【拾集物語 渡邊玄察記録】 肥後古記集覧巻廿七  大石真麻呂集

佐々陸奥守成政公隈部但馬を責らる事
一、佐々陸奥守成正被仰出侯は、肥後は大国にて侯間、田畠畝反の員数目録被成、御知覽度思召侯との御事にて、御国中へ右の通の差出仕侯へと被仰渡侯処ニ、諸郡所々奉得其意侯中に、山鹿郡隈部の領内計差出仕侯儀罷成不申侯と申上侯ニ、成政公奇怪に被思召侯て国中五十余人の国侍を振舞被仰付、日吉大夫と申能大夫を被召連被成御入国侯ニ付、能をさせ御見物可被成との事にて御定日の御廻文被成下侯故、御定日に皆々被致伺公御餐応膳被下御能見物被仰付侯、左候て御能以後に成政公隈部但馬守鎮(親)永被仰出侯は、国中に田畑畝反の差出致侯得と申付侯処ニ各得其意侯、然処ニ自分の領内計差出致侯儀成間敷きと申出侯、此条難心得侯、然上は可致検地侯、左様ニ心得侯得と被仰渡侯、鎮永被申上侯は、御検地の儀は先々被成御用捨可被下侯、自余ニは被仰付もなく、私迄ニ被仰付侯御事迷惑に奉存侯と色々御断被申上侯得とも、御承引無御座候ニ付、其分ニて被罷立侯、然は成政公被仰出侯は、今度但馬守某が下知に背罷立侯条不届千万ニ侯、然上は、取懸ケ可討侯と被仰侯て、侍頭佐々与左衛門・久世又助・三田村庄左衛門を大将として騎馬雑兵三千人、天正十五年八月六日に被差向侯、若此勢ニて難得勝利侯は早々可申越侯、直ニ可被成御出馬旨被仰渡、隈本より七里の処を其罷七ツ時に令着陳侯て、先々近所の者ともニ右の大将衆陳(隈か)部の様子被相尋侯処ニ、人々申上侯は、從隈本多勢ニて被押懸侯旨隈部聞被申侯て用心被仕、弓・鉄炮の上手五百人程城に籠被申侯て佐々殿


中より佐々成政公の御城寄手後詰めメ仕助城仕功事
一、右に書出候通ニ阿蘇神主殿御兄弟并母御、両高森・北之里・下之城・坂梨・西・北之迫・男成・井手・早川兄弟・田上・渡辺、此頭々前々より右兄弟三人を御城内へ入置奉り候故、今度国侍一揆の人数一分にてハ無之候得共、上向キハ一分の様ニ無之候ハねバ通不申候故、其分にて城外遠方ニ各一所へ陳取罷在候、然処にニ(衍か)「はびこる」其日一同に令密談候ハ、佐々殿今夜内意を申上候て、明日後詰メ致シ御勝利を被為得候様ニいざ/\可仕候、是以城内へ御座候三人の第一御為にて候と申談シ、早川越前守千同丹波工夫弁舌の能者ニて候間、彼者をしのばせ御城内へ可申上と密相談相極メ、連判の誓文を調申上候、口上ハ明早天未明に御城より西の手に中黒の籏を打立可申候、此籏を印に西の手に御加り可被成候、寄手の後詰メ仕一時の間に得御勝利候様ニ仕可申候、ケ様ニ御内意申上申上候者共ハ、神主親子を御城内へ入置申度願進申上如願被仰付候者共にて候、今度一揆一分の者共にてハ無御座候、併一分と無之候ヘハ押懸致殺害候故ニ、其通りに罷成居候へとも、御城外遠方へ陣取罷在候と申候へと申渡、彼丹波忍ばせ遣処ニ、丹波城戸ニ其夜の四ッ時分に忍び寄、御尋の御内通為可申上寄手の方より忍ひ罷上候、誰人ニても御大将の前ををき御方へ被成御出候へ、委細可申上候と、夜廻りの人ニ申候ヘハ、丹波へ人を附置右の段申上候ヘハ、建部兵庫と申仁被罷出、何事候と被申候ニ、丹州右の段被申達候て右の誓文被差上候を被成御披覧、無二無三の忠節成使にて候、御対面被成と御座候て被成御出、従御門内丹波守へ被成御逢御懇なる御意にて、明朝後詰の御約束御直ニ被仰付丹波御返し被成候、丹波忍ひ帰り右の段各ニ申聞候、巳後令風聞候ニ、御大将丹波罷立候跡ニて御城代神保氏并建部ニ被仰出候ハ、彼者共密忠の儀天道の御冥伽ニ相叶候と被仰候て、則其御城内へ彼仰渡候は、明未明ニ大将西の手へ被成御出候、西の手へ中黒の籏見へ候ハ、それニ向弓・鉄砲射間敷候、彼旗は味方にて候ぞ、彼旗目当にして各かゝれと被仰付置候、然は如案翌朝中黒の籏をおし立ニ付、御かゝり被成候ニ後詰申上候通ニ仕候、右此手より崩れたち、一たまりもたまり不申寄手致敗北、菊池香左衛門・同弥門令自害候、甲斐武蔵ハ引取落人に紛れ何地となく令逐電候を、巳後秀吉様より被為御尋出候て被成御誅伐候、成政公御直に御大音声にて、前後の御軍法被成御覧候間、きりかゝれつきかゝれと被仰出候故、荒仕子に至迄首を各取候由に候、二時程の合戦に上下二千三百八十余人成政公被成御ウチ取候、左候て御勝閧御上ケ被成候て敵一人も不残御討取、或引取候ニ、右の通後詰仕候仁人被召出候ハ、今度の密忠の趣御失念間敷候、能々御国を被為納メ候後、皆々仁分に可仰付候、時節を奉待罷有候へと被仰出御目見被仰付候に、各一同に申上候は神主母子を御城中へ奉願入置申候上は、今度阿蘇の家頼共私一揆を起シて、神主親子少も被儀事にては無御座候、勿論両人の家老の老身守に罷附申候て御城内へ被罷在候、此旨能々被聞召上届被下候にと申上候ヘハ、往々神主ヘハ御朱印の外に御寄附を被仰成候を、忝(かたじけない)一同に敬礼仕罷立申候、

一、佐々殿やつは巳後迄も御安穏に被成御座候ハ、阿蘇殿ハ勿論右の通に附そひ迫(廻か)り奉公仕候迄に、今度成政公へ右の通の密忠中各仁別/\に見事観(規か)度可被仰付を、其年中に御落去被成候ニ付残念に候、佐々殿ヘハ阿蘇家より一揆を起シ候と当分迄も上下申ならハし不及是非候、成政公不被成御落去候は、神主御母子・家老入城の分ケ、阿蘇家を令違背格別に知行拝領の願仕候者共私謀叛をおこし候段、天下に可致顕然候へ共、成政公被成御威(滅)亡、語上候とて無御座、違逆の家頼(けらい)共が私一揆前へ主人の神主御名負と成、無是非従秀吉様被為拝領候三百町の御朱印も御反古(ほご)に奉成、佐々殿ヘハ御忠節殊外(ことのほか)右の仁人助城密忠の後詰メ無被成、其後頃有心の子孫口惜残念に候、

佐々成政公柳川立花殿へ御加勢被成御乞候事
一、成政公隈本の城ハ右の通に御無事に被為成候得共、隈部・有籐落去無之故、筑後国立花殿へ御加勢被有候様ニと被成御頼候ニ付、立花将監殿の御舎弟三池宗益と申を大将にて騎馬・雑兵三千余、同十月九日に山鹿へ被指遣候、左候て佐々殿へ御対面の上軍の御評定被成候処ニ、宗益老被仰候ハ、先足軽共を有籐が城の大手口に差向ケ鉄砲をうたせ、其間に騎馬に米を附させ東西の附城に外よりなげ入れ/\仕候へと被仰付候故、其通りに仕候て引取候処に、大手原口の侍頭六人大将ニて七百余人、保柳口より八百程打出各申候ハ、柳川人数被引取候道筋永野原を取切討可申とて打出候、然共早々先引取候故其分の処に両勢押懸可令一戦と申候へ共、有籐左京申候ハ、味方四、五百にて騎馬・が(か)ち三千余の大敵に懸り候共勝利得間敷候、先ニ足軽を遣し鉄砲をつよく打懸せ候ハヽ多分谷底へ落下候へく候、其時かさより落懸ケ一戦可然候と申候、有籐志广申候ハ、かなわす引取候はいかゝして本陣へ引取可申哉、人ハ格別某におひてハ追懸一合戦致し候ハんといふより早ク追懸候ニ付、立花勢三千余一同に取て帰し柳川勢勝利を得引取被申候、元来柳川の家は戸次にて彼家より合戦有名の家にて候、然れ共落城ハ無之候、

