【肥後國侍本領安堵之事】   隈部軍記

天正十五年、関白秀吉公、嶋津御征伐御凱陣の刻、肥後の國侍参奉謁、武備勇烈の聞へ有輩には本領の外加増の地を賜り、國の守護職を佐々陸奥守成政に被仰付、諸國侍相良頼房ニ本領五百町、伯耆顕考ニ同五百町、城十郎太郎久基ニ同八百町、内空閑刑部太輔鎮房・同備前守鎮照ニ本領五百五拾町の外、玉名郡江田村用木村ニおいて五拾町加増、和仁勘解由親実ニ本領百五拾町、大津山修理介家稜に同三百拾弐町、辺春能登守親行ニ同百弐拾町、臼間野太郎宗郷ニ同百七拾町、隈部但馬守親永ハ本領八百町の外、川尻走潟ニおいて三拾六町加増の地を賜り、其外小代下総守・天草伊豆守・志岐林専・大矢野・高森等を初、何も本領安堵無相違賜りけり、佐々陸奥守成政ハ同六月六日入部有て隈本の城に移りけれハ、國中の諸城主登城有、釣命の趣制令す、國侍各無異儀礼を相述、斯て其後成政つく/\思案致されけるハ、当国ハ久敷守護迚(とて)もあらされハ、国中の田畑験地せしめ、今迄何町何反と云しを、何拾何石と究むへしと、其旨を沙汰致し、生駒小千と云者に竿を打せ今迄ハ三百六拾歩を以壱反と云しを、是より三百歩を一反と定む、是を生駒竿と云、然処に隈部但馬守親永、其の儀ハ本領八百町の外加増の地とも玉ハり、秀吉公御朱印をも致所持居候得は、験地の儀は御用捨可被下旨、再三雖相断、成政無承引、験地の儀は國中一統の事ニ付、隈部領迄用捨難成是非、及異議令領地没収へしと、成政の怒り大かたならすと聞、某代々の領地、秀吉公より加増の地をも玉ハりし事なれハ、何そ成政の裁配ニ預へき訳なし、外々ハ兎もあれ某の領地の儀ハ験地の儀ハ難成由を被申ける、成政安からす思けれ共、事ニよせて計るへしと内謀を廻しけるは、幸日吉太夫居合候へは、各為饗応として城中ニ能與行いたし候間、為見物御登城可有之由、廻文を出されける、各登城有へきに極ける、然るに城十郎太夫久基ハ成政か内謀の事を伝へ聞、隈部内縁の事なれハ密に親永ニ告知す、親永ハ左社(こそ)有へき迚病気を偽り出仕致さす、成政謀のならさる事を深く憤り甥の佐々与左衛門宗能を惣大将として、家人前野叉五郎忠勝・久世叉助・三田村勝左衛門ニ三百余騎を添隈府の城ニ差向る、成政曰、隈部多勢にて責かたくは急ニ詮をすへし、某出馬して討へしとぞ申ける、親永ハ兼て期したる事なれハ、兵粮・粕藁に至迄沢山ニ積貯へ、其勢千八百余騎にて楯籠る、寄手此躰を見て成政に斯と詮進す、依之七月廿六日、自六千余を率て隈府に(の斯)城ニ押寄、犬の馬場口に陣を取、城中ニ使者を遣し、御辺逆心と沙汰有てよって、其出馬せり、逆意を翻し和予於有之ハ、望ニ任せ験地も致す間鋪候間、於承引は各人質を出さるへくとぞ申遣ける、親永の返辞曰、某此節の籠城ハ、領地を験地の儀再三及断候儀、甚御立腹有之、某可有誅戮(りく、ころす)御内謀の由を承り、不得止事、及籠城候、験地の儀有赦免て事故なく、本領安堵無相違仕ニおいてハ、莫太の御恩なるへし迚、上下九人の人質をそ出されける、

【多久太和降参之事付富田安藝討死之事】
