【現人(アラヒト)神社】

社格無く神社名を現人神社と称し下矢部村大字猿渡字闈(かこい)の里にあり祭神は猿渡離風居士なり、今本社の由来を渡邊大和守左壽の覺書古記集覧三十四渡邊家譜の條に「矢部荘猿渡城」は永正年中の頃早河正秀隠居して大宮司從二位惟豊の命により猿渡城を築く嫡子早河邦秀早河城主に任ぜらる正秀薙髪しれ離風居士を號す、此時早川熊野権現社猿渡城中に勤請して古蘇武良社と號す離風猿渡城に入城の節召具したる長(寵)臣六人佐渡大學、仝修理仝圖書佐藤内匠岩見半助(一人不明) なり、此岩見半助は離風が寵臣なるにより其寵に誇り非分の望みを発し種々奸諜を廻らし離風父子の間を不和に至らしめ若し干戈にも及ばゞ秀邦は父に敵對せし不孝の罪は遁れ難く忽滅亡に及ぶか叉阿蘇家より城地を没収せらるゝかに相違なし其時に於て秀邦が逆意を注進したる功に依り離風より恩賞に興らんと巧み遂に嫡子邦秀不孝の行ある由を離風に讒言したり。案の如く父子不和になりて干戈を交ふるに至れり、離風自ら軍勢を率いて早川城に寄らんとす早川城よりも邦秀軍勢を率て猿渡城に寄らんと互に水越に會し既に合戦に及ばんとする所に離風が家臣佐渡内匠唯一騎にて秀邦が陣地に馳せ参り事の子細を審さに申しければ遂に岩見半助が讒言せし次第明白に露見し邦秀大に後悔せしに依り内匠馳せ帰りて邦秀の私なき由を離風に告げしかば離風叉大に後悔し此上に子ながらも面目なし世上の批判も如何とて即座に切腹し摑て側にありし高さ四尺もある白石に打纏ひ座したる儘卒しける。邦秀遂に之を見て大に驚けども其甲斐なく後に父離風の靈を現人神(アラヒトノカミ)と崇祀す。此由を佐蔵内匠阿蘇大宮司に委しく言上に迨(およ)びしかば惟豊大に驚き惜み且内匠が今度の働きを感賞ありて名乗を賜はり秀兼と称すべき由を命ぜらる。彼の悪逆無道の岩見半蔵は命を以て打取らる邦秀無實の罪ながらも父離風の怒を恐れ髪を剃りて其罪を贖はんとて早川の氏を改め佐渡とす(因に云ふ、離風の家臣六人の子孫は矢部猿渡村にあり)

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