秀吉公安国寺を被為差下候事
佐々成政公被召上セ御切腹之事
隈部・有籐并謀叛の頭人御誅伐之事
一、秀吉公佐々成政公へ肥後国被為拝領候て、寄々(密か)横目を被差下被遊御聞候ニ、佐々殿隈部ニ検地の儀被仰付候事根本ニなり国乱候儀、御制書を無ニいたし仕置不宜、一揆と成令籠城落城無之義奉達上聞ニ、同年十二月ニ安国寺(恵瓊)を被差下候て隈部・有籐へ扱を被仰付候ヘハ、謹て御請申上下城仕候、然(就か)夫人質を被成御取落着候、

一、上意にて隈部・有籐一門筑後柳川へ明ル五日迄ニ成御預ケ置候て、同月未比ニ隈部但馬守鎮安・同次男鎮房ニ切腹被仰付候、左候て有籐鎮安・有籐大隅・北之里与三兵衛・甲斐能登・有籐志广、此者共ハ都へ被為召上筈ニて豊前国小倉迄参る処に、いか様の分ケ共にて候哉、小倉ニて各被遊御誅伐候、北里与三兵衛ハ北里加賀守か執事ニて候ニ、彼加賀守ハ右の書出の通に神主殿へ附そひまわり各一同ニ忠孝を仕居候、其間ニ謀叛人共ニ令同意、今度の逆叛ニ相加り身をほろほし候ハ、主人の本北之里ハ右の通の処ニ、家臣として慮外を仕出し身をうしなふ上、主人の名ニ疵(きず)を付候事不及是非候、甲斐武蔵・菊池香左衛門ニ令随意国侍各令落去候、甲斐能登山鹿にも矢部にも同名其比有之候、右の甲斐能登、有籐家の能登ニて矢部甲斐の能登にてハ無之見へ候、御船甲斐宗立なども後筆ニ書出候通、無是非事ともニて候、

一、秀吉様、安国寺(恵瓊)へ、隈部・有籐下城落城候上にて成政事急速ニ罷上候へと申渡し候へと被仰出候よしにて、隈部・有籐下城人質差上候て、即日成政へ右の通りの上意被申渡候ニ付、其翌日成政公肥後国へ(をか)被成御立候由ニ候、

一、佐々成政公急速ニ肥後被成御立御上り候処ニ、秀吉様尼ケ崎へ被遊御出被成御座候ニ付、尼ケ﨑へ御着船候て佐々罷上候段被仰上候ヘハ、同浜へ被遊御出座候処へ被召出、白沙(砂か)の上ニ被召置被仰出候ハ、肥後国被下被成候ハ、置候御制書を無に仕、検地の沙汰をいたし一揆をおこさせ、国中動乱令様ニ仕置をいたし候条御悪心ニ被思召、即所ニ切腹仕候へと被仰出、検使を被付白沙の上ニて御切腹被有候と申伝候、

一、佐々氏切腹仕候旨達上聞被仰出候は、正成令所持候武具・兵具・戦具の類不令退失、扨又同家頼の者共・侍分の類一人も去除かせ間敷候、此旨堅ク申付候へと被仰出候由、

阿蘇宮神主殿御兄弟・御後室公城内を奉出候事
一、神主殿御母子公、右の通りに成政の願ニ申上候て御城内へ奉入置候へ共、佐々殿急速ニ御上り候迄ニ色々不宜取沙汰候故ニ、城中へ召置候てハ無御心元、各申談し御城代神保安芸守殿へ申達し、御城を出し申候て如前比目丸へ引隠し奉置、御後室主又々前比の通りニ小宰相の生住所へ被成御隠座、小宰相御守り被有候、両御曹司ヘハ坂梨孫太郎・西源兵衛、其外前比の通りニ各奉仕相守居候由ニ候、

秀吉様森壱岐守殿を被為差下候事
一、秀吉様被仰出候ニハ、肥前国静謐(しずか、ひつ)の御上使ニ森壱岐守を可差下と被仰出、森氏手勢に上ニ御直の騎馬・雑兵三万被為添被成御下シ候、被仰出候ハ、肥後国侍ハ不及仰ニ謀叛者共の余類見聞仕出シ悉(ことごと)ク誅伐可仕旨の上意にて、天正十六年二月朔日ニ大坂を御出船、早々肥後の国へ被成御着、国中御通り、被成謀叛人ハ勿論其類族/\被尋出御誅伐被成候、甲斐宗立・同武蔵・熊牟田の庄城殿、其分爰かしこより被御尋出、益城郡の謀叛人ハ同郡六ケ村にて御誅伐にて候、然は成政公へ密忠の後詰仕候者共不被成御殺、森殿へ被召出一人/\口上を被成御聞候ニ、阿蘇神主兄弟幼少ニ御座候故ニ、佐々殿の御居城へ成政公願を申上入置候段、前々家頼共阿蘇の臣下を守護し、五十余人の内ニて秀吉様ニ御直礼を申上候者共成政公へ逆心仕候、少も神主より差起候逆心にてハ無御座、就夫佐々殿の居城に入置、坂梨・西北・田上・迫・井平・男成・高森・北之里・下之城・早川・渡辺・村山、此頭の都合五百の各手勢ニて密ニ城内の佐々殿と致合心、時刻の約束ニて致後詰致助城、一時の内ニ佐々殿と被為得勝利、寄手敗北、敵首四千余大将被討取候ハ、我々後詰密忠の故ニて御座候と一同ニ言上候へは、善悪邪正不被仰出やつは不被成御構被召置候故、其分ニて通申し候由申伝候、定て御横目被為差下被置候ニ付、微細の儀前々奉達上聞候故、今度森殿へ御書出被為頂戴被遊御下し候ハんと存候、其書出ニ、右の仁人一同ニ申上候段の儀御苻(ふ)合候ヘハ、相違無之故其分ニて相通り候つると存候、其砌(みぎり)自国・他国・京都迄も阿蘇家第一の謀叛一揆と申ならハしたる由ニ候からハ、神主殿を御尋被出御穿鑿(せんさく)も可有御座候ヘハ、右の通御入城のわけ、右ニ直礼ニ従毎ニ小宰相を南の関被差上候分旁ニて、神主殿ヘハ為何被仰入分も無御座、天正巳後当分余ニ久しからぬ事ニ、肥後国中ニそ巳(こか)爰ニ前々城主/\の末流無之候ハ、右の通森氏根をほり葉をからし被成御誅伐候故、城主/\子々孫々令断絶候つると存候、


一、佐々殿へ密忠とは、右の書出の通ニ成政公の御城え後詰仕、御城を助ケ御利運ニなしたる仁人の事にて候、致後詰候根(元)にては、神主殿御母子の御三人を大切ニ而存各佐々殿へ致密忠候、密忠仕候仁人の孫々ハ高トと成有之候、早川越前守御先代まで子孫人分にて被罷有、加藤忠広公へ不相替三百石被下御奉公被相勤候へ共、子孫無之令断絶候、然れ共越前一家に猿渡何某(早川越前守の弟、丹波守か)と申候て御料理を相勤罷在候、高森氏も加藤清正へ被召出御小知被下候、其一家南口御惣庄屋役相勤罷在候、下之城も御内被召出同前ニ候、北之里も同前、当分も御家ニ被罷在候一類ニ小国北之里御惣庄屋相勤罷在候、村山氏当分当御家ニ被罷在候、男成・井手・田迄(上か)・迫・西北・男成ハ午(矢か)部男成明神の社司、井手ハ矢部先御惣庄屋兵右衛門、坂梨ハ右御守ニ罷在候、的伝は当分の神主殿へ被罷在候、密忠の子孫ハ坂梨当分の御惣庄屋、迫の孫も御当分の神主殿へ被罷在候、田上も乍下々の人分にて益城へ数人有之候、光永の子孫も沼山津御惣庄屋相勤罷在候、結(結)構なる仁人の子々孫々令断絶ハ、阿蘇の御いへを令用捨薩广へ帰伏し、其後追々ニ秀吉公へ奉還、直礼ヲ右の通令逆心致亡身子々孫々も無之候、田上の末孫多候中ニ、当分甲佐の御惣庄屋作之丞、田上の孫ニて候、実ニ森壱岐守殿右の通ニ急速被仰付、早々即年三月被成御帰上と申伝候、附り愚老も乍人外渡辺的伝の孫ニて候、委細は一家記ニ後筆可書出候、