然といえへとも成政囲を解されハ、親永(隈部)ハ且恨且憤り、千悔すれとも甲斐ぞなき、此上ハ是非ニ及ハす、思ふ程戦て討死するより外なしと、老臣冨田安藝宗治・多久太和宗員・小場常陸重実を初、諸士列座ニて評議一決して、明朝城戸を開き打て出、一戦の下ニ成政と雌(めす)雄を決すへきにぞ極りける、親永曰(いわく)、此節の合戦ハ国守に対しての戦なれハ、千ニ一つも勝利を得る事堅かるへし、只今父子不和なりと雖、死を共にせすんハ、世の人口後代の恥辱たらむ、此儀心懸りなり、親安か家老有働大隅ハ冨田安藝か婿(むこ)なれハ、親き者を遣し、大隅に斯と沙汰致すへしと有けれハ、冨田安藝畏て同姓兵庫を遣しける、兵庫山鹿ニ着、有働ニ対面致、右の趣を相演る、大隅兵庫を私宅ニ止め置、親安の前ニ出、爾々の趣を相達す、親安の曰、某も斯社思へり、今父子義絶すといへとも、義によってハ止事を得されは也、子として父の討死を余所に見るの法やあるとて、返書を認め、有働ニ渡されける、有働ハ親安の返書に私の状を添、兵庫ニ渡し、大隅か曰、明朝未明に城中に浪煙を揚け打出玉ふへし、親安は玉章寺原に勢を伏せ、成政か陣の後より仕寄、前後より責戦ハ、一戦の下ニ勝事を得へしとそ申ける、兵庫ハ急き帰て返書をそ達ける、親永大に歓ひ、け様ニ割府を合たるか如くにして戦ハ、成政を討ん事掌の中に有とて、夫より先手分を定むへしと小路口より多久太和・小場常陸突て出へしと極め、各持口ニ帰り明日を遅しと待にける、式部大輔親安には陸奥守成政か方より使者を以、足下父子義絶の旨承り候、此度の合戦は隈部家を断絶せんとにはあらす、親永非儀の仁たるにより、誅戮(りく)のため出馬せり、足下父子義絶の由承届候、此度某に属し城を御責候ハヽ、隈部領無相違相渡へしと申遣しける、親安ハ願幸と心中に相歓ひ、被仰下趣承知仕候、任御差図人数可差出と返答有之、使者を被差返、其趣を父親永の方へ内通し、従弟山鹿彦次郎重安と共に佐々か陣より川を隔玉正寺原ニ陣を取、相図の時刻をぞ待にけり、爰に親永の家老多久太和宗員つく/\思案しけるハ、此度成政を討取とも、当国を領せられん事ハおもひもよらす、所詮佐々殿に降参いたし、隈部領半分にても賜り後栄を期すへしと、弟須屋源五郎を招き密談し、郎従・与力の者千五百人を引連、成政に降参す、冨田安藝此由を相達、親永ハ暫く忙然として云葉なし、良人非人の大和、先々誅戮(ちゅうりく)せさりし事の残念さよ、只今残り止る者何程か有、安藝か曰、百八十騎ニハ過不申とそ申ける、親永の曰(いわく)、嘸(さぞ)足浮て覚らん、乍去係る時節に残り止る者ハ皆金鉄の士也、一騎に千騎をも代ゆへからす、然し諸軍の心をしつむる為、何れも人質を出すへしと有けれは、冨田安藝畏候とて、宿所へ帰り妻女を質に出しける、安藝か嫡子飛騨は猶も心元なく、夜廻り致し城中を通りけるニ、母ニ行逢、何方へ越給ふやと尋けれハ、しか/\の由を答らる、飛騨か曰(いわく)、此儀ニおいては存旨候得ハ、是より御帰り有へし、某本丸へ参り相断可申と母を止メ、親永の前ニ出、父安藝に人質の儀被仰付候由、母罷上り居候処、某夜廻仕候道筋、御城内ニて行逢候故、母は宿所へ差返候、其故は、今宵人質を出し置、明日討死仕とも、冨田も多久かことく落度社有つらめとも、質を取られ是非なく討死致したりなんどゝ、人口に加らん事、尸(しかばね)の上の恥辱也、願くハ御赦免可被下