【渡邊軍兵衛・玄察・寛太他】

【くまもと地名あらかると】 早川   
上益城郡甲佐町早川
肥後の司馬遷、渡辺玄察
熊本市から国道443号線で御船町を通過し、トンネルを抜けるとそこが甲佐町早川である。背後に早川山(195㍍)があり、水田地帯に岬のように突き出た所を城山と呼んでいる。加藤清正の緑川改修以前は、緑川はこの真下を流れていたとされ、交通の要衝であるとともに守るに易く攻めるに難い場所であり、鎌倉時代に渡辺秀村がここに早川城を築いた。
天正8年(1580)、早川城主の渡辺吉秀は、御船城主の甲斐宗運に従って隈庄合戦に参加し、舞の原で戦死した。
江戸時代の初め、吉秀の曾孫に渡辺玄察という早川神社の神職がいた。彼は身辺雑記のみならず、政治、経済、世情、天変地異など多くの記録を残した。また、父などから聞いた戦国末期の肥後の状況など詳しく記録していて、江戸初期の肥後の様子を知ることができる一級資料として非常に貴重である。
江戸時代、早川は裕福な村として近隣に知られていたらしく、古文書には裕福の度合いを早川と比較しているのが散見される。
早川の地名の起こりは、緑川の急流によると言われているが、通常は流れの速い川は、ハヤカワといって(反対は淀川)、ソウガワとは言わない。ソウガワの地名は緑川支流の竜野川沿いに「上早川」として続いており、緑川の「大川」に対して、サワガワ(沢川)が転化したものであると考える。


【為朝伝説】
この「おとぼなまず」の話は、甲佐に伝わる通常の民話(例えばウサヒコさんの笑い話や飯田山の地名説話など)と違い、何かいわくありげでおどろおどろしており、古来多くの人の関心を引いてきた。
例えば江戸時代の初期、早川に住んでいた早川神社の神職渡辺玄察は次のように考察している。
昔、山出大武明神社の上にある白旗山には鎮西八郎為朝が在城していた。後に為朝は都に召されて再び帰って来なかった。留守居を守っていた御内室(奥方)は「悲嘆止むことなく、昔を偲びつつ遂に詮方なく渕に身を沈め給う」として、その渕を往時の緑川筋のヒナイ神付近に比定している。そして「山出城下の者共はいたわしく思い、その七月彼の渕に至り鉦太鼓を鳴らして念仏踊りをなし、源氏の白旗とて白布を竿頭につるし笹踊りをなして亡霊を弔慰せり。その後、例となり盆毎に山出村よりヒナイ神に詣で踊りをなすにあらずや」としている
 この考察は
 ①江戸時代初期には既に辺場・古閑・八丁・山出の村人が緑川対岸のヒナイ神付近で念仏踊り(鎌倉時代、一遍上人らによって始められた踊り、念仏を唱え鉦・太鼓を打ち鳴らし踊る)をしていた。
②為朝伝説と笹踊り(神事舞の一つで笹を手に持って踊る)とを結びつけて推察している。
③ナマズが出てこない
このように、民話「おとぼなまず」は為朝伝説を背景にしているのであろうか。
 それを考察する前に、今では聞きなれない曰くありげな「オトボ」とは何だろうか、また「ヒナイ」とは何だろうか。