秀吉様肥後国之前々城江御取分ケ御城番被差下候事

一、天正十六年三月下旬ニ前つかた佐々殿一揆を被越候仁人の分ケ有之候城々え御城番衆被為差下候、

一、山鹿城村之城ニ  生駒雅楽殿

一、菊池之城ニ    蜂須賀阿波守殿

一、御舟之城ニ    黒田勘兵衛殿

一、隈本之城ニ    浅野弾正忠殿

一、八代之城ニ    加藤虎之助殿

一、宇土之城ニ    森壱岐守殿

一、阿蘇内之牧城

森氏殿ハ御帰上候と其まゝ又御下国の由申伝候、
右の通ニ被為差下右の城々ニ被成御座候ニ、民等え御自分/\ハ勿論御家人衆少も非儀無御座候つると申伝候、左候て同年五月末頃ニ右の御城番衆被召上候由ニ候、是ニ付其比申たるは、矢部愛東(籐)寺城、岩尾城ハ大城ニて候ニ、御城番不被遊御附ケ候、阿蘇神主殿は幼少ニて御野心無御座候事、奉達シ上聞ニ候故を、以の候事ニて御座候由候、其比有心の仁人密の取沙汰仕候なとゝ申伝候、

従秀吉様加藤主計頭清正公・小西摂津守行長へ肥後国半国定被為拝領候事
一、同年の五月、従秀吉様加藤主計頭清正へ肥後国の内飽田・詫广・阿蘇・合志・山本・菊池・玉名・山鹿、此郡の被成御拝領候、北目の分、

一、同年同月同日ニ小西行長へ肥後の内宇都(土)・益城・八代・芦北・天草、此郡の南目の分被拝領候、

一、佐々成政所持の武兵戦具不相残加藤清正へ被為拝領候と被仰出、御拝領被成候、

一、同家来の侍不相残小西行長へ被為拝領と被仰出、御拝領被成候、
右ニ成政へ御切腹被仰付、則武兵戦具并家頼人共散失不致候様と秀吉様被仰出候ハ、如此ニて被仰付との事ニて御座候なりと下々申たると語伝候、

一、加藤清正公ハ肥後の国内右の郡々被成御領知、熊本佐々陸奥守成政の空城ヲ被成御掃除被成御入城候由ニ候、其巳後肥後一国惣ねて被成御領、大城を被成御築候由ニ候、御城建立候儀語伝聞覚候事後筆ニ可書出候、

一、小西行長ハ本郷伯耆居城ニ御入城にて以後、新城を御築被成候とも申候、天下様御敵成故いつれ小西の城跡と当分迄分明ニ候、

阿蘇神主公御兄弟を加藤清正公・小西行長公被成御育候事
一、肥後の国を右の通ニ御両殿へ被為拝領候て被成御入部、阿蘇宮前の神主ニて当分の神主ハ何方え在住被在候哉と、乍御両殿被成御尋候ニ付、右ニ書出候通ニ益城中砥用・矢部の境山中目丸より被召出候ニ、坂梨孫太郎・西源兵衛供仕罷出候と、惟光公ハ加藤清正公、惟善公ハ小西行長殿へ、御両殿より御扶持被遣候て宇土・隈本へ屋敷被遣、惟光公ハ隈本、惟善公ハ宇土候、右御両所へ被召置結構ニ被成御育候、其砌有名の仁人阿蘇の神主を奉感候ハ、清正公ハ法華御宗故御懇の旨御尤(もっとも)、行長公ハ邪宗門にて仏神御敬拝も無御座無道の御事ニ、惟善公を御懇ニ被成御労育候ハ御神慮と申候由ニて、如此ニ可被付とハ不存故、佐々殿へ阿蘇の家臣共私逆心を起候を、主人ニ及ほし被召出候哉と右ニ書出候、金石の仁人迷惑千万ニ存候処ニ、左ハ無之右の通難有各奉存候、定て加藤虎之助様と奉申候砌、宇土城番へ被成御下り候、其節彼御両人幼少の上、右の一揆ハ不所存の分ケ慥(たしか)ニ被遊御聞届被成御座候ニ、追々当国半分御拝領ニて被成御入国、其砌ハ宇土・隈本御中ハ目出度御座候故、清正公被思召神主殿御兄弟右の通ニて、行長公へも従清正公宜被仰談右の通被仰付候ハんと、其比有心の仁人御感したると語伝候、

小西摂津守行長公肥後両郡右の通拝領之事
一、当益城第一行長公御領分の最第一と、御自分ハ勿論御家中迄も御申候由ニ候、就夫熊の庄当分の古城ヲ俄ニ御築直し可被成と被思召候へとも、薪山御不自由ニ御座候とて被成御用捨由申伝、

一、小西殿御入部の時分ハ御慈悲ニ御座候て、無理非道無の様ニ御糺(ただす)ニ被成欲心ニ無御座候処ニ、五、三年過候とくら/\とやミに入候様ニ仕置もこまかに、在宅御免ニて村々ニ御給主在宅色々非事、第一ハ、

一、所々村々ニ従前々祝崇メ参り候氏神・産神・辻堂無住有住の寺々、宿禰有無の宮社一字も不残失火被成候、余郡ハ語伝不覚語ニ候。併釈迦院の名鏡なとも宇土へ被引下、銭をハ鋳させなされ候、其鏡引候ニ岩かどにあたり候跡、当分迄も古老とも是か/\とをしへ見せしに、慥(たしか、ぞう)すれ跡有之候、

一、熊の庄木原六殿坊社家数多キを某被仰付、当分宮寺有無の躰にて一社壱人、或一宮両輩ニて敬躰ニて候、六殿宮ハ古昔大和有道智の名巧(工か)罷下建之、古跡又ハ御綸旨御座候故ニ焼亡の儀御用捨と申伝候、

一、当三社神明の身躰、社ハ悉(ことごとく)破却し焼亡被有シニ、御身躰ハ漸ク令隠盗、祖父吉次山口の岩穴ニ奉入納、穴をぬりふさき、かやを植々いたし廿年ニ及隠置、被落去即年加藤清正公御成領知故ニ、本社地/\へ致遷宮候、当社計ニてハ無御座、宇土三宮をはじめ皆宇土領分ハ一同の事ニ候、

一、近事を書出し遠方他ニのぼし候、当厳島社内楠の枯根有之候ハ、彼楠小市郎大納言と申高位人の陵キニて、神に祝小市郎神と従前の崇メ初メ来り候、委細は当三社記ニ書出候、彼小市郎神木の大楠一畝廻程の大木にて、朝日ニ糸田村ニ障り、夕日には熊野権現山を隠し候、大楠を小西殿船木ニ御剪取被有候、梢(こずえ)ハ糸田村ニかゝりたる楠ニて候、其一本にて大船一艘・次の船七艘令出来候由、其大船ニ小西殿三男の子息乗り、高麗へ御親父御陳滞見廻見物、旁ニ渡辺三蔵と申侍供ニて同船ニて、晴天ニ帆高く対馬の沖を各類船一同に渡海候処、其船一艘転り/\と再往廻り海底ニとふと沈ミ、乗船人の上下数人一人も不見得、何色ニても船中ニ有候物一色あがらず候由たしかに申伝候、其楠のかれたる根、当社内ニ今有之候、宇土殿御領内中ニ右の通ひとしき事の多さハ不被出書、一事を以万事ニおよほし候、

一、年貢課役ハ去とては福祐なる御領主ニてやハらしく恩免も有、百姓色目を国代よりもなをし候由ニ候へ共、才足人を被相附切支丹宗旨ニなれ/\とのせがミ毎年毎月ニ、御領内の者共こんじはて候由ニ候、然れ共領内ニ男女一人も邪宗ニ不令帰伏候故ニ、益城にては熊ノ庄・吉野山・木原村・鴈廻山(がんかいさん)・阿高村・千地耶寺、松橋ニてハ談儀所・亀甲山・飯田山・辺場山・早川・三社の社僧社人、甲佐三宮、同御舟若宮内東禅寺・円福寺・照山寺・大雄寺・安養寺・浄光院・正法禅寺・養明寺・長宮寺・多門院・福王寺・法正寺・大御堂・法幢寺・小川円福寺・長善寺・瑞眼寺・道禅寺・春蓮寺・臥蔵院・不動院・関通寺、右の外寺社数多所々禅真頓宗の諸僧宗旨ニ令障怨、邪宗門ニ不令帰伏候て、右の山寺を始メ悉ク破却被召候、沙門諸出家清正公の御領内ニ被致逐電、今熊本え住持と成伝来の寺々まゝ多く、八代郡釈迦院・益城の亀甲山・飯田山ハ取分ケ山寺故、亡所ニは願主とても押滅被成かたく被立置候、愚老祖父渡辺軍兵衛吉次、彼は一人神道の張本者とて再三度及滅罪候を、後筆ニ可書出の通ニて死場をのかれ/\被致候、其科は切支丹ニ、吉次教訓ニ不相成候との事ニてあふなふ存くらし候と、吉次ら申候由ニ候、

