【早川城】

~戦国時代記録残す渡邊一族 矢部(阿蘇)大宮司の忠臣~
現在は、上益城郡甲佐町に属している早川(ソウカワ)の、城山と呼ばれている小高い山に城を築き、本拠としていたのが、渡邊一族である。
先祖は、丹波の大江山で、酒呑童子(シュテンドウシ)を退治したので有名な、源頼光配下で四天王のひとりと呼ばれた渡邊綱(ワタナベノツナ)と伝えられている。
一族は初め、矢部(上益城郡)の菅の囲(カコイ)の城というのを築いていたが、のち、甲佐に移り、早川に築城したものという。土地の名をとって、早川氏とも称した。
先祖のなかには、肥後在住時代の鎮西八郎為朝に仕えて、保元の乱の戦いに參戦した勇士もいたという。
戦国時代になると、渡邊一族は、御船の甲斐宗運と一諸に、矢部の阿蘇大宮司の家臣として、相良氏や、矢部大宮司と対立していた堅志田の阿蘇大宮司惟前(コレサキ)の軍勢と、たびたび戦いを交えている。
一族の戦いの歴史のうち、有名なものに、天正八年(1580)の、隈庄合戦がある。
ことの起こりは、隈庄城主の甲斐守昌が、島津氏と手を結んで、大友氏配下の矢部大宮司の反旗を翻したためであった。
隈庄は、古代から、交通の重要地点で、ここを島津方に押えられると、大友方の矢部勢は、行動が不自由になる。また、守昌は、矢部(阿蘇)大宮司家の侍大將、甲斐宗運の娘の夫であり、甲斐一族のなかに、矢部(阿蘇)大宮司ひいては、大友氏に敵対するものが出てきたとあっては、肥後のほかの豪族たちにも動揺を与えることになってしまうため、矢部大宮司としては、早く守昌を討ち滅ぼしてしまう必要があった。
たびたび、激しく、攻めたてたが、周囲を深田に囲まれた城は、難攻不落で、また、島津方の宇土の伯耆顕孝(ホウキ アキタカ)も、援軍を送って守昌を助けたので、城は、なかなか落ちなかった。生涯、一度も、負けを知らなかった宗運も、もっとも困難な戦いだったと、のちに述べている。
矢部方の部将として出陣した渡邊吉久(休雲)は、宇土の將と差しちがえて戦死した。
天正十三年(1585)秋、島津勢が、早川城に押し寄せると、大軍には敵すべくもなく、一族は城を開いて落ち延び、各所に身を隠して、時節のくるのを待った。この時、浜の館から、まだ幼少(惟光公・惟善公)の矢部大宮司を連れ出して、山中深く、身を隠させ、無事に生きのびさせたのは、渡邊吉次(軍兵衛)であった。
吉次は、島津の追手と戦って戦死している。
今日、城下にある西福寺は、この吉次の兄が、のちに、建立したものと伝えられている。
吉次の孫にあたる、渡邊玄察や、一族の人々が、書きしるした、「拾集昔語」や「玄察日記」などの文書は、肥後の戦国時代の出来事を知るのに手がかりとなる貴重な資料として、「肥後文献叢書」にも、載せられていて、今日も大切にされている

早川城:熊本バス馬見原線早川下車、徒歩五分

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