニ侯、就夫(ソレニツイテ)早川城主越前守秀家、相良の軍士甲佐え令発向由風聞と即時ニ被致籠城侯、しかる処早川厳島宮の権大宮司渡邊孫四郎吉次事、秀家とは乍一家阿蘇殿へ直参の者ニて侯故、甲斐入道出陣の段令風聞、玄番と云古老壱人供シ響の原への近道舟津・篠の尾越より西山正法寺門外を通り、野伝イに入道ノ陣所経の坪え参着侯て、入道ニ致対面侯て、吉次(軍兵衛)と申侯ハ御出陣遅ク承り遅参、響の原・桑の迫両御手にあい不申、残念ニ存侯と申侯得共、宗運仰侯は、懇志故ニ早々被罷越致満悦侯と侯て、両度の合戦の次第被咄聞侯を承り、田代入道へも感悦申居侯処、陣所より南の縄手田原の中を馬ニ放レたる武者と相見へ、長刀を横たへ只一人心静ニ不臆引退侯を吉次見侯て、宗運申侯ハ、あれは相良家有名の者ニ見受申、討取可懸御目と申侯て追懸(オイカケ)、其方ハ相良の仁と見受侯、名乗侯得、此ク申者ハ阿そ家ニて渡邊吉次と申者ニて侯と申侯得ば、扨々左様ニ侯、某は相良家ニて少々侍頭承り侯豊永籐次と申者ニて侯、家頼致落去如此ニ侯と申も不散、長刀まくりかけかゝり侯を、吉次(軍兵衛)二尺五寸の刀ニてさすり合、なんなく籐次を討取侯て両入道ニ見せ申侯て手柄致侯、然ニ彼籐次は一方ノ侍頭大将分の侍を甲斐・田代両入道の眼ゼん(前)にて高名、宗運証ニ被立惟種公ニ被申上侯得ハ、殊の外(コトノホカ)御感ニて、厳島宮・下七半済の在々ニて某内の蔵納ニて加増被下、乍其上(ソノウエナガラ)御刀被為拝領、軍に兵との御ほふ(褒)美の御言ニて仮名軍兵衛と被仰付、冥加の至得家名侯と亡父(吉政)申聞侯、則亡父の実父軍兵衛ニて侯、健宮八千右(左)右門を阿蘇領八千丁ニ無類軍士被仰侯て、八千左衛門と仮名被下侯段、右書出侯軍兵衛と被仰付侯儀、其類ニて侯、被致拝領侯刀令伝承、其方ニ遣侯刀ニて侯、然は豊永討取の刀の銘我里馬と打て有之侯を、其比(ソノコロ)従京都佐渡原加運申目察者、豊州大友殿え罷下侯を御幕下被差廻侯ニ、阿そ殿へも参候故阿そ家被差廻侯付、早川えも見へ侯ニ、吉次彼討取侯刀見せ侯得共、加運見申侯て申侯ハ、此刀は阿部仲丸大国え被遣侯砌、勅定ニて名鍛冶ニ御うたせ被成侯無類の名作ニて、胡馬北風ニ何とやらと云故事を以て此銘をきり申侯なとと申侯て、大友殿え被召上、以後は上々へ上り侯と吉次致風聞侯か
内裡へ上り申侯や、公方ニ上り申侯やと被申居侯と亡父(吉政)被咄聞侯、右玄番ハ吉久の被召仕侯玄番が子ニて侯、

一、然処村山丹後守留守居湛渕甚喜使を以宗運ニ申上侯ハ、乍恐以使申上侯、甲斐武蔵殿宜御取成可被下侯、夕部相良殿ゟ(ヨリ)御使被下侯口上ニハ、村山氏今度相良ニ可逐一礼哉いかゞ、可被逐一礼侯ハヽ人数可被差向侯、有無返事可申旨被仰越侯、甚喜返りニ申侯ニハ、扨ハ、左様ニて村山氏を当月ハ矢部御殿月番出ニて御座候故、矢部へ参勤被仕留守ニて御座候、私の所存として実否の御返事申進侯儀罷成不申侯、家来共ハ矢部へ召連私一人ニ妻子を守らせ召置侯、即刻矢部へ飛脚を差立御使の分ケ村山へ可申達侯、村山所存の趣被成御聞、其上ニいか様共と奉存侯、乍此上御人数被押懸侯て少も防不申村山の妻子を手ニ懸申侯て自害仕より外無御座候、即閉門仕罷有可申侯間、此方相良殿え被仰上、只今御評定の趣可被仰聞侯と返言申侯ヘハ、従相良殿被仰越侯ハ、村山氏ゟ(ヨリ)返事の邪正次第との御使ニて御座候、右の段村山方ニ委細申遣侯、いまた如何様とも不申越侯、右の通故村山領内の男頭々ハ城籠置侯て、女の分ハ縁引/\ニ忍ハせ申侯、如此の通ニ付先刻ゟ無音申上居侯、追付村山罷帰伺公可被申上侯、乍憚(ハバカリナガラ)謹て被仰上被下侯へと申上侯付、宗運以外感シ思召侯迚(トテモ)褒美の言の由ニ侯、然処村山丹後守急寄ニて致参着すぐに経の坪ニ被参侯て入道(宗運)ニ被致面談、湛渕が飛脚の通リニ付、惟種公早速帰城仕侯へと御暇被下、御船の様ニ参候て貴老ニ段々申送、御下知を請侯へと被仰出、急馬にて御城下迄参上候て御出陣の旨承之、唯今如此ニ御座候、然は(シカレバ)強敵を急速ニ被成御討侯事絶言語申侯、御手柄の祝詞を被申侯へは先々急キ可被致帰城侯、如此と侯ても堅家心尤侯間能々無怠慢可被相守侯、義陽事今度社被致無分別も、元来ハ学力も有之侯、位階をも身代ニて侯、見事のあたら事と存侯、今度村山家頼への使なとは尋常ニ存侯ハ若輩分別の者ニ侯、うわきの族にて侯ハヽ村山氏留守居と聞侯ハヽ幸と思ひ人数を押懸城を乗取、其風聞取沙汰を根元にせんと可存侯へ共、少の智力有侯者は格別にて侯と相良を宗運誉被申侯を、丹州も感シ被居侯由ニ侯、真星の宗運被申分と存侯ハ、右の積故村山氏の領内と於于今相良殿石塔有之侯、右の積ニて村山氏の領内ニ相良殿ゟ心易如此立寄被申侯半と察し申侯、右の通ニ湛渕其時の首尾以外宗運の心に叶申侯故、村山氏乞被申侯て入道の家人と成申侯由ニ侯、