 小西氏滅亡ト昂(あがる、たたかい)肥後の国を加藤清正公
惣ねて従松平内府様被為拝領候事
一、慶長の年中ニ秀吉公被遊御逝去候巳後、石田治部少輔三成・小西行長・安国寺・長曾家(我)部、其外ニも被申入候て、対 家康様ニ美濃国関ヶ原ニて叛逆ニ付被為逐御一戦候処ニ、石田氏敗北、家康様被為得御勝利、石田滅亡同前ニ小西行長もほろひ被召候、加藤清正公ハ無二の家康様御味方ニて御座候処ニ、関ヶ原御陣の砌公持病の疝気(せんき)被差発候故、不被成御出陣候間被仰上候ヘハ、忝(かたじけな)クも上意ニは清正儀持病差発、國中ニ被在候事幸ニ被為思召上候、九国中石田味方有之候ニ、清正罷在候ヘハ御心易被為思召上候との上意ニて、清正難有被思召、九国令動乱候ハ御用ニ御立可被成進上とて、御国中御領分ニ国侍并覚の者共隠れ罷在候者差出可致候、少も悪ク可被仰付ニてハ無之候と被成御触御要心ニて被成御座候ニ、大老加藤平左衛門と申仁諌言(かんげん)被申上候の由ハ、今度関ヶ原の御一戦ハ天下分ケ目の御事ニ御座候間、上意御免被遊御免御事とハ申なから、国本ニうつら/\と被成、御在府候御儀ハいかゝ敷奉存候、御気色御不快なからニもそろ/\と御人数を被為押被成御出陣御尤と存候と被仰上候へは、尤と思召被上候間、日やりニ御病中ニて被成御座候上ハ、可被成御出陣ニと御座候間、熊本を被成御立、即日ハ大津ニ御一宿被成、翌日ハ内ノ牧迄被為押候て、だんだん右の通ニ被成御座候筈ニて大津をそろと為立、二重坂の峠ニ被成御上り候ニ、急速の御飛脚大坂御留守ゐより被差立候由ニて文箱差上候を、御前に被召上被成御披見候ヘハ、

家康様え被仰上候得ハ殊外(ことのほか)御機嫌宜敷被遊御感悦候
一、家康様清正ニ被為仰出候、尊綻(たん、ほころびる)ニハ宇土小西住域を乗取落城の儀、去とてハ神妙ニ被為思召上候と被為仰出、辱(じょく、かたじけな)クも被遊御感ニて、御褒美肥后(後)国を惣ねて清正へ被為拝領候との御事ニて被為仰渡候故、清正難有謹て参り御朱印を被成御頂戴候、肥后国 千秋万歳候て歓喜万民難有存候、

一、右の通ニ宇土領分を清正公御加増被為仰出肥後一国ふさねて被成御拝領候との仰渡シニ、御両騎之侍宇土領被成領成御廻シ候、

一、御国中ニ被仰触候ハ、小西行長儀ハ内府様(家康)の御敵ニて候間、此巳後宇土領の跡民其諸帳御記等ニ津の守殿・行長様ノことく殿様と書候事も、口上ニ其通りニ申事も御停止候ニて候、津の守・行長とて書候、御先代の殿様なとゝ申出間敷候と被仰触候とこそ共語伝候、

清正公阿蘇惟善を同神主ニ被成御取置候事
附り 色々の事
一、阿蘇神主惟光公を、右ニ書出候通ニ加藤清正公御育被成候て、熊本へ屋敷被遣御扶持被遣候処ニ、是ハ北目半国御領ノ時の御事ニて候、従 秀吉様何の分ケ共相知れ不奉、惟光へ切腹申付候へとの上意の由ニて被成御切腹候、左候て、熊本阿弥陀寺御焼香候て御位牌阿弥陀寺ニ御立被成候、秀吉公前以惟光科無之段被成御聞知、巳後右の通ニ被仰出候ハ、相良氏、阿蘇家郷(響)野原へ発向被有候を、阿蘇の大老甲斐宗運右ニ書出候通ニ討被申候ニ、従相良吊ひがっせんとて無之候故左様の意恨ニ、其砌相良の大老深水宗甫風雅有心の仁とて紹邑なども懇ニて候ニ付、秀吉様の御座間近ク伺公仕上居被申候由ニて、主人の敵故何そ神主ハ強敵ニも成可申哉なとゝ咄共仕候を被達上聞、右の通ニもか被仰付候哉と有心の者共申候、然ハ清正公ニ小西落去後右の書出候通ニふさねて御拝領被成候故ニ、宇土城両又小西家頼伝(侍か)清正へ被召置被成被遊貴免候故ニ城をも御引取被成、南条玄宅をはしめ前々佐々成政の御家人、右行長へ従 秀吉公御拝領之有候、其侍衆今又清正公へ被召置候儀、従将軍様被遊御貴免(きめ)候ニ付、佐々殿へ阿蘇家の各致密忠の御内通の取次被致候建部兵庫頭をも清正公へ被召置候、左様の侍宇土へやつは被召置、其宇土侍小路ニ被罷有候侍衆を、巳後熊本御引よせ被召置候故ニ当分迄宇土小路と申ハ此由緒ニて候、左候処ニ惟善公右書出候通ニ小西城下へ育クまれ御座候を、清正公熊本へ被成御呼寄、神主職被成御取立度被思召候とて
家康様え被成御窺(うかがう)候得共、前々の通ニ取候様ニとの御書出被成御拝受、惟善ニ清正公より御知行千石被遣、阿蘇の御宮辺ニ在飯(館か)被有候へと被仰候て、只今の屋敷ニ惟善公被成御安住ハ当分迄如此ニ候、然ハ惟善公ハ批判被成、千石の内御神分ハ自分領社家山中え被成御配分、当分迄其通の由ニ候、

一、清正公ハ阿蘇え大寄進候御善持ニて御座被成候ハ、阿蘇大宮司職も右の通、扨又阿蘇山坊中国代落去の砌、山々亡寺候故諸坊被致逐電行方不相知候を、清正公前々の通ニ坊中御取立可被下と坊中ニ御礼を被為立候故、被隠住候坊々立帰、唯今の通ハ清正公御深情ニて候、山中をも清正公御再立ニ被成御立候、

一、宇土跡領ふさねて被遊御拝領、跡領ニは竿被成御入レ候ニ、余郡ハ聞及不分明、益城ヘハ石田又十郎・岩原七左衛門、此両人竿打奉行ニて、村々田畠明白ニて御新調候語伝、一、清正公ハ年ニ春夏秋冬四季ニ、御在国の年々ニハ被成御廻国々と古老申候、老外御座候て寺社修理・山河・海辺・道橋・田畠御関所・井手・堤被成御覧それ/\ニ被仰付候、河尻若宮社先々雑材木ニテ御修理可被成と御座候て被成御調候、引例ニてハ当分も上林木ニてこそ可被仰付候得共、引例故ニ雑材木ニて御修理御座候由ニ候と令聞伝候、

