【早川の在地領主と村落】

中世の健軍・甲佐社領一帯に成長した在地領主の連合体である裳衆の一大拠点であったと考えられるのが、早川地区である。
早川は、戦国期の阿蘇大宮司の本拠地・矢部から山間の道を経て現在の御船町水越に出て、甲佐町六谷から緑川におりてきた地点である。このル-トは、矢部から緑川中流域に出るための最短コ-スであり、川向かいの堅志田に拠点を有した阿蘇惟前やそれを支援する相良氏とは、緑川を挟んで対峙する軍事上の最前線でもあった。

六谷から早川におりた箇所に存在する「知行」の地名や、城平にある城跡(南早川城跡)は、早川における戦国期の阿蘇氏勢力の拠点となった、知行地と城郭の存在を示すものである。知行地とは、在地領主制を基礎とした権力編成(主従制)の基礎となる、主君が従者(家臣)に宛行う所領のことを指す。
早川の円福寺跡の阿弥陀堂に納められている阿弥陀如来木造の背面にある次の墨書は、十六世紀前期に早川を苗字の地とした在地領主(武士)の存在を示す、貴重な史料である。

彩奉進
承陽山円福寺住持比岳者忠能公座元帥
大日本國西海道肥後州益城郡甘木庄早川村
大檀那藤原朝臣早河式部少輔政秀公
 如来     出雲守
千時永正十(酉癸 )季九月願主等敬白

これによれば、永正十年(1513)の早川の地には円福寺という寺院があって、その「大檀那」として「早河式部少輔政秀」という藤原姓の武士領主が存在していたことが明らかである。この早川氏こそが、御船城の甲斐氏らとともに相良や堅志田(阿蘇惟前)との対決の最前線に立った裳衆の主要構成員であったことは間違いない。そして早川氏は早川神社神主をつとめ、近世初期に「拾集昔語」をはじめとする甲佐地域史の著述をまとめた渡邊玄察の先祖と位置づけられていた。その「拾集昔語」において早川(渡邊)氏の先祖は、もともと矢部の菅村にいたものが阿蘇氏の支配のもとで早川の地に移り住んだものと説明されていたのであった。
ところで、この墨書銘には、戦国期における早川(渡邊)氏という在地領主の存在を示す記述とともに、「大日本國西海道肥後州益城郡甘木庄早川村」という、当時の地域観を表す記載があることが注目される。すなわち、

①「大日本」=国家の領域を最大とし、

次いで②「西海道」=九州、

③「肥後州」=現在の熊本県、

④「益城郡」、

⑤甘木庄=中世初期に成立した荘園の枠組み、

そして⑥「早川村」を最小とする、戦国人の重層的な地域観を読み取ることができよう。

このうち、①~⑤は古代・中世初期から存在する要素であるが、⑥の「村」こそは、戦国期に新しく形成された地域社会の基礎的枠組みであった。それは百姓身分の家々によって構成される地縁的共同体であり、江戸時代を通じて社会の基礎単位として機能し、現在の大字単位の自治会の組織にまで継承されている、地域住民(百姓身分)の自治組織であった。

熊本県内の各地域で、こうした「村」の形成を示す歴史資料として「結衆板碑(けっしゅういたひ)」の存在が注目されている。「板碑」は墓石ではなく、個人の追善供養、あるいは生前に仏事を営んで自分の後生安楽をあらかじめ願う「逆修」のために建立された、卒塔婆ともいうべきものである。通常、表面上部に梵字や仏像を刻み、その下に建立年月日、建立の趣旨、そして建立主体の法名(戒名)などが刻まれる。
甲佐町糸田四堂崎にある阿弥陀如来像板碑を見よう。地面に据え立てられた板状の石の上部には、見事な阿弥陀如来像が刻まれている。阿弥陀信仰は極楽浄土を祈念する中世の最も庶民的な信仰の一つであったが、銘文は次のように記す。

現世安穏(五三名法名)

後生善処
    千時大永五乙酉天十月廿七日

逆修繕根

功徳主客(五三名法名)
この板碑は大永五年(一五二五)すなわち戦国時代のはじめ頃、あわせて百六名の人々によって、現世の安穏に浴し後世(来世)は善処に生まれることを願う祈りとともに、建立されたのであった。
では、右のような趣旨のもとでこの板碑を建立した主体は誰か。それは碑面に名を刻む百六名の集団であった。これらの人々は「恵珎」 「浄水」「道金」 のようにすべて二文字の法名を名乗っているが僧侶ではない。これらは逆修供養によって法名を得た人々であり、妙林のように「妙」の字が付くのは女性の法名である。したがってこれらの人々は、戦国時代の「益城郡甘木庄早川村」の百姓たちとその妻たちだとみることができる。
戦国時代という明日も知れぬ厳しい時代にあって、死後の救済を願う逆修供養の法会は、個々の百姓のレベルを超えた地域的な共同行為としてなされるべき重要性を持っていたに違いない。この板碑を造立した百姓の集団は、強い精神的結び付きを有し、現世を超えての共同体的意識さえも形成していた。それは現実の共同生活に即した意識であったろう。このように、こうした結衆板碑の出現は、その地域における百姓の共同組織である村共同体の成立を示す現象と理解することができるのである。
甲佐町域における結衆の早い例は、やはり先述の早川円福寺跡に存在する文明十年(1478)造立の六地蔵であり、銘文は摩滅が著しいが、八十四名の法名を数えることが可能である。また、四堂崎の阿弥陀如来像板碑は、現在も通称「経塚」と呼ばれている。経塚とは法会執行に際して法華経等の経文を書写して埋め、祈りを捧げた塚である。

『肥後國誌』は隣接する「養寿院」の地名の存在からみて四堂崎の中世寺院の境内ではかと推測しているが、いずれにせよ、戦国時代の早川村の川べりに、多くの地域住民が共同で法会を執行する場が形成されていたことは確実である。

早川には薬王寺や西福寺など、十四世紀から戦国期までに建立された寺院が他にもあり、戦国期の比較的早い時期の結衆板碑が現存している。矢部の阿蘇大宮司と北進する相良氏勢力との対決の最前線にあたる早川地域には、矢部からも、そして緑川下流域からも、多くの人や物資がやってきては、山と海の方角に移動していった。早川地域は、まさに戦国期の軍事と経済の結節点であった。そのように、政治的には厳しく、しかし経済的には活発な場所にこそ、江戸時代から近代にまでつながる地域住民のコミュニティが早期の形成されていったのであろう。

近世甲佐手永の会所が早川に置かれた時期があったことも、戦国期における同地域の先行的な発展と無関係ではないものと考えられるのである。

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