一、甲斐宗運、相良義陽発向侯を討申段侯、委細経の坪ゟ(ヨリ)甲斐伊勢守を以惟種公へ被致言上侯処、御感被遊侯て御感状被成下之、義陽の首御舟の城中ニかけ侯へと被仰出侯ニ付、御舟原ニかけられ侯由ニ侯、当分迄も相良の首塚と申侯て御舟原ニ森有之侯、首をかけられ侯砌相良より首を受ニ有名の侍参候ニ、甲斐伊勢守首を相渡侯て申かけ侯、いか様の御用ハ何時にも可承侯、左様御心得へく侯と申侯て笑ひかけ/\、祝ニ一笑被成侯て御かへりあれ/\と申かけ侯へ共、一言も返言を不申侯、首をうけ取箱ニ入しほ/\として罷在侯由語伝侯、か様の筈の事ニて社侯ハんすれと其砌令見聞侯仁人申侯由語伝侯、愚老乍推参存侯ハ、余所ニ参候て罷立侯時笑ふて立侯物と申来り侯、不笑物をも不言罷立侯事も、右の通の事ニていやと申たる儀共と存侯、

肥後古記集覧巻廿八

   『熊庄合戦并響原合戦の覚書』         大石真麻呂 集(肥後古記集覧巻六)
甲斐氏元ハ菊池ナリ、熊庄御船甲斐同姓ニテ上野介守昌ハ宗運ノ三従弟ナリ
一、熊庄城主甲斐氏数代相続、天正の頃の城主上野介守昌と申候、領分五百余町共又ハ八千町共申伝候、御船城主甲斐民部太輔親隆入道宗運の婿ニて御座候、代々阿蘇大宮司旗下にて候処に、天正三、四年ノ頃より、宇土の城主伯耆佐兵衛督顕孝と守昌無二の入魂ニて、内々薩摩へ内通の密談有之候由、此儀御船へは別て隠し被申候得共泄(も)れ聞へ、宗運度々異見被申候故、後ニハ宗運との間柄些(いささか)ト不和の様に沙汰有之候、
一、天正七年正月廿日、熊庄守昌夫婦共ニ年頭の礼ニ宗運方へ被参候、種々餐応有之候、然処宗運居間の床ニ青江の刀粟田口国綱の九寸五分の馬手指刀懸に掛り有之候を、猫四ツ五ツ狂い廻り、右の九寸五分の鞘に飛懸り候ヘハ、刀掛をはつれ鞘走り候得て、下ニ有之候茶臼ニ鋒(ほこさき)五、六分立申候を、宗運驚、大事の鎧通刄も損しつらん、取上け見被申候ヘ共切先少も白ミも無之、希代の名物と自称被仕候、守昌被見候得て頻に所望被仕候得共、宗運殊の外惜ミ、外の物は何ニ不依御所望ニまかせ可申候得共、此馬手差ハ故大和守親宣代大宮司殿より賜候霊劔ニて候間不罷成候由被申候、守昌被申候ハ迚(とても)御所望申懸候儀ニ候間、我等家ニ伝り候伯耆安綱の太刀并(あわせて)備前友成の刀、此友成の刀ハ貴老御若年より所々の合戦に御指被成候由ニて、先年婿引出物ニ被下候、此二腰を替ニ遣可申候間、是非ニ賜り候様ニと被申候、宗運被申候は、安綱の太刀ハ其方御家ニ菊池殿より伝り候重宝ニて候、是は他所へ御出し候儀不成物ニて候、友成の刀ハ愚老ニ婚引出物ニ遣候得は婚引出物御返しと有之儀、年頭の申不吉の儀旁不被罷成事ニ候、乍去左様御懇望候ハ、愚老果候後遺物ニ進し可申候、幸当座居合候嫡子相模守・次男五郎にも申聞置候間、無程愚老果候跡ニて御請取御秘蔵可被成と被申候、守昌とかくをも不被申、無興気にて其日の酉の上刻ニ御船を立被申候て帰り被申候、其節守昌内室ハ一両日も逗留被致候様ニと守昌被申候て残置、密に子細を申含、右の馬手指盗取せ、二、三日過候へて守昌の内室ハ熊庄へ帰り被申候、其跡ニて右の小脇差失せ候儀、宗運の致立服奥方女中共吟味被仕候へは、無紛熊庄内室盗ミ取被申候も相知れ申候、弥以不和被成行、夫より親子婚舅義絶ニ成り申候事、

一、右の通ニて守昌は弥憚所なく宇土へ一味被仕候、薩摩への内通被致候由、無紛阿蘇殿へ相知れ申候ニ付、急度せいはつ有之へきよし、宗運え下知有之、阿蘇殿旗本侍雑兵共千三百人坂梨左ェ門尉を検使として宗運父子罷向可申旨ニ付、天正八年二月廿八日宗運御船出馬ニて候、手勢騎馬弐百五十騎雑兵共ニ三千弐百人并阿蘇よりの附勢共に四千三百人の着到ニて、二月廿八日の寅ノ刻に御船を打立午ノ刻ニ熊庄より北ニ当りたる平野と申所に着陳被仕候、守昌は大勢ニて籠城被仕候故、宗運着陳の節逆寄せに押寄候へて、其夜夜打被仕候かと少も無油無用心被仕、翌廿九日卯ノ刻え城え押寄せ、宮地の土手口ニて足軽せり合御座候、然処城ハ要害無双の城ニて、殊ニ大勢はか/\敷勝負も無之、毎日足軽せり合計ニて、ケ様候ハゝいつ落可申様子無之候、

一、阿蘇殿の検使坂梨左衛門尉老功の侍ニて宗運ト毎日軍談仕、其上宗運の家中ニ下山勘解左衛門と申老兵有之候、此者関東浪人ニて軍談の功者ニて、坂梨も此勘解左衛門と致相談候処ニ、城中の勢大形騎馬五百騎雑兵六、七千人と積り申候、此大人数ニ攻手不足ニて候、宗運軍法の功者故平野の能要害に陣取被申候へて用心能仕候故、城中より討出不申候、如此毎日の小せり合ニ少々此方旗色あしく候ハゝ、城中より備を出し突て掛り候ハゝ、至極あぶなき事存候旨申候へは、坂梨も尤と申、此段委細阿蘇へ申遣候へハ、阿蘇殿被仰候は、守昌不義を仕候を誅伐の為人数差向候に、ケ様の不埒(らち、らつ)の軍立ニてハ自今旗下の仕置も成不申候義ニて候、急ニ加勢を遣し責落可申由、早川城主佐渡入道休雲・甲佐城主伊津野山城守両人罷向宗運手に加り可申旨、早打を以被申越候、両城主承之、来ル十日出陳可仕旨領掌被仕候て、急用意有之、人数を揃へ被申候事、