おとぼ
甲佐だけではないが一般に語尾の「ウ」は省略される傾向にある。例えば「牛蒡(ごぼう)」をゴボ、「吝嗇坊(けちんぼう)」をケチンボという類である。オトボとはオトボウであることに異論はなかろう。
そうすると、山がオト女山であり池がオト坊であって一対をなしており、緑川を夜な夜な渡って山出にきたのは対岸の男であるという話になるが、これには難点がある。
それはオトボウの伝説は全国に散らばっているからである。
①前橋市の清水川にはオトボウナマズという主が住んでおり、「オトボウ、オトボウ」と言いながら釣り人を追いかけてくるという。
②オトボウ池 群馬県天川大島町のオトボウ池は野中清水といって清水が湧いていた池であった。この池には大きな鯰がいた。ある人が鯰を捕ってザマの中に入れてきたら、その鯰が「オトボウ、オトボウ」と呼んだという。その人はあとで病気になった。
③おとぼ沼 昔、群馬県西片貝町に「おとぼ」と呼ぶ越後の毒消し売りが、この沼に生き埋めにされたという。沼の渕で「おとぼやーい」と呼ぶと、かすかに「おーい」と答えるといわれている。
④ 静岡県の天竜川上流の水窪町に「オトボウ渕」というのがあるが、その由来は「ある金持男が、渕の縁に住んでいた親交のある男に、タブーとされている蓼(たで)汁を飲ませたら、男はもがきながら渕へ転がり落ちてしまった。今まで人間の姿をしていた男は赤い腹をした魚になって、しきりに「おとぼう、おとぼう」と連呼しながら川を流さて行った。
⑤ 熊本県甲佐町坂谷の人がウナギを獲って夜道を帰っていると谷川の渕から「オトボウ、ぬしは何処へ行きよっとかい」と声がした。するとカゴのうなぎが「おれは今夜切り刻まれて殺されるたい」と答えた。それを聞いた坂谷の人は怖くなってウナギを渕に投げ捨てて逃げかえった。
以上、五例をあげたが共通することは
①オトボウは川や沼と関係している。
②おどろおどろしている話である。
それにしてもオトボウとは何であろうか。
柳田國男は「物言う魚」で
岡山県吉野村の釣った鯰が物を言う「まつぼう渕」の例を挙げ「魚には○○坊」という子どもみたいな名を持つ者もあった」と述べている。
上記④の静岡県の天竜川上流の水窪町あたりでは「オトボウ」というのは「父」という事であり、死にかけに父の名を呼んだのではないか(「民族」三巻五号 早川幸太郎)と記している。
 「オト(乙)」は古語でオトゴ(末子)の意味があり、実際「阿蘇湯浦平成風土記」(高本高綱)によると「オトゴ 最後に生まれた子・末子」として、現在も使われている。
 また、「肥後の昔話」には矢部の川内に伝わる民話として上記⑤(坂谷)に類似した話があり「川底から『おおい、どけ行きよっとかー』って、おめきよる。うなぎの名前を言って」とある。この話にはオトボウという言葉は出ていないが「うなぎの名前」とは坂谷の話に出てくるオトボウという事であろう。 
以上の事から考えて、オトボは乙女とは関係なく人格を持った鯰につけられた名前という事になろう。

ヒナイ
つぎにヒナイ神である。これも字義不詳であるが、ヒナイはヒナ・イであろう。ヒナはひなた(日向)の意で用いられ、日向田・日南・朝比奈などと表記される。
 イは中世では井手(用水)の意に用いられる事が多い。
上益城郡誌によるとヒナイ神を「船井神」としている。
フナイは一般にはフナ・イであろう。フナは船の形をしている意で、船山・船窪などと用いる。
前記「拾集昔語」には「ヒナイ神という故事は「ヒナ人のカミ池」と言えるにはあらずや」としている。鄙(ヒナ・いなか)人が崇拝する神がおわします池という意味であろうか。しかしこれは当たらない。都からみれば鄙人かもしれないが、村人が自ら自分を鄙人として、その神を鄙人神というはずがない。

【いつごろの話か】
この民話は「肥後の民話と伝説」(熊本史談会)・「肥後の伝説」(牛島盛光)・「熊本の昔話」(大塚正文)や「甲佐の民話」(甲佐町教育委員会)などに掲載されているが、大事な事を書き落としている。
それは冒頭のあらすじの③④⑤⑥の部分の欠落である。
つまり、地元に伝えられている古い話では「妖怪と思われた」から殺されたのであって、「娘の所に夜な夜な通ってくる」から殺されたのではない。
手懸りはそこにある。
というのは、この話は「婿入り婚」が容認されていた時代の話である。古代は夫が妻の家に通うのが一般的であり、妻が夫の家に嫁入りする「嫁入り婚」が普通になったのは室町時代からである。そうすると移行期も含めてこの話は平安から室町時代の頃の話ということになるのではないか。
もうひとつ手掛かりがある。それは何故わざわざ対岸まで出かけたかという事である。

【甲佐町文化協会長として伝えたいことは】
 甲佐の子ども達に「郷土を愛しなさい」という前に、大人が先ず郷土を愛し祖先に尊敬の念を持つことが必要です。
例えば緑川水運を開いた渡辺寛太の碑は倒れたままになっています。これをそのままにしておいて子ども達に「郷土を愛しなさい、緑川を愛護しなさい」とは、とても言えないでしょう。
先人の苦労を知ることが郷土愛につながると思います
(「広報甲佐」18 June 2003)

