【阿蘇家天正の没落】

足利末期、戦国時代となり、薩摩の島津義久の勢力は最も旺盛を極め、我が肥後の南部を侵略して、肥前の龍造寺隆信・豊後の大友宗麟と共に聯立して互に覇を争って居たが、遂に肥後の諸城は大抵薩軍に占領せられて、一般士民は空しく国土を薩軍の馬蹄に蹂躙(じゅうりん)せられ涙を呑み、ただ阿蘇家の諸将のみは塁壁を固めて守備して居た。

時に阿蘇家は極盛時代の惟豊・惟将を経て、 盈(み)っれば欠ぐる世の例に洩れず、次いで襲職した惟種は、年二十四歳にて天正十二(1584年)年八月浜館にて夭折(ようせつ)し、長男惟光僅か三歳にて大宮司の職を継いだ。かくて阿蘇家の威勢日に減じ、月を逐って活気を失い、加うるに甲斐宗運の如き忠臣今はなく、子宗立(親秀)その器小にして、惟光幼稚なるに乗じ専権の行多く、父の遺訓を廃し華山城を攻めたので、薩は、これに口実を得て、天正十三年(1585年)八月、八代に本拠を構えた島津義久は部将島津忠平等の諸将をして薩軍の大軍を指揮せしめ、甲佐・堅志田に攻め寄せた。甲佐の惟賢は早く忠平の属した。
これより前、甲佐城に居た惟前(惟賢の父)は度々叔父惟豊を襲うては薩摩に遁れ、その恩恵を蒙ることが深くあったので直ちに敵に降った。それより島津は新納・梅北等をして、先ず御船城を攻めさせた。城主甲斐宗立(親秀)は、その鋭鋒の甚だしさに、亡父宗運の遺訓も忘れ、御船城を明け渡して飯田山に走ったが、間もなく敵の軍門に降った。阿蘇家の重臣仁田水長門守も来侵を待たないで、薩軍の幕下に属したので、薩軍は進んで龍造寺を破り、余勢を駆って愈々矢部に攻め寄せた。

かくて阿蘇家にては将士既に闘志なく、風を望んで潰奔し、その配下の二十四城悉く敵手に陥り、旧功の老臣・智勇の士多くは死し、若くして心を変じて島津に属してしまった。かくて阿蘇家の嫡流も昨日までは金殿玉楼の身、今日は痛わしや、頼みに思う侍共も一人減り二人減り、主側に侍するは僅かの人となり、始終志操の変わらないのは暁天の星の如く、渡辺軍兵衛吉次・西源兵衛惟景・坂梨弥五助惟連等の諸勇士ばかりであったが、密かに相会して
【惟種夫人は二公子を誘い上京された】と言うふらし、浜館の華表の大門を閉ぢ、小門を開き注連(しめ)縄を張り、諸人の出人を禁じて迫・井手両氏をして固く守らしめた。
そうして侍女小宰相の局の在所に、良い隠家があるからと言うので、累代の綸旨・下文等を納めた綸旨箱を担った坂梨弥五助惟連を先頭に、次に西源兵衛惟景は当時僅かに四歳になる惟光を背負い、渡辺軍兵衛吉次は今年三歳になる惟善を肩に乗せ、惟種の後室は竹の杖に縋って後に従われた。実に痛わしき限りである。一行は浜館を出で地蔵坂(御嶽上畑の道路)を通り、代々の文書並に持ち運び難い宝物は、男成神社の宝殿に隠し納め、男成一太夫これを保護し、その他の道具類は浜館の中の穴蔵に隠匿して置かれた。かくて早川秀家始め、その他の勇士に追い縋(すが)る薩兵共を追い払い、漸くのことで、目丸山中にたどりつき、この日坂梨弥五助は数十人の敵を斬ったが、一人の頭を横斬りに斬った際、その上歯の半より切り拂ったので、その刀を歯切丸と言い、二尺八寸の業物で、現在坂梨家(一の宮町宮地阿蘇家門前)の家の家宝となって居る。家臣の面々は採薪汲水の苦艱を嘗めることになった。