一、佐渡休雲の内室は宗運嫡女ニて相模守親秀入道宗立の姉ニて候、伊津野山城守内室は宗運の末女ニて守昌の内室の妹ニて候、然処鈴木寿見法橋と申遁世者、歌道の達者ニて京都より西国為一見罷下候を、宗運留置被申候て、女子衆の師範ニて御座候、中にも山城守内室歌道を好被申故、大かたは甲佐の城に居被申候、折々熊庄にも参候へ共、近年は宗運不和故去年巳来は熊庄へは不参候由、此節は甲佐の城ニ居申候、

一、伊津野山城守内室より右の寿見を使ニシテ三月五日晩に熊庄守昌の内室へ被申遣候は、其城強御座候へて寄手利無之候とて、休雲と山城守来ル十日罷向被申候筈ニ候、夫にても落城無之候ハゝ又々阿蘇殿大軍ニて御出陣可有之風聞御座候、御身の上如何と無心元存候間、守昌へ御すゝめ御降参被成御和談成候様有之候へかしと存候、山城守へ御たより被成候へて御歎(たん、なげく)候成候は、山城守身上に替候へても阿蘇殿ヘハ可申上候間、山城守へ御降参の儀被仰入候様ニとの事也、寿見は三月五日の戌ノ刻計ニ甲佐を出、密熊庄の祇園口の片至り、山城守紋附の提灯を差上け鈴木寿見甲佐の奥方より使ニ参候よし申候へは、此門を堅たる番頭成松左京亮矢倉へ上り、寿見法橋は何とて御出候哉、様子承らんと申候得は、是は一大事隠密の御使ニて候、殿え此由被申候様ニ申候、早速本城に此段申遣候ヘハ、早々門をひらき入候様ニとの事也、扨(さて)寿見城へ入候て守昌の内室へ右の次第詳ニ申候ヘハ、則守昌へ内室被申聞候、守昌大きに悦たる顔色ニて被申候は、此次第ニ成り行家の滅亡近日と存候処ニ、甲佐奥方連枝のよしみとて御申越候事、深切の至り悦身ニ余り候、内々此事を思案仕候折節、能こそ御申越候、来ル十日山城守殿是へ発向候ハゝ其節降参可仕候、子細有て宗運や休雲なとへ降参仕候事思ひもよらす、妻子刺殺し城を枕に切服(腹)仕候とも、右両人ヘハ降参申ましく候、山城守殿御取成ニて家運を開き可申候、降参の節ハ城ヲ明け渡、甲佐の城へ引移可申候間、対面近日ニあり、其時御礼可申と能々被申候へ、申ニ不及相かまへて此事口外不可有とて、酒をすゝめ、引出物ニ備前守家の九寸五分、柄は錦ニてつゝミ金の朋金入、鞘ハ銀のたき熨(のし)計付ニ金ノ朋金入たるを手つからあたへ、最早夜更たり、寿見早帰られ候へと被申候、内室甲佐の妹子の方へ文を送り可申と被申を、守昌いや/\些子細有間文ハ無用なり、五,六日の中に対面可有を、か様の節ハ文おち散候得は互の為にならぬ事也と被申候を、寿見申候ハ、仰ハ去事ニて候得共爰元(ここもと)参候御○(手)印甲佐の奥方へも御目に懸可申候間、同敷は御文賜て帰り候ハんと申候得共、手印ハ其脇差山城守殿も兼て被知たる物也、是ニ勝れたる手印あらし、とやかくの内ニ夜も明ケてハ如何也、早帰り候へと被申ニ付、寿見其まゝ甲佐へ帰り、すぐに山城守奥方へ参り候へハ、山城守寿見ハ何方へ被参候やと被申候付、熊庄の趣詳に申候、山城守以の外に驚被申、内室をはたとにらミ付、ケ様の大事の使をなと某ニハ不被申候や、扨々大事を仕出されたり、并隠密ニ仕候へとて、先熊庄ニての様子守昌の返事申候趣委細に尋、山城守被申候は、守昌にも誠の降参をは仕られましく候、今度の返事大き成不覚を取可申候とて、甥の伊津野四郎右衛門へ密ニ申含手立てなと申談、三月十日と日取の義へは、相図をはずさす十日の辰ノ刻ニ甲佐へ出馬被仕候、甲佐の城ニハ伊津野四郎右衛門ニ人数少々添候て残置、三宮社権大宮司赤星金太夫その外祝部神職を相催し上下弐百八拾人ニて打立、先達て早川休雲へ使者へ使者を立、只今打立候、早々御出馬有之様ニと申送り、山出の瀬を渡、出水河原ニて兵粮をつかい、時刻を移し申候、休雲ハ今朝寅ノ刻ニ人数を揃へ山城守出馬の左右を侍と申候処ニ、辰ノ刻ニ山城守出馬の使参候ニ付早々打立被申候、舎弟渡辺右衛門尉を始として一族家の子七拾三騎・因福寺の住僧春蔵主上下三拾人、其外被官に至迄雑兵(ぞうひょう)五百六拾人、山城守人数を通シ引付て出馬にて、是も山出ノ瀬を渡り、田口村の花立坂より押上ケ、舞野原の野中を直に宮地口の大手を差て押寄被申候、