と涙をうかべて願ける、親永の曰、是全く汝等か一族疑ふにあらす、城中の者共か心を定んか為也、左程におもひなハゆるすへしと有けれハ、飛騨大に歓ひ、母と共に帰り、斯と語りしかば、安藝大ニ怒りて、某壮年の昔より今老年ニ至迄、一事として君命ニ背す、忠信を戴きて私なし、然るに明日ハ討死致すへき身か、今宵に至り仰を背く事有へからすと、再ひ妻を本丸にそ遣しける、斯(かく)て安藝ハ一族を集て曰(いわく)今度の合戦ハ仮令一旦勝利を得るとも、国守に対しての軍なれハ、運を開く事有へからす、なましいに命なからへて、多久かことき二心もあらんかと人に疑れんも口惜く、所詮討死せんにしかしと一族評議相決し、翌日城戸を開き打て出る、敵方ニは多久か知らせにて城中の手配こと/\く聞へけれハ、其覚悟にて相待所、冨田か一族纔(さい、わずか)の人数といへとも、何れも必死と極め、槍を揃へ突掛り、裏へ颯とかけぬけて二段の備へに斬て入、火花散して戦ひける、敵兵数多討取といへども、寄手ハ大軍、味方ハ纔(わずか)の小勢にて一騎も不残討死す、寄手には水野六左衛門勝成、敵を討て高名す、相続きて小谷叉右衛門・松下弥兵衛も高名す、

【隈府城陥事付隈部親安敗軍之事】
夜明けれハ、成政か方より使者を以親安か陣ニ、軍評議を遂へく候条、御出可有之旨三度迄、親安は相承候刻限も相違致し、成政が使も甚急なれハ、心得がたく、何レ城中ニ変有と覚たりと末言も終らさるに、外聞の者、城中ニハ多久太和大勢を引て成政に降り、冨田一族も討死仕たる由を告来る、親永こそあらめ、此上ハ討死するより外なしと云所に、成政か使来り、早々御急御出有へしとそ申ける、親安ハ成政か使を搦(じゃく、からめる)捕り、首を切て陣頭に曝し、必死と極めて扣(こう、ひかえる)へける、城中ニハ多久降参・冨田一族が討死にて、親永も勇気衰へ、是非なく剃髪染衣の身となり、二男次郎親房を伴ひ降参せんと有けれハ、傍ニ有ける木場・神﨑・高木・岡田・村神・山崎・大塚・出田・仲光・須賀山・池部の一族百五拾八人、言葉を揃へ、こハ云甲斐なき御事哉、降参まします共、陸奥守(佐々)殿いかてか許容有へき、某十死一生の働仕らハ、たとへ寄手大軍なり共、一方ハ打破るへし、斯て親安の御陣ニ馳着申さんニ、何の堅事候へしと、親永を中に引包み、一文字ニ突て出、真地暗(まっしぐら)ニ打て掛り、鍔(がく、つば)を割、鎬(こう、しのぎ)を削、白刃に火を散し、なんなく打破り、裏へ颯(そう、さつ)と懸抜け、親安の陣に馳加る、此時三拾弐人は打死す、二郎親房ハ冨田主膳・野田蔵・宗利主水・角田河内の主従五人、高塚と云所に上り、是より親安の陣に加ハらんとする所に、多久太和か弟須屋源五郎百余人ニて追懸る、冨田・野田ハ宗利・角田ニ向ひ云けるハ、各は二郎殿の御供して急かるへし、我々ハこゝにさゝへて戦うへし迚(とても)、両人取て返し、各四尺計りの太刀を振、大勢の中に破て入、火花をちらし、死物狂ひに戦ヘハ、野田ハ近付者八人切伏る、冨田ハ七人討取れハ、須屋かなハしとやおもひけん、鞭を揚て迯(にげ)けるを、冨田追かけ馬より切て落す、大将討れ、残党全からす我先にと落行を、野田ハ声かけ、きたなし返せと競ひ掛って呼ハれども、返し合する