隠家目丸への兵糧運送は北里・下城・高森・田上・村山・早川等の輩から窃に貢ぎ奉る約束であったが、皆薩州勢に怖れで、後には約束のように送ることができなかった為に上下大いに困った。そこで弥五助は深編笠に顔を隠して虚無僧に仮装し近郷所在を一管のの尺八によって托鉢し、その日その日の糧を得吉次(軍兵衛)は惟光・惟善の傍らで蕎麦を敲(たた)きなどして、僅かに飢を凌ぐと同時に、薩軍間諜の侵入に心を配り、主君を衛る役を果しつつ、義を金鉄として千幸万苦、更にその操を替えず善く仕えたことは、実に語るも聞くも涙の種子ならざるはない。

この隠家に於て、或る日のこと、俄に夕立が降って来た。農家があるから庭に籾が干してある。大粒の雨のために、籾が飛び上がったり流れたりした。これを見られた幼主達は、面白がって眺めて居られると、家の者が取り込んでしまった。幼い二公子は『今日は面白かった。あれは何か』と尋ねられた。『あれは私たちの食べる御飯にするのです』と答えたのに『すぐあれで御飯をこしらえてくれ』と言って家来を困らせという話が残って居るが、それ程、二人とも、まだ何も分からぬ頑是(がんぜ)ない子供であった。
かくの如く阿蘇家の没落は、その当主幼少にて、平家のそれに比し一層悲劇的感傷をそゝり無限の哀愁切々として胸をうつものがある。

その隠家は矢部町目丸字屋敷山崎氏宅であって、当時の面影を残し、松風の茶器・奥方の笄(こうがい)・矢の根・太刀等の遺品が残存して居る。二幼主を隠し奉る穴も断崖絶壁に用意周到に掘られてあって、当時の有様を偲ばしめる。