一、熊庄守昌ハ鈴木寿見を返し跡ニて密ニ宇土伯耆佐兵衛督へ使を遣し、来ル十日甲佐・早川の両勢東大手ニ押寄せ申候間、兼て御頼申候通り後詰の人数御出し可被下候、夜中ニ御勢御出当地の沈目村(現在の熊本市城南町沈目)ニ人数を隠し、甲佐・早川の勢をやり過し、跡より軍を始、城よりも人数を出し取はさみ討取候様ニ可仕旨申遣し、左兵衛督心得候由返事ニて、三月九日ノ戌ノ刻に大河六弥太・成松式部左衛門を大将にして、上下四百人木原村より山きわを伝ひ、沈目陳内の村かけ岸かけニ人数を伏せ相待申候、早川勢此事思ひもよろす、舞の原の野口を只一筋ニ人数を押宮地の東大手へこゝろさし押寄候処を、しつめ村の藪かけより帆かけ船の籏弐本差上け時を作り突て出、早川の後陳に荷駄を追崩し休雲本陣突と懸り申候、休雲備をくり直し相戦申候処ニ、城中より甲斐帯刀人数弐百計ニて突て出、休雲の後備ニ掛り申候故散々に打負け、因福寺を始頭立衆大形討死仕候、然処ニ平野の宗運本陣に物見役より住進申候付、宗運旗本弐百五拾ニて早々掛りつけ申候、此時宗運手配の仕様、先阿蘇よりの人数坂梨左衛門尉一備、下山勘解由左衛門一備、其外先手足軽大将三備急ニ城へ掛り攻候躰ニて、時を作り太鼓を打候へて城え懸り、段々備を立、城をおさへ、足軽せり合も不仕候へて城より人数を出候、不随候様仕り宗運ハ嫡子相模守ニ跡乗仕候由、鞭鎧を合せ一さんにかけ付、敵近に成候て宗運自身の備を馬にて乗りわり二備ニ作り、相模守を大将ニシテ先手ニ懸候よし、自身ハ備を不乱、岸の上畠中ニ備を立見物のことくニして居被申候、相模守一備は急ニ懸れ/\と下知被仕候故、宇土勢・熊庄勢只今合戦仕草臥候処ニ、無二無三ニ突て懸り谷へ追落し、大河六弥太・成松式部左衛門を始首数八拾三打取申候、甲斐帯刀も人数をまとめ手早く城引取申候処を追付ニ弐百四討取申候、帯刀は馬を乗捨て、畠中を様々越え引取申候、相模守宗運へ使を立、此きおいに城へつけ入可仕候間、御備をよせられ候へと申遣候て、直ニ備ニおつすかふて城へ懸り被申候を、宗運自身一騎がけニかけ付、さいを以相模守の甲をたゝき不遠慮千万成る事仕間敷候、附入と申ものはケ様の節成申物ニてなく候、大軍の籠城ニ此の少人数出し躰ニて昇先見へ申候、此一軍を勝ニシテ早々本陣に引取申事十分の勝軍也と被申候故、相模守被申ハ、左候ハヽ御下知の通り引取可申候、如仰城中よりの昇先も見へ申候、直ニ引取申候ハヽ敵勝ニ乗り出水苻領の横道を取切可申候間、御本陣のあら手を先備にくり直し時をつくり太鼓を打、城へ人数懸り候躰ニてくり引ニ取可然よし被申候、宗運被候共其段は七十二及候、我等か油断可仕候、此事は両所が家の軍法也、其方存知出し被申たりと褒美して人数をくり直し時を上けて煙を立かけ向ふ躰ニ見せ被申候ヘハ、あんのことく城中より出候人数も備を立候得て鑓ふすまを作り候躰ニ見へ申候得は、宗運打笑ひ、あの様成者をしらさる敵ハいか様ニも此方の仕様に成物也とて、くり引ニ平野へ引取被申候、出水の上の野中より山城守陳所見下し候ヘハ、先刻の軍の時分ニ出水河原より早々甲佐へ引取と見へ申候、相模守被申候ハ、不届成山城守仕形にて候、今少遅く引候へて出水苻領の間に引残居候ハヽ、若者共ニ申付追ちらさせ可申ものをと歯かみ仕候て引取被申候、休雲首をは休雲内渡部九郎助取返し申候、

一、因福寺春蔵主ハ大力の大法師ニて、正宗の長刀ニて敵八人討取其後討死仕候、弟子善忠と申法師、春蔵主首に長刀をも取返し、苻(ふ)領村へ恩福寺末庵御座候ニ引取、春蔵主をハ袈裟につゝミ早川へ帰り申候、其後阿蘇殿より褒美の寺領六町給之、直ニ因福寺住持ニ御申付、正宗の長刀は因福寺の什(じゅう)物ニ成り居申候処、天正十六年小西行長領分の節、行長内渡辺三蔵と申者奪取申候、其後宇土落去以来右の長刀行末相知れ不申候、
一、渡辺右衛門尉ハ右の通弐百人ニて茶臼山ニ陣取申候、城より手近く六ヶ敷攻口ニて候故、下山勘解由左衛門宗運ニ申候ハ、あの茶臼山ハあしく候、取まわさハ粉ニなり可と申候、宗運尤也とて右衛門尉陳替可然よし被申候得共、右衛門尉承引不仕再往宗運被申候て陳替仕候、
右の躰ニて城中少もよハり不申候付、又々阿蘇殿より使者参候て、木山左近太夫、健軍の城主光永摂津守入道浄英・田代城主田代紀伊守入道宗伝加り候様ニと被申付、翌廿六日三方より攻申候共、要害能候上城中大勢故中々落可申躰ニ無之、其年中ハ小せり合迄くらし申候、翌年正月至り城中兵粮無之、次第ニ弱り申候故、守昌、木山左近太夫方へ使を出し降参の願被申候、木山・光永扱ニて内談相済、阿蘇殿願候ヘハ願の通降参被申候、付城も領地も上り申候、左候へて中一年有之、城領地被相渡候て本意被仕無事ニ相成申候、其以後天正十五年秀吉公九州御征伐の節、又々薩广一味ニて城を明け退、薩广へ罷越被申候て家絶申候、
一、伊津野山城守儀、休雲討死の節仕形言語道断の様子ニつき、本領城ともに被取揚候て飽田郡へ牢浪被仕候処ニ、甲佐駒城寺法印・御船本禅寺和尚・飯田山法印、阿蘇殿へ詫言被申、漸相済本領安堵被仕、甲佐へ持参被仕候、然ども面目を失ひ候故虚弱ニて常ニ引籠(ひきこもり)居被申候、程なく甥の伊津野四郎右衛門を養子ニ仕、山城守は遁世者被成候て諸国遍歴仕度所望のよし、宗運の内談有之候得共、宗運急ニ承引仕不被申、其年も暮申候よし、