者もなく、跡をも見すして走りける、冨田ハ須屋か首掻落し、二人静々と引退く、宗利・角田ハ二郎親房を肩に引かけ、親安陣に馳着、しか/\の由を物語りける所、冨田・野田ハ血刀をふりかたけ、須屋か首を提け来りけれハ、各驚き人間の業にはあらしと感しける、係る所に大軍鯨波を作つて押来れハ、有働大隅か曰(いわく)、斯勝ほこつたる大軍に、纔(わずか)の勢にて戦とも、勝利を得る事堅かるへし、一ト先ツ城ニ御引有て然るへしと諫(いさめ)けれ共、親安あへて承引なく、群かる敵に打てかゝり、散々にいとミ戦ふといへども、なしかはたまるへき、つゐにハ親安討負て、従兵四方に落乱す、親安の家臣山鹿四郎と云者、成政か家人鈴木彦市と引組て彦市を取て押へ、己に首をかゝんとする所を、鈴木が下人折重て山鹿か首を取にけり、有働は数ヶ所疵(きず)を被るといへとも親永の側を放れす、馬の頭を引返し一先ツ城村の城にかへり玉へと諫けれ共、親安承引なく是非に討死せんと鞭を打て進みけるを、有働はたと白眼(にら)み、馳引を知らさるを良将とハ不申、軍の勝負ハ時の運にて候得ば、爰を軽々と引取城村の城に楯篭り防き戦うものならハ、多勢にて責るとも輙(ちょう、すなわち)くハ落へからす、日を重、月を越して戦ものならハ、其内にハ味方の勢も出来候ハん、はや/\爰を引せ玉へと諫をなし、死残たる者共ハ跡より続へしと呼ハり/\山鹿をさして引返す、成政ハおもひのまゝに勝利を得、隈府の城には城番を置、七月十八日帰陣し、隈本の城に篭置たる所の人質を悉く追出す、其中ニ冨田安藝か末子棒千代とて十歳に成けるを、したしき者見逢て、安藝か妻山本に隠れ居けるに遣しけれハ、斜ならす歓ひ暫の程は忍ひ居けるか、行末いかなる憂目をやんと安き心もなけれハ、せめては桑門の身ともなし親兄弟・其外一門の菩提をも弔せはやと、玉名郡西安寺に連行、寄方なき孤にて候へは出家の身とも成し一門の菩提を弔せ度存候旨、宜敷御世話被下かしと涙を押へ懇にぞ頼ミける、和尚も涙を流し、某とても其古ヘハ同道より出し身なれハ人の上とも思ハれす、必こゝろに懸け玉ふな、某いたわり参らすへしと、情も厚き言の葉に、母は嬉しく、いとゝ涙にむせひつゝ、いとま申て帰りける、

【隈部親安城村の楯籠事付合戦之事】
隈部式部太輔親安は混引に引て山鹿城村の城に楯籠る、其人数男女壱万五千人内(男八千余人、女七千余人、内侍ハ八百余人なり)鉄炮八百三拾挺内(七百参拾挺ハ方々ノ持口、百挺は浮武者に付)、大手の大将は山鹿彦次郎重安、搦手ハ有働の一族有働志摩・同甲斐・同玄蕃・同掃部・同大膳・同左京・仲光五郎・山崎三郎、鉄炮八拾挺・弓百張、追手原口ヲ固めけり、同能登・同将監・筒間土佐・出田弥太郎・岡田三郎兵衛、鉄炮七拾挺・弓五拾張、保柳口には隈部次郎親房を大将として、有働伯耆・高浜武蔵・進ノ惣兵衛・木原紹宅・冨田主膳・野田蔵人・宗利主水・角田河内・松尾源三郎・木原次郎・須賀山七郎、鉄炮百挺・弓七拾張、尾口にハ有働駿河・同蔵人・村神軍次・高木万力、鉄砲六拾挺・弓三拾張、出丸妙見口ニハ北里与三兵衛・常陸入道万鉄・千葉新助・有働左助・同帯刀、鉄炮百五拾挺・弓百張、円通寺口には隈部五郎兵衛・大塚平次・関部玄蕃・木済少二郎