【渡邊寛太について】   甲佐町 (墓誌銘を以て傳記に代ふ)
櫻間知幾一日來告曰文政十一年(1828年)六月五日舅氏渡邊寛太終末銘其墓請假吾子辞因示其状余於寛太也固爲舊知不能爲契然忘固陋諾之寛太名宰渡邊其姓也甲佐祀松丸右衛門太輔吉久五世之孫曰市左衛門諱正寛太長子也母堤氏以寶暦十二年(1762年)四月二十四日誕市左衛門爲郡横目時徂徠翁之名籍々於天下市左衛門心竊慕之曰人不可以學也寛太甫十歳受句讀於奥田某及成童也從齋藤芝山講尚書弱冠學也我先人入爲黌生與山公幹本田某友善頗有經済之志甞曰今之詩浮華少實文章者經國大業不朽盛事不可不學也其出黌而歸也請書於渓草先生以無隱二字扇其居平生之所爲欲無隱千人與人謀而欲然隱而必儘寛政八年(1796年)大水堤防多壊爲副堤防吏九年爲水門吏其館舎在上島之堤内数有水患移之犬塚之南然後水溢得無患先是水門破壊則必往察之計其村材木費用經数日修之是以潅漑失時郷民患之於是與其属徒謀之記爲一巻開巻則郡中之水門如身至目視是以修之速而潅漑得使文化元年爲郡横目水門吏如故二年承班禄如父文化四年(1807年)除険浚河以便運漕事詳甲佐祀前之碑今不贅文政八年(1825年)病辞職十二年致仕無幾而終享行六十七其得痱(ひ、はい)也凡七年不敢易醫知病痱者不能復起也服勤三十三年凡三進班七賜金五賜衣服四賜褒辞是褒其浚川救窮修堰務武伎之勞也其爲人強而朴常三復詩之剛亦不吐柔亦不茹之句芝山甞語三浦生曰寛太武夫也言訥能事守信不違一芥之徹不肯妄費而救困窮惠鰥寡則施則不吝雖人或曰嗇吾不信也好刀剣多藏之千家又藏書数百部不吝借人千人好武伎善射騎剣法軍禮亦皆有師射騎老而不衰能誘同前芝山與犬射於河汭(ぜい)也從而學之甲佐祀有流鏑馬事與其事用鎌倉之古禮居恒曰吾不欲受阿諛之謗足不屬權貴之門雖舊知識不欲忘通書問其介蓋此類也配野尻氏生四男二女男長明次持承嗣次元爲伯父清之嗣次貞女長早夭次適娚正直銘曰
   弱而志學 清苦能勵 壯而講武 至老不懈 修堰治防 河流無害
   除険浚水 船運不滯 履言出信 救窮之惠 人服民説 維倚維賴
   名在口碑 石亦千歳 
    天保三年(1832年)壬申春三月望日  國學助教  大 城 允 撰


【 映画「西住戦車長」】
――― 何とも不思議な映画 ―――
ある時期、「甲佐」の地名が「西住戦車長」とともに全国に知れ渡ったことがある。週末ともなると、甲佐駅から降りた人並みが延々と仁田子まで続き、出店が立ち並んだという。
 考えてみると肥後熊本の人物で劇場商業映画の主人公となったのは、宮本武蔵と西住小次郎だけであろう。
西住小次郎は昭和十三年五月、徐州作戦の途中で戦死した。二十五歳の青年の平凡な死はそのままで終わるところであったが、同年十二月になって突然「軍神」として発表され、「昭和の軍神第一号」として世の賞賛を集めるところとなった。
軍神になった理由として、作家の司馬遼太郎は「日中戦争を拡大するために」「日本にも戦車があるぞ、という事を内外に宣伝する必要があった」と述べている。
さて、翌年になり菊池寛は「西住戦車長伝」を書き、それにもとづいて昭和十五年に松竹映画「西住戦車長伝」が作成された。上原謙が主演するこの映画は、この年の選考で二位となり、興行的には首位になった。
それから六十七年の歳月を経た今年の六月十日に町の生涯学習センターで文化協会主催で上映され、六百名の会員が鑑賞した。
この映画や西住戦車長に対する想いは人それぞれであろう。
以下は映画そのものに対する私の個人的な感想である。
なにしろ作られたのが太平洋戦争の前年であり、国家総動員法のもと、陸軍省の援助で戦車や弾薬が惜しげもなく使われれば、敵愾心をあおる戦意高揚の国策映画であろうと誰でも思うであろう。
事実私もそのような戦争映画だと思っていた。西住戦車長が敵弾にあたり「天皇陛下万歳」といって、にっこり笑って死ぬ場面を想像していた。
しかしインターネットをみていたら「あれは日本版『西部戦線異状なし』だ」という感想が出ていた。
もし主人公が無名の青年で前後のナレーションがなかったら、そういう反戦映画としての評価も出てくるであろう。
なにしろ重傷を負ってから死ぬまでがやたらと長く、夜の野戦病院に負傷者が続々と運び込まれ敵弾が破裂する轟音で何と言っている聞こえないなかで死んでいくのである。
暗澹たる気持ちになり、とても敵愾心など起こりようもない。
非戦映画とまでは言わないが、少なくとも勇敢さを誇示してヒロイズムを煽る戦争映画ではない。
私はそこに治安維持法のもとであっても出来る限りの抵抗を試みた文化人の心意気を見る。
菊池寛は同名の脚本を書き、それは東京劇場で上演されたが、場面は戦死した兄の事を思う弟の手紙の場面と、死んだ中国人の嬰児を弔う二場面であった。
松竹の城戸四郎社長しかり、脚本の野田高梧、監督の吉村公三郎もそれぞれの立場で良