【響原合戦の覚書】
一、八代古麓の城主相良修理太夫従四位下藤原義陽と申ハ、本姓ハ工藤ニて祐径一家ニて候、頼朝公御代より当国ニ下り、内田・山北・八代三ヶ所ニ子孫分り申候、内田・山北ハ家絶、八代相良計り残り、義陽代ニ成り八代・球广・芦北三郡を領し、当国一の大名にて官位も第一ニて候、代々阿蘇の御旗下ニて大宮司も無二の入魂なり、然処ニ天正十年の秋、義陽薩广へ一味の風聞有之、大宮司惟将より宗運に下知有之、義陽逆意の実否を糺(ただ)し候へとありけれハ、宗運白石左京亮を使ニて義陽へ此旨申送られけれは、義陽大きニ驚き、某今何によってか謀叛仕らん、さつするに薩广より謀ニて某ヲ野心有と風聞させ、阿蘇殿え疑ハせ、つもりて合戦に及、某討るゝか又ハ薩广え立越か、二ッの内ニ過へからすと計りたる物也、某此所ニ在城すれハ、そ忽(こつ、たちまち)ニ攻おとさるゝ城に非す、捨置て国中に乱入らんとすれハ、某海陸共ニ安穏ニ通さす、依之もてあつかいて此間謀を用ひたると見へたり、此旨某阿蘇へ越申被へしと、宗運そへ可被申とそ左京亮をハ被帰、翌日義陽より豊永新助を使ニて被申越けるハ、一昨日返答ニ申たることく、近日阿蘇え罷向ひ野心なき旨可申開、同敷ハ、貴老御父子の間同道申さんとそ云送られける、宗運尤成、愚老御供申さん、近日是へ立越給ひ一宿有之打連レ申さんとの返事也、義陽則行装を調へ、九月廿五日に八代を発し、其夜ハ御船へ宿し種々餐応ありて、翌廿六日御船を立、廿七日阿蘇え着、大宮司対面有て右の趣委細陳られけれは、大宮司嘸(さぞ、ぶ)あらんと悦給ふ、義陽被申けるハ、自今又々ヶ様の風聞可有も必定なれハ、此席ニ一紙の起請文を奉らんとありけれハ、宗運尤も也、大宮司殿御名代ニ愚老父子起請文を進らせんとて、義陽起請文ハ永代阿蘇家に対し逆意有へからすとの事なり、宗運の起請文ニハ若薩州の大敵に囲れなは早速後詰可仕との事也、さありて義陽の起請文ハ十二宮社宝殿ニ籠置、宗運の起請文ハ義陽受取て八代白木社宝殿ニ被納れける、それより義陽ハ八代へ被帰ける、

一、天正十年十月、此事薩广へ知れけれハ、今ハ大軍を以一攻責て見るへしとて、新納武蔵・鎌田寛栖を大将にして、十月上旬八代え発向す、義陽人数を催候、葦北郡所々要害ニて防戦ふといへとも、大軍にせつしょなけれハ、無程古麓の城ニ押寄て入替/\攻戦、城中爰をせんどゝ防けれハ、寄手も若許討ニけり、寄手も若許討ニけり、薩摩勢は此城を責落さすんば肥後ノ國に働入事成へからすと、追々寄手加り日夜を分たす番手代り攻戦ふ故、軍始って十余日ニ寄手千余人は討取けれ共、城中も以の外ニ弱りけり、宗運よりの後詰を頼む計也、然共御船より人数も不出不審成事共也、使を出さんとすれハ四方すきもなく取巻けれハ、もれて可出様もなし、義陽家老番頭を集め評議せられるハ、城を被囲十日ニ余れ共、宗運後なきハ如何成事にや、薩广の大軍ニ恐れての事ならんか、又城を囲るゝ前ニ此方より注進せさる故にや、如何有へきと評議あり、何も申けるハ、此城要害よき上兵粮(ひょうろう)・矢種子沢山ニ候ヘハ何十日囲ても恐事なし、其内宗運阿蘇へ達し人数を被催故隙取と見え申たり、今三、四日御待あれかしと申ける、義陽怒て被申けるハ、三、四日の後に及んで後詰来らさる時は如何せんと思ふや、さのミ精力尽さる時ニ討て出、討死する外不可有と宣へは、相良存芸申けるハ、とかく御武名も立、御家も立候様御評議もこそ有まほしく候へ、我等存候ハ、今三、四日待て後詰来らすハ偽て御降参被成、後降参の印阿蘇領へ働ニて見せ可申とて御先手被成、薩广勢を益城郡沙婆神坂(さばかみ)をこさせ谷内ニ引入、宗運ニハ先達て手立を示合せ三船勢をは堅志田より廻らせ、薩广勢の跡より軍を始、此方一手は先手より取て返し取はさミ攻立候程ならハ、案内不知の他国武者安見・山崎村の谷内ニて一人も不残討取可申候、左候ハヽ此勢ニ恐れて重て薩广より手を付申ましく候、阿蘇殿ヘハ大忠候ハん、若又薩广勢用心仕谷内ニ入不込候ハヽ、先此方御一手ニて焼働被成、甲佐あたり迄弥働を被成候て見せ、如是両度も三度も少々の小せり合の同士軍を仕見せ、或は宗運老病なとゝ風聞仕候ハヽ、後ニハさつま勢をなとたはかりすまし置候へきと申、義陽大きに信状有之、さあらハ其段ニすましと評定一決して降参調、薩广勢ハ麦の嶋と植柳浦(八代市)とニ宿す、中二日有て謀の次第の通り益城郡(現在の宇城市)へ働可申候間、数日の城攻に好人馬数多討れ申候て、国中の働ハなり不申候、近日薩广より荒手参り候上にて義ニ可仕と申送る、義陽さあらハ先我等一手にて少々働可申候由、其後は心次第との返事也、夫故義陽心ならす小野・森山・山崎・安見迄焼働可有之とて、十二月朔(さく、ついたち)日出馬にて出陣の時、昇竿白木社の鳥居ニさわりて真中より折レ申候、不吉の事也共焼働迄の事故不構出馬也、尤(もっとも)宗運右の手立の儀委細ニ両度迄被申遣候也、