・上科備後・関佐渡・同隼人・池部弥三郎、鉄炮百弐拾挺・弓五十張、浮武者頭有働孫市・同又七・糸木宮内、鉄炮百挺・弓百張・鎗百筋、惣物頭有働大隅兼元也、同八月七日佐々成政城村に發向し、日輪寺の上の山に斥(せき、しりぞける)候を上け、城の躰を見せ、大手原口より古閑の谷境ニ足軽大将を出し鉄炮せり合有所に、城村の足軽大勢打出候、是を見て成政の足軽大将相掛りに駈合、追手原口の門より半丁程近付ける、有働左京・糸木宮内・小場二郎三十余人切て出て追返す、同十三日佐々か兵原口に攻懸、保柳口・円通寺口ニ押寄せたり、保柳口には数刻攻戦ひ相引にす、円通寺口ニハ佐々右馬頭を大将として、大軍押寄、関を作懸々曳々声を出して攻立る、味方も爰を専途と防戦といへども、ついには責破られ引色に成りける所に、大将親安鎗提け突て出れハ、持口の軍士立直し戦ふ半に、浮武者頭有働孫市・同叉七・糸木宮内、尾崎より横合に懸り、際纔(わずか)ニ五、六間に成りし時、矢一筋・鉄炮一挺放すとそ見へし、鎗を揃へて突かゝる、寄手こらへ兼敗北す、右馬頭惣勢に後れ引けるを、隈部五郎兵衛か家人追懸けれは、右馬頭取て返し突伏せける、有働孫市・糸木宮内ハ遁(のがれる、とん)すましと追懸候、右馬頭ハ石原渕にて追詰られ、引へき所なく岩の上より飛けるを、二人も続て飛下り、孫市、右馬頭を押伏せ、首をは宮内取にける、岩地蔵口ハ城第一の節所なれハ、はか/\しき兵もなく、防くへき方便もなき所に、成政か兵三百余騎にて押寄、責登り、己ニ危く見へける所に、円通寺の住僧は世に聞へし強勇にて、寄手大勢を物の数とも思ハす駈廻り/\坂を追下、岩の上より打落し、十死に一生の働に寄手もあへて近付得す、木原籐兵衛ハ兼て聞へし強弓の矢継はやなれハ、下り挙に散々ニ射る、有働孫市・糸木宮内、岩地蔵口難儀なりと聞、敵の後陣より打て懸り、火花を散し責立れハ、流石の大軍なれ共我先ニと敗北す、成政か物頭赤沢左近・高木左エ門取て返し働きけるを、有働叉七郎鎗を合せ、二人共に突伏ける、親安か近習中原修理・河井権助・牧野主殿ハ群に抜て働ける、中原は城下の川中ニて太刀打しけるか、刀鐔(つば)元より打折けれハ、透さす敵を引組、水中ニて取て押へ、首掻き切て立上る、牧野主殿も川中にて戦ひ、敵を組伏首を取、川井権助は能き武者三人、馬上より切て落す、其外敵を討取者勝て記しかたし、同十三日、敵円通寺口より押寄、鯨波を吐と上る、城中よりも鯨波を合せ、互ニ矢合初り、夫より味方も城戸を開ひて打て出る、味方陣中より木場太郎左衛門の名乗打てれハ、敵方よりも水野六左衛門と名乗切て出、互ニ秘術を尽し戦しか、ついに水野、木場を切伏せ首を取、是を見て城中より三人切て出、水野を中に取込戦ひけれ共、勝成屑共せす、三人共ニ弓手馬手ニ切伏せ、暫(しば)し息つき居たりける、勝成に続て動家次右衛門・鈴木小左ェ門・浅井喜太郎・鬼田将監・原半左ェ門各敵を射て首を得たり、山田庄太夫ハ劣るまし進ミ出しか、城中より打出す鉄炮にて眉間を射れ、二言共なく馬より逆さまに落て死にけり、

佐々成政附城を構事
係る所に隈本より、國侍一揆せしめ城を囲み攻る事甚
右隈部軍記残欠謄写之、後人得全本て可補者也、