坂梨弥五助は阿蘇家中興の忠臣として古城神社に祭られ、今尚春秋二回祭典が行われている。墓は仙酔峡の登山中、古神(こがみ)の松林中にある。

【阿蘇家天正の没落】

足利末期、戦国時代となり、薩摩の島津義久の勢力は最も旺盛を極め、我が肥後の南部を侵略して、肥前の龍造寺隆信・豊後の大友宗麟と共に聯立(レンリツ)して互に覇を争って居たが、逆に肥後の諸城は大抵薩軍に占領せられて、一般士民は空(ムナ)しく国土を薩軍の馬蹄に蹂躙(ジュウリン)せられ涙を呑(ノ)み、ただ阿蘇家の諸将のみは塁壁(ルイヘキ)を固めて守備して居た。
時に阿蘇家は極盛(キョクセイ)時代の惟豊・惟将を経て、 盈(ミ)っれば欠ぐる世の例に洩れず、次いで襲職した惟種は、年二十四歳にて天正十二(1584)年八月浜館にて夭折(ヨウセツ、若死に)し、長男惟光(コレミツ)僅(ワズ)か三歳にて大宮司の職を継いだ。
かくて阿蘇家の威勢日に減じ、月を逐(オ)って活気を失い加うるに甲斐宗運の如き忠臣今はなく、子宗立(ソウリュウ、親秀)その器小にして、惟光幼稚なるに乗じ専権の行多く、父の遺訓を廃し華山(ハナヤマ、花山)城を攻めたので、薩は、これに口実を得て、天正十三(1585)年八月、八代に本拠を構えた島津義久は部将島津忠平等の諸将をして薩軍の大軍を指揮せしめ、甲佐・堅志田(カタシダ)に攻め寄せた。
甲佐の惟賢は早く忠平の属した。これより前、甲佐城に居た惟前(コレサキ、惟賢の父)は度々叔父惟豊(コレトヨ)を襲うては薩摩に遁(ノガ)れ、その恩恵を蒙(コウム)ることが深くあったので直ちに敵に降った。
それより島津は新納・梅北等をして、先ず御船城を攻めさせた。
城主甲斐宗立(親秀)は、その鋭鋒の甚(ハナハ)だしさに、亡父宗運の遺訓も忘れ、御船城を明け渡して飯田山に走ったが、間もなく敵の軍門に降った。
阿蘇家の重臣仁田水長門守(ニタミズナガトノカミ)も来侵を待たないで、薩軍の幕下に属したので、薩軍は進んで龍造寺を破り、余勢を駆って愈々(イヨイヨ)矢部に攻め寄せた。
かくて阿蘇家にては将士既に闘志なく、風を望んで潰奔(カイホン)し、その配下の二十四城悉(コトゴト)く敵手に陥り、旧功の老臣・智勇の士多くは死し、若くして心を変じて島津に属してしまった。
かくて阿蘇家の嫡流(チャクリュウ)も昨日までは金殿玉楼(キンデンギョクロウ)の身、今日は痛わしや、頼みに思う侍共も一人減り二人減り、主側に侍するは僅(ワズ)かの人となり、始終志操(シソウ)の変わらないのは暁天(ギョウテン)の星の如く、渡辺軍兵衛吉次・西源兵衛惟景・坂梨弥五助惟連等の諸勇士ばかりであったが、密(ヒソ)かに【惟種夫人は二公子を誘い上京された】と言うふらし、浜館(ハマノヤカタ)の華表の大門を閉ぢ、小門を開き注連縄(シメナワ)を張り、諸人の出入を禁じて迫・井手両氏をして固く守らしめた。
そうして侍女小宰相(コザイショウ)の局(ツボネ)の在所に、良い隠家があるからと言うので、累代の綸旨・下文等を納めた綸旨(リンジ)箱を担った坂梨弥五助惟連を先頭に、次に西源兵衛惟景は当時僅(ワズ)かに四歳になる惟光(コレミツ)を背負い、渡辺軍兵衛吉次は今年三歳になる惟善(コレヨシ)を肩に乗せ、惟種の後室は竹の杖に縋(スガ)って後に従われた。実に痛わしき限りである。
一行は浜館を出で地蔵坂(御嶽上畑の道路)を通り、代々の文書並に持ち運び難い宝物は、男成(オトコナリ)神社の宝殿に隠し納め、男成一太夫これを保護し、その他の道具類は浜館の中の穴蔵に隠匿(イントク)して置かれた。
かくて早川秀家(越前守)始め、その他の勇士に追い縋(スガ)る薩兵共を追い払い、漸(ヨウヤ)くのことで、目丸山中にたどりつき、この日坂梨弥五助は数十人の敵を斬ったが、一人の頭を横斬りに斬った際、その上歯の半より切り払ったので、その刀を歯切丸と言い、二尺八寸の業物で、現在坂梨家(一の宮町宮地阿蘇家門前)の家の家宝となって居る。
家臣の面々は採薪汲水の苦艱(クカン)を嘗(ナ)めることになった。
隠家目丸への兵糧運送は北里・下城・高森・田上・村山・早川等の輩から窃に貢(ミツ)ぎ奉る約束であったが、皆薩州勢に怖(オソ)れで、後には約束のように送ることができなかった為に上下大いに困った。
そこで弥五助は深編笠に顔を隠して虚無僧(コムソウ)に仮装し近郷所在を一管の尺八によって托鉢(タクハツ)し、その日その日の糧を得吉次(軍兵衛)は惟光・惟善の傍(カタワ)らで蕎麦(ソバ)を敲(タタ)きなどして、僅かに飢を凌ぐと同時に、薩軍間諜(カンチョウ)の侵入に心を配り、主君を衛(マモ)る役を果しつつ、義を金鉄として千辛万苦(センシンバンク)、更に語るも聞くも涙の種子ならざるはない。
この隠家(カクレガ)に於て、或る日のこと、俄(ニワカ)に夕立が降って来た。
農家があるから庭に籾(モミ)が干してある。大粒の雨のために、籾が飛び上がったり流れたりした。
これを見られた幼主達は、面白がって眺めて居られると、家の者が取り込んでしまった。幼い二公子は『今日は面白かった。あれは何か』と尋ねられた。
『あれは私たちの食べる御飯にするのです』と答えたのに『すぐあれで御飯をこしらえてくれ』と言って家来を困らせという話が残って居るが、それ程、二人とも、まだ何も分からぬ頑是(ガンゼ)ない子供であった。
かくの如く阿蘇家の没落は、その当主幼少にて、平家のそれに比し一層悲劇的感傷をそそり無限の哀愁切々として胸をうつものがある。

 その隠家は矢部町目丸字屋敷山崎氏宅であって、当時の面影を残し、松風の茶器・奥方の笄(コウガイ)・矢の根・太刀等の遺品が残存して居る。
二幼主を隠し奉る穴も断崖絶壁に用意周到に掘られてあって、当時の有様を偲(シノ)ばしめる。
坂梨弥五助は阿蘇家中興の忠臣として古城神社に祭られ、今尚春秋二回祭典が行われている。
墓は仙酔峡の登山中、古神(コガミ)の松林中にある。

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