一、宗運方ニハ先日薩广勢働出申候沙汰有之、八代へ附置候隠横目共追々注進仕候、乍去津奈木・水股(俣)を始、所々の要害多候て、中々十日廿日ぶりニ義陽居城ニ押寄候儀は有之間敷候、義陽居城を取巻候ハヽ約束のことく後詰出し候ハんと内々陳用意被仕候て、此段阿蘇へも被申達候、然る処ニ四,五日の間ニ芦北郡所々の要害攻破られ候事、不審の第一ニて候、其上居城ニ取籠申程ニ候ハヽ萩原・徳ノ渕・遙拝ヶ瀬三ヶ所ニてハ手いたき一防可有事也、左も無之ハ是又第二の不審也、弥以覚悟究たる籠城ならハ宿城根小屋を焼払、其外近辺の在家をも自焼仕候事、籠城の法にて候ヶ様の儀も無之、是第四の不審也、其上ニて籠城ニ大軍を引請持こたへ申候て、後詰給り候様ニと注進可有事ニ、是又左もなきは不審の第五也、如此の不審の品々有之事と候間、そ忽(こつ、たちまち)に後詰も不被致候故、今少見合真実、義陽愚昧ニて右の通なるや、謀にて如此なるや否の事を承詰候て後攻出し可申と被申候内、早下城被仕候よし聞え申候、是ニて前の不審ははれ申候、初ての降参ニ極り申候と宗運被申候、然処ニ十一月廿八日の夜、玉泉院と申山伏修行者の躰ニて使ニ来り、白石左京亮宿所え来り義陽より一大事の使ニ参り候旨申候、則対面仕候へは、玉泉院懐ニさしたる打刀を取出し辺脇ニ差置候へて人を払密ニ申候は、今度薩广勢に取巻れ及難儀候処ニ後詰無之段不審存申候得共、ヶ様急ニ取詰可申とハ不被思召、一理有之候、城中以の外弱り、其上城中ニ無心元次第等有之候間、如此ニ謀を仕偽て降参仕、薩广勢の先手を願、谷内えおひき入申候て、貴老の御勢堅志田より廻し安見村辺ニて跡備へ御懸り候ハ丶、我等は先手より取て返し取挟ミ一人も不残討取可申候、来ル二日薩广先手を仕致出馬、小野・森山・小川辺焼申候て沙婆上(神)を越へ安見村迄焼可申候、其煙り其地より見へ申候ハヽ早々御人数を被出、堅志田より御廻し可有旨也、即刻右京亮宗運へ申達候ハ丶、委細心得候、放火の煙り相見へ申候ハヽ早々出馬可仕由の返事也、玉泉院則八代へ帰り申候、其跡ニて宗運家老家の子集候へて被申候ハ、今度の使更ニ不心得候、専ニ薩广の味方仕候て此方をたはかり候と存候、今度の使を誠に致安見村あたりの煙を見候へてはる/\堅志田迄出馬候ハヽ、その跡ニ安見村より直ニ御船ニ取懸城を乗取可申手立と存候、か様の事ニたはからるゝ宗運ニ非す笑ひ被申候、就夫段々物見出し被申事くしのはを引ことくニ候事、

一、同廿九日夜、又々玉泉院か弟子山伏使ニ参候へて、白石所ニ参り申候趣ハ、一昨日義陽被申越通候通、薩广衆をたはかり、安見谷へおひき入申候手立ニ相究、其段薩广勢へ申遣候処ニ、薩广勢疑候や、此間の城攻ニ人数大分損し申候間、急に国中ニ働ハ成不申候、近々薩广勢荒手の衆参候間、其節の儀ニ被成可然候由ニ候、義陽軍慮相違仕候て其分ニて居申候ハ、定て又々うたがわれ、此謀もれ申義も無心元被存候ニ付、又々薩广衆へ義陽被申出候は、近日御出張不被成候ハヽ、我等一手ニて国中へ働候て、薩广衆の返事ニハ、検使ニ不及、其方御一手ニて御働可然由ニ付止事を不得、弥来ル二日小川・森山を焼申候て、沙婆上(かみ)を下山﨑村あらち迄焼申候て罷帰り可申候間、今度ハ其許の御人数堅志田へ御廻し被成候ニ不及候よしニ候、宗運被聞候て、心得被申候重て御一左右次第ニ人数出し可申由の返事也、其跡ニて宗運家老家子ニ被申候ハ、さてこそ義陽か偽り弥押はかられたり、我らか堅志田へうか/\と廻り候間鋪と察し、今度ハ薩广衆おひき出し不申、義陽一手ニて山崎村迄焼可申間、人数出し候に不及と油断をさせ、夜中ニも薩广勢引連レ、急ニ取懸不意に付可申手立、鏡にうつることく相見へたり、何も油断すへからす、在々所々に被官共迄城へ召寄せ、持口堅め用心可仕旨、急き申触よと被申候、又々物見を差出し候事、夜中翌日ニかけ廿六人也、甲佐川(側)へも此段委細ニ申遣、油断有間敷由遣候事、

