【舊記に據る早川城主】

早川近江守秀村、同式部少輔政秀(後剃髪して離風と號す矢部荘猿渡村を賜はる)同式部少輔秀邦、同越前守吉秀入道休雲、同越前守秀家、同丹波守秀貞
初め秀村阿蘇家に仕へ當城に居り政秀に至り阿蘇大宮司惟豊に仕へて矢部荘猿渡村を賜はり築き隱萬所とし古蘇武良城と云ふ、(永正年中1504~1520)(紀元二一六四 仝二一八〇)後剃髪して離風と號し、秀邦に譲り之に移り佐渡と稱す(猿渡城參看)子吉秀、妻は甲斐宗運の二女、後剃髪して休雲と云う。天正八年(1580年)隈庄城主甲斐守昌叛くに及び阿蘇大宮司惟將、甲斐宗運に命じ討たしむ、宗運往て圍むこと数月城固くして容易に降らざりしを以て更に吉秀及伊津野山城守を遣し宗運と力を戮せて之れを攻む、守昌爰に於て宇土城に援を乞ふ、宇土顕孝精騎を出し隈庄を救ふ、三月十日吉秀(休雲)援兵の將と引組舞の原に討死す。次 秀家二男秀貞と共に大宮司惟種に仕へて在城す。家士に佐渡大学、同圖書、同能登、同修理等名ある士あり、其の後阿蘇衰廢して秀家も退城し、天正十五年(1587年)秀吉公征西佐々成政領國するや、成政に仕へ、滅ぶうや浪して京都に赴き歸つて清正公に仕へ三百石を賜ふ。

『早川城址』
白旗村下早川にあり、城塞の跡今尚歴々として現存す。
當城は建長五年(1253年)(後深草帝の紀元一九一三年)渡邊近江守秀持築城にかゝり家号早川氏と稱す、阿蘇家臣なり。

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