一、河にはさふた・井手・甲佐・津畜(富か)・山出・御舟・築地、そこ爰被成御覧ニ立、甲佐ハ井手如此/\と被為御覧勝候て、下々の井手堀役頭ニ当分の御惣庄屋甲佐作之允曽祖父横田次郎左衛門と云、二十七ニ被罷成候砌、只今の屋敷ニ被遊御通座、甲佐井出被為御見立、彼次郎右衛門ニ右の通ニ仰付候、井手筋上下流筋遠ク候、又ハやミいたがといふ事有之物ニ候間、今壱人ニ可被仰付とソ仰出、下々吟味いたし、上豊内ニ久左衛門と申を、当分上豊内村庄屋五右衛門祖父にて候、彼両人ニ下奉行被仰付候、尤両人共ニ御目見仕候、早川前井手筋是ハ拙子祖父吉次見立候て、清正公へ甲佐井手より前津方ニ御ほらせ被成、此訳前後候へ共軍兵衛色々事を書出候所へ可書出候、御舟若宮社より其下々数ケ所ニかゝり候井手も、御直ニ御舟ニ被成御出、辺田見庄屋被召出御問答ニて被仰出候、此井手せき所ほとの井手口ハまれニ有之候能井手せき所にて、然は此御舟川は辺田見川といふはずじゃが、なぜみふね川とハいふ、川はくミて柄杓(ひしゃく)にいる方ニつく物にて候、御舟町からハ柄杓にいらず、辺田見の方からくミてハよくいり候、いかゝ昔よりあやまり候哉と被仰出候ニ、たゞ今辺田見村の庄屋伝右衛門曾祖父甚左ェ門と申庄屋、畏て謹ミ申上候ハ、御意の通ニてハ御舟川と申伝候ハ尤ニて御座候、御舟と申ハ彼古城の名ニて、立城の時分ニても当分も御舟町と申候、城の方より扱申候ヘハ能ク柄杓ニいり申候と申上候ヘハ、尤じゃ、扨は城よりは其の通り/\と被仰出、御機嫌ニて被遊御立候由語伝候、

一、高瀬の浜辺より八代表迄海辺/\ニ、そこ爰ニ御心に風波の除引被遊御工夫、汐塘被為築、汐の増減被成御考、天草山を宇土川の風波の向ふ敵ニ被遊御覧シ計ヒ、塘の出入風波の有無を能々(よくよく)被成御了簡被成御築候と申候、

一、河尻御蔵より川口迄ハよほどまがりめくり遠く候、彼曲り転りを直様ニ御ほらせ被成候ハ、由伝の合間/\ニハ大分の作地方有之候ニ、あたら事と存し申人も多ク候、あなたの御了簡御工夫ニは乍恐難及候、其分ケハ、真直クニ川口より御ほらせ被成候得は、中の瀬・鯰・上嶋当たりまでさし汐さきしつるべとまがりめくり、汐さし入をり候間ニひき申ス刻限ニ相成候故、汐さき遠クさしいれず、此御了簡を以、扨々三百五百石の田地ニ数千万石の汐入りニハ不被成御替候との御了簡ニて、まかりめくり川口迄御ほらせ被成と申伝候、

一、沼山津下より東むた・くしゞま已下、西むた已下、悉クぬまニて候を、中の瀬御ほらせ被成、当分の通ニ候か、

一、御舟町以下の牛瀬村・小坂村の通りより上嶋村の通迄、堀川被仰付御ほらせ被成候、其已(すでに、のみ)前ハ木倉村下より流レ来り候、屋形川の様ニ牛瀬村向ふのひくミより一ツニ流れ候、洪水の砌は六ケ(六嘉)よりむた表に水海ことならす、大破水損詫广ニさし令水損候、就夫右の通ニ御ほらせ被成候、白老か祖父(軍兵衛)前つかた居村、早川の井手見立御直ニ色々致言上候儀、被為叶御心ニ、彼小坂河原ニ被召出何やかや御問答申上候故、彼堀川ハ大分の人夫被召加御ほらせ被成候ニ、軍兵衛一人罷出罷在候へ、村の人夫ハ軍兵衛ニ被下候と被仰出、御堀奉行非地方金左衛門ニ右の通御直ニ被仰渡、名利を得奉行と毎日咄いたし問答罷在候、彼ハ堀川かさハ広ク、野くびほり切ハ六ケ栴檀(せんたん)塘へのほりくちの本の川以の外せまく御ほらせ被成候事いかひ分ケ有ノ候、六ケせんだん塘も子細候、彼堀川野ぐひの本ほりわらせさせられ候し処、ひろ/\と御ほらせ被成候ヘハ、其以下ニて大洪水の砌塘きれ候へは、上嶋・六ケ(六嘉)・鯰あたり水損大分可有之候、野くび已上牛瀬・小坂ニて塘切レ候ハヽ、木倉・高野・耳木村下への田原、六ケせんたん塘に水をさきこたへ、それより耳木村下・高野村下のひくミを水まひ候てさかさまに水せきあげ、古城下のひくミ/\ニ水あそぶ間ニ水かさへり候、然上ハせんだん塘きれすして塘迄しよろ/\こしをり候間ニ、もはや水はへり候、然ハ塘きれ候右(大か)水にて塘下五町、三町は河原に成レ候ても、自余の田ニハ余土を置候故ニ、いかほとの過分水損無之と候、被遊御了簡、野くび御ほらせ被成候うけつけ候所の如く被仰付候、せんだん塘の儀、先書の通水受の塘にて候、不入事書付置候得共、当分はや彼地初て通る人ニハ、山手ほり候故ニせまくほそくほり候と申て通り候故、為問答乍不入事書出候、

一、当分書出たるも真事らしくも無之候へとも、清正公の御事書出候故不筈令伝聞罷在候事書出候し、四季ニ被遊御廻国候ニハ、道筋村々庄屋ハ勿論何名何某め罷出候不出候哉と被遊御尋候、甲佐井手被成御調翌春、井手筋の遊御覧候半とて被遊御出候ニ、祖父軍兵衛所労故叔父軍兵衛嫡子孫四郎古九郎右衛門事、老親相煩申候故罷出不申候と申上候て罷出候、井手末白岩よりかさのやうニ被成御見駕候ニ、御正先ニ被召連、糸田・早川向ふ道の井手橋、惣て井手の広サ末ハせまく、糸田当りにてハ弐間の由ニ候、広さ二間を真黒の御馬ニ被為飛候ハんと被遊候、孫四郎あぶなく奉存候と申上候ヘハ、にこ/\と被為咲(笑)、おのれか馬ハ一よいのハいかほとにとるぞと被仰出候ニ、銀五十目の馬は能御座候上候ヘハ、それ二十増倍の馬じゃほどにとばせて見せうと被仰御引向ケさせられハ、馬ニとばせらるゝ処を能々御見せなされ転り/\と輪をハのり被遊、御高声ともに御とばせさせられ御見せ被成候と、愼(慥か)ニ自老迄にてなく古老共成伝へ如此候、

一、後筆に可書出を先少々書出し候、当所早川古城主早川越前守秀家天正十五年ニ令落去、薩广軍人発向の砌ハ阿蘇殿御母子公ニ附そひめぐり被致忠節候、已後国侍ハ右の通ニ候得共、彼越前守ヘハ御別条無御座候故、京都未一見無之ニ付南郷高森氏なと申合候て被致上京候、都二条通り玉屋町ニ令借宅数年被居在候を、自老祖父吉次益城ハ宇土領分にて邪宗門の故呼下シ、清正公へ乍宇土領内縁を以奉公ニ有付ケ候て、知行三百石被下桜馬場ニ屋敷被下罷馳過候、左候て初書無ク成被申シ、柏原常安と申清正公御咄の仁にて御前へよくニて候、彼常安娘後妻ニいたされと候、
一、前々少々書出候通ニ、熊本・宇土御中能被成御座候砌、小西の御加勢の天草御陳立ニて御座候ニ、右早川越前守御供ニて出陳被致候、然ハ御取合の砌各動き被申候、右越前守太刀討物達者故清正公御目前ニて越前ハ寸過の刀、敵ハ鑓ニて無二無三ニ真黒ニ突懸り候を受迦(返か)し、片手にやりの鵜のくびをクむずと握り候を打捨候て、かいふり急足ニ迯(にげ)候故、敵の鑓をひつ下ケ御本陳ニかへり、越前被存候ハ、国侍とて御知行被下今度御供仕候ニ夫首成共取不申、結局御目前ニてはりあひ候敵ハ打もらしつ面目なく存ル/\、御本陳をしほ/\として罷通り申を、御直ニ越前/\と被仰出候故ニ、畏(かしこま)り候ヘハ、敵の首取候事ハ間々多ク候、敵の討物をねち取候て敵をはだしになし迯し候事ハ余ニ又有之間敷候、成程被遊御覧候、御帰陳の上ニて急申仰付と被成御意候故、中間の侍衆就中(なかんずく)舅の柏原も難有被存候、此御合戦ニ先懸ケハ法度の処ニ、柏原常安嫡子同左馬之進と申仁抜ケ懸ケ被致数人の敵を討取、終ニハ討死ニ被致候、けな/\人にて候由にて、清正公殊外御おしミ被成候て、左馬進なとに被成御附ケ候御鉄砲頭、仮名令失念候、其鉄砲頭法度とハ乍申、あたら左馬を致討死候を令見殺候ハ不届ニ被思召候て御座候て、即座に切腹被仰付、其跡ハ鉄砲拾挺頭越前ニ被仰付候、吉次事右の書出通ニ越前とハ一家故、越前舅常安ニ従清正様被下候御書従常安吉次ニ給候を、愚老迄持伝候、然は清正様へ御疎筆ニ被成御座候たると申候へとも、左ハ不被成御座候、御能書ニて被成御座候、然処に藤崎古法印依御所望ニ進候、

