【渡邊 質】

渡邊質、又は直、幼名定八、字は子文、巌阿と號す。安永三年(1774年)四月二十七日矢部濱町に生る。父は求平、氏は其の第二子なり。其の先は嵯峨天皇第十二代の皇子源融の後裔、渡邊綱より出で、七世を経て渡邊進、阿蘇大宮司に仕へ、矢部菅村を賜はる、子秀村軍功に依り甲佐早川(そうかわ)村を賜はる。四世を経て正秀に至り、矢部荘猿渡を賜はり、城を築き茲に居りしが故ありて自殺す。其の孫吉次響原の軍功により軍兵衛の名を賜はり、阿蘇没落に際しては、其の幼主を輔けよく誠忠を盡したり。それより三世を経、常右衛門の至り、濱町に移り郡中横目を勤む質は其の孫なり。

質初め醫を志し、寛成三年(1791年)近藤三折の門に入り、九年(1797年)再春館居寮御施藥主となり、金子三百匹を賜はる。幼より學を好み有馬源内、富田大淵、近藤英助、男成大和、古山常助等の門に入り博く和漢の學に通じ、矢野良勝につきて書を、山東佐十郎につき武藝を學び、共に之をよくせり。文政九年(1826年)御郡代直觸となり、天保四年(1833年)御郡醫並に教導師に任ぜられ、年々金子四百匹を賜をはる。かくて其の名聞江(え)しかば郷内の志學者笈を負ふて來り遊ぶもの三百餘名、嘉永元年(1848年)試業の命に應じたれども未だ其の恩命に遇はずして仝年十月四日忽然として逝きぬ時に行年七十二、

質人となり温厚、師に事ふるに篤き、其の師近藤英助、山東佐十郎、有馬源内、喪を聞くや嶮道十里を馳せて出府し、其の霊を吊ひ男成大和翁の病むや自ら其の病を看るの勞をとれり。叉慈善心に富み人の急を見ては己の分を忘れて之が爲に盡し、叉人の貧を見ては憫然として食を分てり。この故に家に貧して、屋根は破れ壁は壊るれども敢えて顧みず、座を避けて書見に熟せり。性率直にして苟も言行を飾り名聞を衡ふ事を欲せず、叉謙遜の徳に高く、或る時一僧侶矢部に來り質と和歌の優劣を決せんと挑む、質容を改めて曰く、和歌はよくする所にあらず、願くはてにをはを教へられんことをと、僧侶之を聞き既に奥義に達せしを悟り、憮然として去れり。叉風流を好み山野を跋渉(ばっしょう)し幽邃閑雅(ゆうすいかんが)の地を尋ねては詩を賦し和歌を詠み之が記を作りて樂みき。一日滝を稱せんとて病家診療の歸途杖を横野滝に曳きぬ、流は鞺々(とうとう)として耳朶に響き、幽邃なる潤はこの雅人をして恍惚たらしめ、身躯は嶄崖絶壁の巌頭に在れども其の危きを顧みるの餘地あらず、遂に過ちて白練直下する水流と共に奈落の淵に沈み悲惨なる最後と遂げたり。質郷故甚だ詳かにして、老年に至りては力を著作に致し、著す所の矢部風土記は、阿蘇大宮司への献書にして、往時阿蘇家の中古は實に之に探訪する所尠(すくな)からずといふ。其の他經絡物産一家言は矢部醫界の明星となり、國詩國文雑稿は未だ完からずして死す。依って門第等之を蒐集して巌阿遺稿二十巻となす。

質叉當時を以て聞江(え)たる木下業廣と相知り意気甚だ合ふ。先生質の喪を聞くや驚き且痛み、其の功を録して之が銘を作り墓碑に刻せり。二子あり、長を健といふ、父の志を継ぎて著書に勉め其の著す所の書は阿蘇外史、矢部神社記、矢部地誌略其の外数部あり。(矢部郷士誌抜)「偉人豪傑孝子節婦より」

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