一、右の通ニ義陽の軍慮と宗運の軍慮行違申候事、義陽は御存知付無之、宗運より無別条返事参候を誠ニ被仕り、何心なく出馬ニて小川・小野・森山・山崎迄、十二月二日の辰ノ刻に焼申候、其日余りに北風強吹申候間、結句やけかね申候、山崎村(現在の宇城市豊野町山崎)半分焼申候、やけ残り候山崎村をも又々やき可申と何も申候得共、其分に召置可申旨ニて、沙婆上(神)の峠を越候て各具足ぬき、響原ニまく打せ候所、当つかい諸卒何も兵粮・けい酒なと給候て頓て打立、八代へ被帰候筈ニ御座候、宗運より出し置かれ候物見共段々帰り、放火の様子注進仕候、響野原の様子、当座の義と相見え候ヘバ、諸卒水をくミ申躰見へ不申候由注進仕候、左候て義陽ハ其日の巳ノ刻ニ八代へ御帰の筈ニて御座候処、供の若侍共五十人計すはだニて此辺見分け仕候か、此序ニ堅志田町・甲佐谷をも見物可仕由ニて油坂ノ上より甲佐の城地見通仕候、然処甲佐城主伊津野山城守ハ去々年熊庄合戦の節不覚被仕候て面目なく引込居被申候処、昨日朔日の朝宗運より申来候を、相良敵ニ成候て此方へヶ様の武略を仕かけ申候と見へ申候、其許も手立仕見可申候間、御油断有間敷由被申越候ニ付、山城守被申候ハ、扨々今度義陽発向は我ら一人の太慶也、此時花やかなる一軍仕候て熊庄の面目をきよめ可申と悦被申候、然処今日巳ノ上刻ニ城の向油坂の上ニ相良勢見ゆるといなや、敵に足をためさせしと一騎かけニて乗出し被申候、家中の者共俄事故皆々掛合不申、漸四、五十人ニて具足着たる者、きぬ者半分程ニ見へ申候、跡より追々懸付候得共、山城守ハ跡の勢を待つけ不申、右の四、五十人ニておめいて懸り被申候得は、相良衆申候ハ、是ハ如何成事ニ候哉、全合戦の為に此跡ニ参候ニて無之、見物ニ参り候迄ニて候、尤物見と申ニても無之よし断申候へ共、物をいはすなと理不尽ニ突て懸り被申候、相良衆今ハ可仕様無之、喧嘩同前の軍ニ成、坂を追上追下し戦ひ申候得共、敵をかさに請候故終に大勢討れ、山城守も相良衆組落し首を取申候、其首早々相良殿本陣に持参仕候ヘハ、以の外驚被申候、今可仕様無之候間、先手を二ッに分け甲佐・堅志田より人数を二手ニてふせかせ、本陣ハ早々引取被申候て、跡ニ残候二手ハ段々くり引ニ仕引き取申候様ニと、人数分ケ被仕候て、扨甲佐へ参軍仕候頭取の者共ニ不届成仕形言語道断の由使を以しかり参候、早々引時申候様ニとの事也、然は右の者共内頭取候者共相談仕候ハ、扨々不及是非義共にて何と申訳可仕候哉と、何分あきれたる躰ニて油阪ニ上ニ一所ニ集り居被申候、義陽ハ夫(それ)より早々引取可申旨ニて打立申筈ニ候へ共、右の趣間違の儀、直ニ宗運え使者を以断申入候て、可然哉のよし何も申ニ付、書状認させ旁仕候内時刻移、其日も八ッの上刻ニ成申候、 

一、宗運の右の通義陽たはかり候て、宗運人数を堅志田廻らせ、其跡ニて御船の城へ薩广勢の先手を仕押寄候哉と用心仕侍居申候処ニ、段々出置候物見共追々罷帰候て申候ハ、相良衆ハ先手甲佐ニ懸り申候て油坂ニて山城守殿と軍仕候、油坂へ向申候先手ハ五、六十人と見へ申候、山城守殿ハ追々人数出申候、山城守殿一番手ニて自分懸り申候、相良は響原本陳ニ元の通り幕引廻し物静ニ見え候由申候、宗運被聞候て、扨は油坂先手を出し我等堅志田え廻り候をくいとめ可申候と仕候を、山城守出合候て戦候と覚申候、左候へて相良響原ニ緩々と仕居被申候ハ、薩广の後陳の待合の為と存候と申候所、甲佐より早打の使参り、山城守油坂ニて軍仕打死仕候旨、伊津野四郎右衛門方より申越、是を聞宗運被申候は、我等積り申候ニ違す、薩广の後陳掛り付さる間ニ田口村・安見村谷内を通り相良本陳ニ懸り可申候、急て出候ニと触られ、早々出馬被仕候、尤御船の城ニは嫡子相模守ニ人数五十騎残置被申、自分ハ上下三百廿人ニて急ニ乗出し被申候、其時分は午の下刻ニて候事、

一、右の通ニて田口村より安見村(現宇城市豊野町)へ通り、谷中ハ差物を隠し、巣林村(現宇城市豊野町)と申所の廻りかとに少し高所有之迄ハ各下馬仕、かや原迄はい申候て通り被申候、無程糸石村(現宇城市豊野町)え着被申候、響原ハ糸石村の上ニて御座候、
一、響原と申ハ七、八丁四方程の平野ニて、東ハ千代松か岳と申高山有、西ハ小谷有て谷川流れ申候、此谷川を渡り沙婆上(神)坂に懸候道也、南は谷筋長く次第にせまき谷にて候、北は高岸(峯カ)ニて其岸の下ハ糸石村(現宇城市豊野町)也、岸ニ大竹茂り申候へて大藪ニて候、其薮内ニ切通し急成坂有之、響原ニ上る道也、右の通ニて候ヘハ安見村・糸石村より響の原へ参候道ハ、響原の陳所よりハ薮かけニて見ヘ不申候、義陽ハ先刻山城守不慮の軍仕懸候て討候事、宗運方へ申遣とて使者申付、書状等認させ、使者堅志田(現宇城市美里町)通りに参り候処ニ、右の薮かけの切通坂より宗運の人数押寄候て為持候昇差物等押立、風の吹様突て懸り申候、相良殿本陣は曽て(かって)存寄無の事、其上皆すはだニて弓足軽も揃不申候、侍中皆々持鑓をも取合不申、多ハ刀計(ばかり)ニて戦候故矢庭ニ大勢討れ申候、義陽ハ是迄の運命と思召候哉、牀(ゆか、しょう)机ニ腰被懸候て少も立上り不被申候、其儘ニて討レ被成候、緒方喜蔵と申者御首を取申候由、一説ニハ宗運物頭白石大学と申者鑓付候へて義陽脇差を御打付候ヘハ、大学左の脇腹ニ立候てひるみ候所を、足軽緒方喜蔵相良殿御首取候よし、其時義陽被仰候は、其方ハ侍とハ見へす、侍ニても大将の首取礼法知りたるかと被仰候、喜蔵申候ハ、法ハ首を取我旦那ニ見せ申候時にこそ法ハ入事也、子細なく御首打落申迄ニて候申候て御首取申候由ニ候、其翌日糸石村の百姓共響原ニ上り御死骸見申候処ニ、鷹の羽の矢四本相良殿御死骸の四方ニ立テ有之、御死骸はすはたにて笛を御腰ニさゝれ候よし、古老の者共見申候由申候