一、清正様、詫广中の瀬、只今の塘川ハ、ほり沼田を能地に被仰付、諸郡よりぬき百姓被仰付むたニ被成御入候て当分と通と、古老共申伝候、

一、中ノ瀬川の中あしこ爰へ中嶋少づつ有之候ニ、当分ハ七嶋抔(など)植候、此中嶋ハ塘ノ曲り/\ニ中嶋/\御座候ニ、此中嶋ハ大水の砌此中嶋/\ニて波を受々仕故塘切レずる、其了簡被遊候て中嶋如此ニをき/\被遊候と前々ニ申伝、

一、清正様北半国被遊拝領被遊御入部の砌ニ、残党籠城候を廿日ニ落城被仰付ニ、其前ニ佐々殿へ筑後柳川殿御加兵ニても落城無之、従 秀吉様安国寺を被為下、有籐父子下城仕落去落着の上ニて、加藤・小西両殿ニ肥後国南北御分知ニ被成候処ニ、清正様御敵対ハいか様有籐一類の者共有籐ニ取籠申や、隈部・有籐ハ先書の通死罪ニ従秀吉被為仰付候、籠城仕を廿日ニ清正様落城被仰付と申事語伝も無之不分明ニ候、扨は有籐残敵有之候ハヽ討可申旨清正公へ依被仰出候ニ、余堂(党)御座候て籠城仕罷在候を御随ヘ被成候等と御座候ハん、五十年過候ヘハ実否紛事不分目(明か)成物と申伝候、実正にて候清正様御入部一百余手の事ニて尤ニ候、

一、清正様肥後をふさねて被遊御領ニて、折々御国中第一行長跡領ニ被仰付候、切支丹宗門御法度、日の本ハ神国ニて候間、神事・祭礼怠慢仕間敷候と、年々ニ御触れ被成候と申伝候、御尤と奉存候ハ、高麗にて清正様神秘不思儀日本神道を被成御見聞候と申伝候、

一、清正様ハ鬼神の様ニ奉申候と申せ共、御慈悲深き太守ニて被為成御座候殿様ニて、御百姓、御未進高捨石の御百姓、御未進三年二十石御座候ハ又三年ニ上納仕候ヘハ可被遊御免ニ、三年の内ニ御未進高捨石二十石壱升御座候ても被為誅候由申伝、

一、熊本新壱丁目御古城下の城(堀か)ニひだ(ざか)より上ニ立候てあがらさるやうにふミて、すね中だち有之様ニ水上にたなゆかを被仰付、其上ニハ両(雨)にぬれ不申様ニ小屋を御作らせ、是が水籠にて高御未進御百姓を霜月師走ニ其水籠ニ被成御入、三日被召
置御受を申上候ハ御出シ、三日御受を不申上候者ハ不被遊御免出籠不被仰付候つると申候、彼水籠ニ親子他類より酒・飯・菓子見廻ニ遣候ハ被遊御免候と被仰付候ニ付、何郡何村何某ハ何方へ罷在候哉と高声ニ申候て、さほニいわひ付ケ遣候を被下酒狂ニ申候ニハ、此堀ニ町人共を追除、家跡のこやし土をうづめ田を作り候ハヽ、余に出来過実有間敷ニ、いや/\竿を植候ハヽて丶(マ)わんをとのいも可有とて、仁人たかごへにおめき申候を御シノひ(忍)被聞召上、彼等共が土人故に如此の苦を受ると思ひ候ハ丶、町人目かもって居る銀米とハねかハひで、生れ付の業作をねかいをる不便かわゆく被思召上候間、籠入一日を二日、三日ニしてかへ/\と被仰出をり為申候、古老のもの共又咄し聞候、

一、秀吉様、北條氏政を可被成御亡とて関東へ被遊御出陳候、彼氏政ハ関八州の屋形様とあふき申たる由ニ候御剛侍ニて御座候を、被為入御年(手か)候て、加藤清正を其砌いかヽ被思召し候哉、御供不被仰候由ニ候、肥州半国御拝領の時分か、ふさねて被為拝領候砌の御事か不分明ニ候、右の通の処ニ従御跡可被成御出陣とて被成御立候へは、はや北條被為入御手ニ被遊御帰陣候ニ、尾張国にて秀吉様へ被遊御目見候、御祝詞被仰上候ヘハ、御機嫌宜御前ニて色々被仰出候、清正被仰上候ハ、上様の御生所天山可被難有旨被仰上候ヘハ、能こそ申上候と被仰出、其通ニ被仰付候と申伝候、清正公も御同国御同所の御生所ニて被成御座候故、御一家・御親類・御縁類衆、其外如雲霞の御来入ニ、金銀ハ一毛も不被進、わたをひき、つむきをおり、勝手ニなられ候事を御了簡被遊、金銀ハ不被遣、何やかやと城(減か)少可仕候、一人/\の御生齢ニ被応、一生中御所持ニてつむき御織り被成ル分のまわたを被進候て、御一人ニ付五百把八百千把とまわたを被進候と申候、

一、清正様御五十有余ニて被遊御逝去、追々肥後の国虎籐殿と申は忠広公御事ニて、従 将軍様被成御拝領候由申候、

一、清正様御シロ、茶臼山と申山を只今の御城ニ被遊御築キ候ニ、一城を御取被成候ニハ地鎮と申秘法、顕密伝燈権者位の智僧被成御執行の由ニ候、就夫(それについて)左様の僧都御国中ニ有無の御穿鑿(せんさく)被遊候ニ、益城甲佐三宮明神の社僧學頭豪淳法印神宮寺顕密伝燈大僧都と蒙(こうむる) 御勅許られ候間、法印御座候旨清正様被聞召通、彼法印ニ地鎮の法被為仰付候、先以豪淳御意の趣奉承知被申上候由ハ、老極仕御城建立の立法兵行不如意ニ御座候、一城一世の秘法ニて御座候を、愚僧中年迄執行不仕残念ニ存、此已(い、すでに、のみ)前愚僧が寺百姓ニ尾と申百姓めが屋敷仕立申ニ付、おのれニ秘法の地鎮令執行とらすへきと申候て、地鎮の法を修業いたしくれ申候、最早両度と令修行の儀ハ不罷成候、併愚老が弟子ニ合志郡弥語山ニ罷在候悟智と申法印、同学ニて右の秘法致伝授候、彼法印七十齢ニは過申間敷候、地鎮兵法の儀も罷成可申候間、彼法印ニ可被仰付候、若秘法の内ニ失念の事共ニ候ハヽ、愚僧改申候と被仰上候ヘハ、能社申上候とて彼悟智ニ被仰付候、然ハ悟智御請申上、甲佐空(宮か)豪漢(淳か)ニ入来候て新城地鎮の法被相改、御新城の地鎮秘法兵法の修行、悟智法印茶臼山ニ参上候執行の由ニ候、祖父参上仕右の秘法修業を拝見被致、老父ニ細々語伝の旨、亡父拙老若輩の砌被申聞候、右修行兵法と申事ハ法印なわのたすきをかけられ、白柄の長刀を四方八方ニつかひ、城の真中にてつかひおさめられ候由ニ候、祖父長刀の手も被存候の由ニ候得とも、難及悟智の手にて候と被申居候と亡父被語聞候、扨又右の法首尾後、御新城立地の正中ニて御酒を被成御祝候、其比桜井素丹と申連歌師、清正様被遊御信用候仁の由ニ候、彼そたんハ祝の狂歌を被差上候由、
きり/\と石ひきまはす茶臼山てきに加藤の城そとりけり
右の狂詠をぼでんの木の枝にゆひ付ケ被着(差か)上候ニ、清正様殊の外御機嫌よく、悟智(法)印ニ白銀百枚、素丹ニ同拾枚被為拝領候由ニ候、其脇そたんに祖父来椎の枝ニ貴詠を御付ケ候事ハ如何様の分ケにて候哉と相尋られ候ヘハ、御祝儀ニ彼木ニ結付ケ出の物にて候と申と、祖父亡父ニ被申候と亡父被申聞候、