【騒動の底流】
死罪をも覚悟して村役人を訴えたのは何故か。ここにいくつかの手がかりがある。
この頃、隣村の早川厳島神社に渡辺玄察という社司がいた。祖父は渡辺軍兵衛といって戦国時代に活躍した武将である。玄察は身辺の事象について詳細な記録を残している。しかし彼が五十一歳の時に起きたこの事件に関しては誠にそっけない。「糸田村庄屋百姓口舌事申出、公儀より御穿鑿あそばされ庄屋百姓五人御誅罰」とあるあけで何らかの作為が感じられる。

玄察に関したもう一つある。下早川の孫左衛門は、この事件のとき惣庄屋の手代(手永会所(今の役場)の助役にあたる)をしており、惣庄屋側のすべてを取り仕切っていた。それがふとした事で玄察と仲違いになった。玄察が中村庄兵衛(細川家の家臣。下早川は中村氏の知行地)に申し出た事により、筑後国に追放になってしまった。
あと一つある。
この事件と前後して起きた糸田の植木神社の宣明(神主)をめぐって起きたトラブルである。
まず御神体の胸に何者かが釘を打ち付けるという事件が起きた。そして宣明役を勤めていた津志田八幡宮の中村兵部の祭祀の仕方について玄察方からクレームがつき、交代させられるという事態となった。その後、村祭りは古庄屋側の公事方三十一人(死罪になった五人も含む)と、公事に加わらなかった庄屋方三十六人とに分かれて執り行われるようになった。
これらの事から考えると、戦国時代まで早川城主としてこの地に勢力を誇っていた渡辺氏は、当然のことながら目と鼻の先にある糸田は自領だと思っていた。その場所へ佐々・加藤・細川と目まぐるしく変わる御時世に主君を失った人々が移住を始める。糸田には加藤以後、堤防も作られ新田も増加して「村」が形成されていく。あまつさえ洪水で流れ着いた御神体を氏神として祀り、こともあろうに早川神社の真正面から数丁先に境内を造って木を植えて植木神社と称し、宣明は川向こうの津志田八幡宮から呼んでくる。
これらの事に対して、渡辺氏と古庄屋側が手を組んで、惣庄屋・庄屋側と抗争したのが、この事件の底流にあったと考える。

(刑場の「さし札」の写し)(永青文庫蔵)
斬罪人①
 益城郡糸田村庄屋 
     猪右衛門②
此もの隠田をいたす
久左衛門③
傳右衛門④
善兵衛⑤
権右衛門⑥
平左衛門⑦
此の五人庄屋に無実を
申かけ剰(あまつさえ)隠田をいたす
 益城郡有安村
     久左衛門⑧
此のもの令追放候処に
立帰
右依罪科如此申付者也
 天和三年三月二十九日⑨
① 胴切りにした。胴は「望帳」に付け置いた者の中からクジで決め、刀で試切りにした。この日は胴の数が多く「スタリ申シタ」
② 伊左衛門。庄鶴(糸田村が成立する以前の地名の一つ)の名主緒方監物の孫にあたる。なおこの事件を記した「古今集覧」の著者弥右衛門は伊左衛門の孫にあたる。
③と⑦は兄弟で、古庄屋の子。公事の中心人物
④と⑥は兄弟で公事の頭取
⑤兄の清左衛門は公事の頭取であったが逃亡したので善兵衛が身代わりになって誅罰された
⑧惣庄屋と孫兵衛の公事のとき、証人となり追放されたが立ち帰っていた。
 (参考「誅罰帳」(永青文庫蔵)・「古今集覧」(緒方昭二氏蔵)「渡辺玄察日記」(熊本県立図書館蔵)
    