一、宗運旗本ハ弐百人計(ばかり)ニて備をミたさす、径の坪と申所高ミ昇を立居と申候、義陽の御首持参仕候ヘハ、早々谷川ニて洗ハせ義陽の甲箱ニ入候て、直ニ御船へつかはし被申候由、
一、渡部軍兵衛と申者ハ早川城主佐渡休雲末子ニて候、宗運より早川城油断なくかためて申旨、追々昨日より申来候ニ付、城主渡部右衛門尉上下三百余人ニて籠城仕申候、右軍兵衛儀兄の右衛門尉と申候ハ、我等儀は只壱人宗運え見舞申度候、宗運響原ニ御向合戦有之由、左候得ハ此城ハ敵かゝり不申候、然共(しかれども)御城主御出馬は如何敷ト見ヘ、一人も軍場え見廻り不申候も、後日の道理立不申候間、御城主の御名代ニ我等一人罷越可申由申候、兄右衛門尉ゆるし申候ニ付、軍兵衛只壱騎若党二人鑓持馬取計ニて急ニ乗出し申候、本海道を参候ハ、おそなハり可申候と存、船津村の瀬を渡り、夫(それ)より西馬場村の篠の尾越と申薪取の通ふ細道をかけ付申候ニ、殊の外難所候て馬通り兼申候ニ付、篠の尾ノ坂中ニて馬をはすて候て歩立ニて急参候て、響ノ原を見おろし候ヘバ、最早申ノ上刻にて軍も終り申候、残念ながら直に宗運陳所径の坪え参候ヘバ、宗運大悦被仕候て、今少し早く御出候ハヽよき慰軍有之つる物をと被申候、軍兵衛も歯かミ仕残念かり申候、然処ニ相良の落武者と見へ申候て侍一人すはたニて長刀を持、さば上(沙婆神)に懸り帰り申候、あの敵は何方より出候と何も申候ヘバ、先刻の軍に山ニ引籠居たる者と見へ申候由、宗運被申候、軍兵衛ニあの者ニても討取候て手をふさかれ候様ニと申候付、直にかけ付壱町程ニ追付候て、それへ御出候ハ相良殿御衆と見へ申候、大将御討死ニ何の面目ニ何方へ御参候哉と言葉をかけ候ヘハ、彼者立帰り、我等ハ相良内豊永籐次と申者ニて候、御覧の通り惣負軍ニて面目も無之候へ共、所存有之八代へ帰り可申候と存候、然共さ様御申懸候に不聞入候て罷帰り候所ハ些(いささか)足場悪敷候て、長道具ニ遁(のがれ、とん)候て仕にくゝ薄手弐ヶ所負申候得共、終ニ軍兵衛討勝候て首を取罷帰申候、宗運旗本并先手の衆申候ハ、軍兵衛悪敷所ニ被参候へて大き成骨折被仕候、我等共今昼の合戦ハ相手何もうろたへ候故は、夫程ニ骨折は不仕候、殊ニ強兵と見え、其上かゝる場あしく候て、御手きわ無比類と誉メ申候由、

一、北田代の城主田代紀伊入道宗伝ハ宗運旗下ニて候、宗運一昨日より度々使を遣し今度の儀申遣、其上出馬の義知られ被申、老功の士大将故御船へ御詰被成給候様ニと出馬の節申遣候ヘバ、宗伝早々出馬仕、御船えは人数三十人ニ嫡子五郎を差出、宗伝ハ直ニ響原へ上下弐百人ニてかけ付申候、然共軍兵衛参候少跡ニて候故、是又残念かけ居申候処に、今朝油坂へ参候者共四、五十人、其上敗軍の者共打集り百人計一かたまり被成候て、申(さる)ノ下刻糸石村の谷よりさば上(沙婆神)引て帰申候を、宗運本陣より見おろし被申候ハ、あの者共ハ可然もの共ニもなし、手を不付にがし候様ニと被申候ヘハ、宗伝申候ハ、是ハ我等可申請、尤可然者共ニては有間敷候へ共、今朝山城守殿を討申候者共無之候、山城守殿のとふらい合戦に彼者首を切ならへ、我等老躰役法躰役に念仏廻向可仕と申候様、直ニ突テ懸り申候、宗伝人数弐百人を二備ニ仕、先手八十人計(ばかり)、残る百弐十人計候て宗伝旗本ニして押詰申候、相良勢百人計迚(とて)ものかれぬ所と見切候哉、響原の西桑の迫と申谷へ引入、皆々折敷鑓ふすまを作り相待申候処ニ、宗伝下知仕候は、敵は折敷たるぞ、無理かゝり候ハ丶鑓玉ニ上られ可申とて、手廻りの持弓の者共廿五人を頭に差添候て先手にさし加へ、三備ニ仕候て、一組十張ハ肩をならべて散々に射させ、残る十五人ハ七、八人左右の段々畠ニ上り、敵の跡備ニ射こませ申候ニ付、色めき申候処、懸れ/\と下知仕鑓を仕申候、相良勢も必死ニかたまり、跡の詰りたる谷に引込候事ニ候へは、おめきさけんて相戦ひ申候、谷の口より追出し追込七、八度せり合申候、宗伝は後陣より先手へ使を遣し、今一もみせめ合敵をあいしらいおひき出し、敵足なみうき立かゝり合候と見候ハ、左右にひらき申候様ニ、其中より我等荒(新)手ニて懸入可申と申遣し、其通被仕宗伝自分馬をけたて懸り申候故、相良衆皆々追立られ桑の廻りのつまり迄追詰られ候得共、皆々草臥候へて込帰申候も成不申候ゆへ不残討れ申候、宗伝方ニも七十六人手負討死仕候、それより宗伝径の坪の本陣に参候ヘハ、宗運被申候ハ、扨々御骨折被有候、乍去御わかやき候と被申候ヘハ、宗伝申候ハ、仰の通若け成軍仕一代の不覚を取申候と返答いたし候ハ、是ハ宗運も些(いささか、すこし)気ニかけられ候躰ニ見え申候、此桑の迫の軍ハ響の原軍より強候事、
一、今度討取候首数、敵の大将を始上下四百八ッ有之、阿蘇へ頭立候首三拾を被差越候、阿蘇殿より宗運武功の誉ニて候間、御船近所ニて七日首を懸候て、その後取納吊可仕旨申来候、夫ニ付御船より西の原中ニ三段に棚をかき、上段に義陽の首、中段ニ者頭の首、下段に侍の首をかけならへ申候、其後七日過申候て、其所ニ葬、右の次第の通塚三ッ築、甲佐岳法印、飯田法印、本禅寺和尚出合、葬送の儀式相済仏事有之候、
一、其後宗運今度手立相良と行違申候儀、段々存当り被申候哉、響の原合戦ハ我等老耄(ぼう、もう)ニて同士仕候て後代迄の不覚のよし、不機嫌ニて候旨申侍候事、
一、此時宗運家頼討死三十九人、手負ハ百余人有之由、義陽の家頼(けらい)者頭以上の侍七十五人討死、名付響原墓所に記し有之、
                               

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