一、別冊ニ書出候通ニ、清正様ハ四季ニ被遊御廻国、諸所被遊御覧ニ、西から東から北から南にかながれ候川の谷か有之所のものは必と横道ニ候、左様の川谷水をのミ候者は不実成者じゃと、左様成所ニては被仰御座候と申伝候、

一、豪漢一代ニ一度外新城地の秘法ハ修行いたさぬ事ニて御座候、愚僧か寺百姓尾薗と申百姓が屋敷壱ケ所修行仕故、老ごくと申右の通故ニハ新城の秘法罷成不申と被仰上候ニ、彼尾薗屋敷ニ秀吉様肥前国名護屋ニ高麗御陳の様子可被遊御貴聞とて御新城被為築候御砌、砥用山ニて御材木被為剪、大切の御大名衆様被遊御宿、肥後守様被遊御他界、御数人の御上使彼尾薗ニ被遊御入宿候、御当太守様御数度彼屋敷ニ彼遊光入被思儀奇妙と奉存候、豪漢僧都の一語と後年ニ存当り候、

加藤肥後守忠広公之御事
一、右ニ少シ書出候通ニ、清正公御五十有余ニて被成御逝去、御跡御帰易御座候、 従
家忠公様忠広え肥後国被拝領、国内上下万民千秋万歳と歓喜仕たる旨尤ニ候、

一、忠広公御若ニ被成御座、御家中下がちニ御成、加藤右馬允殿・同美作殿、此両家老中悪ク被成御成、右馬殿方・美作殿方と二ツにわれ家中令混乱候、右馬殿の方より美作殿方を牛方といひ、馬方牛方と申候て御家中正二ツニなられ、江戸ニも大取沙汰故ニ奉達上聞、右馬允・美作被召被遊御吟味、右馬允理分ニ被仰付、美作を初メ彼方がたの仁人それ/\に諸国へ御配流ニ彼仰付、無事ニ成候由ニ候、

一、公方様の忠広公ハ御姪婿御ニ被仰付、御国目出度歓喜仕候由ニ候、

一、然処ニ忠広公御廿有余の砌から、肥後国闇ニ候様ニごことなしにせハ/\敷、上々の御衆よくふかく御なり被成、山川をも是ハ何某殿の山、是ハ何某殿の川、此野ハ何某殿の開地抔(など)と申候て、下々百姓といきをつきかしけはて、女子売り在所を立去令亡、所々ニ乍下々有心に仁人、御家ハ長久御座候へかし、前に国代阿蘇惟種公御早世、已後下がちにて百姓せんかたなくいきほしをつき居候へは、従薩广出馬にて、肥后・薩广の下ニ両年相成候て大カタ半納無年貢ニテ、国内少々いきをつきなかし候などゝ申候者身(多)御座候由ニ候、

一、忠広公御在国の砌、急速ニ罷上候様ニとの 御上意ニて、早々被成御発足の処、
公方様の御前悪、出羽国へ御配流被仰付、加藤の御家御落去被成候、

一、寛永九壬申の年の六月、従 家光公様、右の通ニ被仰出、御落去ニて御座候、

一、御流罪被 仰付候ニ、被為差下候所役人へ、

一、御上使内藤左馬様・稲葉丹波守様

一、御奉行伊丹播广守様・秋本但馬守様

一、横目秋山修理様・石川三左衛門様

一、熊本御城番石川主殿様・石川惣十郎様
     中川内膳様・伊籐修理様

一、八代御城番秋月長門守様・嶋津右馬様
    稲葉民部少輔様・秋月右衛門様
    右の通の由ニ御座候、

 一、左候て寛永九年一年ハ天下様の御蔵納ニ御国ハ相成、追々光(忠)利公様被遊御入国候由ニ御座候、

 一、忠広公ちと御うわ気ニ被成御座候ニ付、江戸御大小名衆様達御見苦被思召をり、御前向御不宜被成御成候と其比申候由ニ候、

一、御仕置こま過候て、枝家てずし(手槌)・ごぜ・座頭・うたしやミせん、下々共聞候事不罷成、山河の御制止、色々作事下々迷惑かり申候処ニ、右の通御落去と申候、右越中守様被遊御入国候と其まゝ聞晴夜の明候様ニ御座候て、御国民なべて千秋万歳楽をうたひどめき申候、此旨趣前冊ニ書出候、

一、清正公、碧川塘筋御巡覧被成仰候ハ、此塘を根足弐拾間・高拾間・留拾間ニいたし候ヘハ、如何成洪水・山しほなど申候とも切レ申間敷候、しかし向ハ自然の巌崛高にて年々洪水抔(など)にて川内次第ニ深く成、一向田方用水のために成不申候、
  、かれ/\此川は浅く候ハでハ用ニハ立不申候、たとひ五、六十年ニハ塘切地方損候とも、年々出来の作毛ニ比ひかたく候間、わさと如此候と被仰候由語伝候、
 
阿蘇殿天正前三十年天正十四年比落去の砌ニて御家直参
侍仁人之事、大名・小名組荒増
矢部岩尾野城代、后御舟城代
甲斐大和守親宣       甲甲斐民部太輔親直入道宗運

甲斐相模守親秀入道宗立   村山丹後守     柏治部太輔

仁田水長門守        迫三河守      関上総守

野尻豊後守         西越前守      西加賀守

恵良筑後守         東遠江守      上嶋彦八郎

小陳刑部小輔        南左京太夫     犬飼備後守

黒仁田豊後守        北美濃守      甲斐将監

早川越前守吉秀       早川越前守秀家   早川丹波守秀貞

渡辺右衛門太夫吉久     渡辺軍兵衛吉次   甲斐相模守

甲斐能登守         甲斐志广守     甲斐無弼

田上右近          中山若狭守     西左衛門惟安

村山治部少輔        中山衛門尉     伊津野三河守

木山備前守惟久       万治丸八千左衛門  田代宗傳

甲斐正運          光永左衛門尉    南坂梨右衛門尉

北坂梨内蔵人        坂梨孫太郎     西源兵衛

甲斐右馬允         野尻忠左衛門    玉目丹波守

今村蔵之助         高森伊与守     北里加賀守

高森三河守         村山刑部少輔    市下山城守

竹崎与左衛門                二千石九郎左衛門  関右京太夫

長野蔵之助         野原権五郎     下田左京太夫

竹原甚五右衛門       豊福丹後守     篠原後藤次

小野武蔵守         大野天進      早桑良治部

小野屋丹後守        中村忠五郎     小倉美濃守

小嶋五郎三郎        野中出雲守     今村隼人

阿蘇品下野守        瀬田彦三郎     井田長門守

三宮近江守         横田阿波守     蔵原志广守

三河嶋弥八郎        野中出雲守     湯浦九郎三郎

井旦僧景          北里将監      小境板景

久家百熊丸         佐々原後藤兵衛   串野玄番允

目丸遠江守         草壁左衛門         菅原弾正忠

以下略

甲斐宗運内
  甲斐伊勢守    同武蔵守   下山勘解由左衛門
  栗林伊賀入道   緒方喜蔵
  井芹加賀守    同氏河内守

早川越前守内     佐渡大学   同能登守
                      同修理

林山家人       堪渕甚喜   同大和   鹿ノ末安芸守

甲斐右馬允守昌内   甲斐帯刀   同運天   北之里内
           北之里与三兵衛

伊津野内       江原雲晴   伊津野四郎右衛門
右の又内御陳中ニ度々阿蘇殿の御用ニ罷立候故、御目見へ御礼直の衆同前ニ申上候也、
右書出に仁人ハ阿その御家の侍達ニて候、
阿蘇の神主惟種公、益城郡矢部の御所え被遊御在館御善世の砌ハ、遠近を不論毎月朔日、十五日の御礼ニ矢部ニ相勤をり申候、旨申伝候、矢部へ被遊御在城の分ケは書出べく候、