【清正公に米15kg?】
いつの事かはっきりしないが、甲佐が加藤清正の領国になってから鵜の瀬堰ができるまでの間と思われるから、多分慶長10年の前後だと思われる。
「甲佐の文化財第二集」に次の記述がある。「(早川井手は完成した)翌年、(加藤清正)が巡検の時、軍兵衛は開田地から穫れた米百合(今の15K)を家来喜六に担がせてその途上で献上しました」
これは「甲佐町史」の「(巡視にきた加藤清正に対して)軍兵衛は開田地から穫れた米百合を下人喜六にかつがせて、その途上で献上しました」からの引用だと思われる。
 軍兵衛とは早川神社の社司職である渡邊軍兵衛である。当時は牢浪の身であるが、かつてはは肥後の有力な国人の一人として勢力を誇っていた。
この前年、矢部より間谷を越えて甲佐にやってきた清正に対して軍兵衛は次の進言をした
早川の前にある耕地は水懸かりが悪く畑になっている。そこへ湯田・鬼丸・立岩・内田の谷水を集め、浅井を掘り割って井手を作り、四堂崎で上早川・宮の尾・目野谷の水を受け込んで早川の前の畑地に注げば立派な水田になるであろう」
 この我田引水は浅井の住民にとっては迷惑な話である。しかし開田に力を注いでいる清正は、反対する名主に対して「背中を割り、塩をつけてくれようぞ」と怒ったので、名主は逃げ去ったとある。
(浅井の住民の反対は当然で、このために後年、付近の住民は洪水に苦しむ事になる)
竜野川は天井川になっており、井手と川が交わる所は洪水の度に壊れ、その都度「底井樋」にしたり(川底をくぐらせる、現在がそうなっている)、筧(かけい、川の上を樋で横切る)にしたり色々工面しているが、「下横田・小鶴までも田に水がつかえ、四堂崎は横水が打通し」住民は難儀するようになる。
この井手は程なく完成し、早川の前の畑は水田になった。
翌年清正が早川を巡検したとき、軍兵衛は新田から穫れた米を清正に献上した。それが右の「甲佐町史」の記述である。 
それにしても「米百合」とは奇妙な書き方である。
ところで、このことに関しては軍兵衛の孫にあたる渡邊玄察が「拾集物語」として書いている。それにはこうある。


(右の井手首尾いたし候秋御廻国遊ばされ畠成田の籾にて平米を拵え喜六という小者に平米をゆりというわげ物にいれ担がせ前川向こうの大道に罷り出)
「畠成田」とは畠だった土地を水田にした耕地、「平米」は焼米のことで、もともとは未熟な青米を焼いてつぶして祝い事に用いた。矢部では今でも土産物として売っている。「ゆり」とは竹で編んだ楕円形の曲げ物の容器の事で、籾などをゆすって選別したので、この名がある。「わげ物」は杉やひのきを薄くして折り曲げて作った容器である。
甲佐町史の記述と殆ど同じであるが、献上した米がどれだけだったかは書いてない。
とすれば、このことについては別の史料が存在することになる。そこで「甲佐町史」が根拠とした古文書を探していたが、途中で次の事に気がついた。
拾集物語」のこの部分は「肥後国志略」の一部として出ているが、それには次のようになっている。
 翌秋また巡検の眨(そう)軍兵衛百合に平米を盛りて下人喜六に担がせ即ち途中にて清正侯に献上す。乃ち馬上にてこの平米を祝はれ末々迄これを賜り
 さすれば、もともと穀物を入れる「ゆり」が翻刻の段階で「百合」となり、町史に編修するとき「ひゃくごう=1斗=15㎏」とされたのではないか、これが私の推論である。
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