    中古以来あその大宮司惟種公迄益城郡の中矢部ニ被遊御在館候ニ付色々之事
一、益城郡の内矢部犬飼村ニ有之候古城を愛専(籐か)寺の城と申候、彼城ハあそ神主殿前々御築被成候由ニ候、天正中ツ比国中一同ニ令落去、其比は犬飼備前守と申仁阿そ殿の御家臣ニて御城代仕居被申候の由、かたり伝候、
一、同町頭ニ有之候古城は岩尾の城と申候、此城も前々あそ殿御座被成候御城の由ニ候、此城も落去ハ右同前ニて候、あそ神主公ハ右書出候通あそ明神の御神孫にて被成御座候、神書ニも肥後国を最初ハあその国と申候て有之候由承り、就夫あその明神を国造の明神共奉申候由申語伝候、然は神主殿御善世天正中ツ比迄は、彼岩尾の城番を黒仁田豊後守と申に被相勤居候由申候、其前廉ハ甲斐大和守新(親)宣(宗運)と申御家老御城番被致の由ニ候、黒仁田氏分ケ候て滅亡被致候、其跡は阿そ家の御家老中替ル/\被相勤候由ニて、彼岩尾の御城は御要心ニ能城と御座候て、従阿蘇被成御座候て中古より天正のとしうち迄、惟種公彼御地へ被成御座候、夫故ニ御家老衆替ル/\に御城番被勤候て、神主公は彼御城辺ニ御陳の内とも浜の御所・浜の御屋形共申候所に被遊御在館候て被成御座候、彼御城の近所に浜と申村も有之候、然共御陣の内ハ其村の内ニては無之候得共、矢部は海辺遠里ニて浜と申事矢部ニては珍言故、御座候処を右の通ニ申候由御座候、浜の町なとゝ申来候事も左様の由緒と語伝候、如此伝益城にも然々無之候と見へ申候、惟種公迄右の通ニ彼処に被遊御在館被成御早世、其儘其砌令乱国候ゆへ彼城も天正中ツ比致落去候、彼城ニハ右の通ニ御城番被相勤居候て神主公を守護被申候由ニて、浜の御前神主殿被遊御安住、岩尾の城ハ右の通ニ御座候へつると、乍恐たゞ今御花畑に通ニて御座候半と奉存候、右の城の落去致候て、加藤主計頭清正公・小西摂津守行長へ南北半国づゝ、従秀吉公様御拝領被成候ニ付、矢部ハ小西行長領分被成候由、然は右の愛東(籐)・岩尾両城番ニ、従行長結城弥平次・大田市兵衛と申侍頭両人ニ与力の侍被差添被遣置候、岩尾城は平人罷出候事不相成候てさたなしニ、其砌各愛東寺迄ニ被罷在候由語伝候、右の備頭両人共ニ二千石取ニて候、右の通与力衆も手ニ付御城番被召候由ニ候、与力の侍衆ハ、五百石土橋掃部・三百石平地源右衛門・三百石石嶋沢市右衛門・三百石中小路三衛門・三百石速水七左衛門・同後藤三五兵衛・同田部平右衛門・同横田勘衛門・同加々山次郎衛門・同岡平衛門・同天木庄太夫・同小野田弥右衛門・同吉田木右門
此通ニ城番の由ニ候、然ハ小西氏滅亡以後従 
家康公様、清正公え肥後国をふさねて被為拝領候砌、右両人の侍頭を清正公被成御抱候て、城番頭ハ被成御替別条ニ被召仕候て、城番ニハ長尾豊前守・加藤万兵衛と申御侍頭、何れも知行三千石取に彼番頭被遣候て、与力衆も同前ニ被成御抱候、与力衆ハやつパ前々の通ニ被成御付置候、然共その以後古城々被成御立候事、従天下様御禁制と被仰出、古城々山野、或山畠と成果候、清正公・行長へ肥後被為拝領候事、清正公の一国ふさねて従 家康公様拝領の分ケ後筆ニ可書出候、

一、阿蘇の神主公ハ右ニ書出候通ニ御神孫ニて、殊更前々ハ御大名にて、乍其上高位高官の御家ニて御座候、右ニ書出ハ前々の御領知を当分石積ニ致候ハヽ三、四十万石も可御座候、然は神主殿御代々付ニ御座候、惟種公ニ其砌の帝従 後奈良院様、御内裡ニ御修理を被成御勤候て被成御献上候様ニとの就 御勅定、右の通の領内を被成御勧進、金子ニ御ふさね被成候て、其比迄ハ海陸共ニ人心不可然候ゆえ、矢部ニ当分まても有来候天台寺・福王寺申候、彼福王寺其砌の住持法印ニ被成御持せ御献上被成候て被御調上候、以の外被遊御叡感、烏丸どのを 勅使ニ矢部浜の御所へ被為差下、惟豊公ニ悉クも従 後奈良院様 御勅筆被為御頂戴、惟豊公矢部ニ乍御座有従二位の御位階被遊 御勅定候、綸旨・口宣、其外御公家衆より被為進候御書、愚老此前御病用ニ被召阿蘇友隆候様へ伺公仕候砌、被成御免身を浄メ頂戴仕候て奉薫誦冥加の至、天山難有奉存候、ケ様の御事はあそ家頼の末孫/\ニ有之儀ニてハ無之候、大形ニ被致間敷候、愚老儀は曾祖父渡辺奥ニ書出候通ニ、永禄八乙丑年三月十二日ニ、熊の庄舞の原ニてあそ殿御用戦合ニ被致討死、家伝子同氏軍兵衛愚老か祖父、相良義陽の侍頭豊永籐次を討取、阿蘇怨敵の井芹大将かゞの守を討取、此後筆ニ可書出候通ニ、惟光・惟善公御両殿の御母上様ニ付廻り御奉公を勤、佐々成政公へ肥後国侍一揆を起したる砌も、名誉なるのちづめ各同前ニ致シ助城仕被申候事、是皆神主公ニ被奉伺たる事共候、ケ様の自然の道理にて被上候、軍兵衛吉次の伝子愚老か実父渡辺吉政入道号休巴、右先祖以来神主とのへ年々当年迄も年始の御祝儀闕シ不申候、左様の分にて神主殿御一家の中にも不被成御免拝、御宝物を御拝せ被成候、前々御旧例とは乍申、友隆公両度拙宅へ被遊御出候も、古今怠慢不致右の通故ニて御座候間、此旨を被相守候て、愚老無ク成候迚(とて)も年ニ一度づゝは阿そ殿へ御礼可被相勤候、軍兵衛吉次忠節の段々後筆ニ可細書出候、扨又右の御宝物迄ニ限不申、一同ニ被成御見候色々有増書出候ニ、如此の御宝物奉拝候事ハ天和元年辛酉二月十一日ニ奉拝候、此段は珍事ゆへ書出候、

一、忝も 御奈良院様の御勅筆・御綸旨(りんじ)・口宣

一、右同前に従御家衆神主殿え被為進候御書

一、あそ神主様の御由来の御文字色々

一、神主殿ハ阿そ明神の御神孫慥成御由来の書立

一、阿蘇の御社家衆の由来書

一、神主どの御代々御頂戴被遊候綸旨・口宣、百ニ及奉拝候

一、正平の年中ニ薩广の国主をあ蘇殿え被遊御勅許候との御綸旨

一、阿蘇山衆従大宮司諸下知相守候へとの綸旨

一、同衆徒中より大宮司の御下知背申間敷との連はん書物

一、阿そ四ケ社の神事無怠慢大宮司勤候へとの綸旨

一、大宮司ニ九州を引卒し鎌倉へ責上り逆徒を可令追罰候との綸旨

一、高氏・直義逆心を構候間不日ニ責上追罰候へとの御綸旨

一、頼朝公より被進候御書

一、北条殿御代々より被進候御書

一、新田左中将の御書并絹の切レニ御書被成被進候御手紙の御書

一、直冬公より被進候御書

一、今河了俊公より被進候御状

一、筑紫少弐より被進候御状

一、大友殿より被進候御状

一、薩广嶋津とのより阿蘇宮へ御願書

一、あ蘇ニ可被成一味との相良殿の書物阿そ宮ニ被納候書物

一、下野の御狩の御絵図

右の御数々奉拝候、此外色々御宝物・馬ノ角なとをも見申候、為後覚書出候、一、惟種公ハ当友隆公の御曾祖父ニて御座候通り、天正中ツ比迄は岩尾御城・浜の御所へ被成御座成候、然は惟種公ノ御舎弟を惟前公と申候、彼惟前公ニ先々御親父従惟将公御神主職を被成御譲候、然れ共御乱心ニ被為成候故ニ、御舎弟惟種公へ御神主ごゆづらせ被成候て、惟前へは砥用・中山・甲佐、在々ニて過分の御知行被進、甲佐伊津野居城松の尾の上、当分迄も御陳の内と申所の三、四丁四方も可有之平地一面の所、当分迄も大堀有之候処被成御殿作御安座御館被成候、甲斐宗運取持被申候て御兄弟の御中、めて度様ニ道の道を諌言被申上居候故、矢部・甲佐目出度御両殿えあ蘇御家人群集致、無事ニめ出度相通り申候由ニ付、然弟惟種公ニ若君御両人御誕生、御嫡子を惟光公、御次男を惟善公と申候、

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