【城村守戦記(一名山鹿郡城村ノ城籠城ノ次第并前後ノ覚書)】
一、肥後ノ屋形菊池殿数代過、大永ノ比ノ菊池殿御名乗ヲ義武ト申候(重治叉ハ義宗ト申候モ同比義武公ノ御事ト承候)、然ニ義武ニ男子無之故、豊後の屋形大友ノ御子息ヲ、菊池殿養子婿ニナサレ、肥後國ヲ御渡ナサレタルト申候、則其養子婿を後ニ宇吟(マサ)ト申由、宗吟ノ御子息犬房殿十三ノ時、右ノ宗吟ノ調略ヲ以、豊後(義監)ヨリ亡シ申由ニ御座候、就夫田島宗以ト申者、犬房殿ヲ取立、一戦可仕トノ企被仕候ヘトモ、肥後ノ侍衆心々ニ成リ、評定不相済ニ付、田島・鹿子木右ノ犬房殿ヲ伴候テ、肥前高木へ退被申由ニ御座候、左候テ肥後ノ國一片ニ大友家ニ従ヒ申ニ付、豊後ヨリ為目代小原宗意ト申人ヲ、南関ヘヲカレ候由ニ御座候事、
 

一、右ノ通ニ御座候テ後、肥後・筑後・筑前何モ豊後ノ手ニ入申候、サテ小原宗意於肥後國逆意ノ由、大友殿御聞及、肥後ニ國侍ニ被仰付、永禄元年ニ宗意ヲ南関ニテ討果、其跡ニ大津山河内守ト申人ヲオカレ候、筑後ニハ豊饒明貫ト申人、筑前立花ノ城ニハ戸次道雪、コウシカ嶽ノ城ニハ臼杵親助、同岩屋ノ城ニハ高橋紹雲、如此豊後ヨリ支配候テ、被召置由ニ候事、

一、天正三年豊後衆二万五千ニテ日向へカケ、根城原ニテ薩广衆ト一戦候由、薩广方ノ大将嶋津中務・新納武蔵・梅北宮内左ェ門雑兵三千ニテ一戦仕、豊後方以ノ外ナル大負ニテ、柳川ノ城主蒲池宗雪・臼杵新助ナト討死、侍過半耳川ニテ討レ申由ニ御座候事(コノ時ヨリ豊後大友武威ヲ失フ、大将大勢討シニス)

一、同四年に肥前竜造寺隆信ヨリ筑後柳川へ手入仕、蒲池重ナミ(並)味方ノ約束ニテ、重ナミ伯父蒲池左衛門太夫ヲ肥前ヘ呼、金子大分左馬太夫ニ与ヘ、其後重ナミヲ肥前ヘ呼寄、タシヌキ重ナミヲ討果申由、其砌左馬太夫ニハ隆信ヨリノカマヒ無ク候ヘトモ、甥ノ重ナミヲ如此ナシ、世上ノ外聞不可然由ニテ、左馬太夫モ切腹仕候、其砌肥前ヨリ蒲池跡ニ人数ヲ出シ候ニ付、重ナミノ息(ムスコ宗虎)・宗虎ニ父方ノ伯父宗安・母方ノ伯父宗晴、塩塚ト申処下城被仕柳川ノ城明渡サレ候ヲ、筑後ノ國侍田尻晴種ト申者ニ申付、右三人ヲ討セ候由ニ御座候、左候テ筑後一片ニ肥前ノ手ニ入申候事、

一、同五年カト覚申候由、隈部但馬守方ヨリ、有働外記ト申者ヲ肥前ヘ遣シ、御人数ヲ出サレ候ヘ、肥後ノ手引可仕申コサルニ付、竜造寺ヨリ江上家種・後藤家信・多久中務三将ニテ、侍ニハ犬塚・馬場ナト都合五千ニテ、七月晦日ニ山鹿へ著(着歟)、翌日八月朔日ニ、菊池郡ノ領守赤星道半家頼星子中務ト申者、長坂へ居住仕ニ付、右肥前ノ人数湯町ノ東ノ原孖塚(ふたごつか)ヘ上リ星子カ城ヲ一見被仕候処ニ、合志近為、赤星ヲ助ケ、長坂ノ城後詰ノ為、オク長ト申縄手ヘ雑兵二千程ニテ、八月朔日巳ノ上刻参申候、是ヲ肥前衆見テ則時ニ孖塚ヨリ引ヲロシ、中村瀬ヲ渡リ長坂ノ内堀田ト申村脇ヘ陣取、合志近為ヲ大将ニテ同ク道覚・明存・一専三人近為ヲヂ也、雑兵二千白金ノ村脇ヘ二町程間ヲ置(陣)ヲ取居申候、左候テ鉄炮取合最中ニテ御座候処ニ、山鹿彦次郎重安ヲ大将ニテ、有働一家千五百ニテ横合ニ鎗ヲ入申候時、肥前衆惣懸ニ仕防戦候処ニ本大将近為ノ陣早ク崩申候、道覚・明存・一専三人ハ討死被仕由ニ候、左候テ其翌日星子ノ城ヲ明退申候ニ付、其跡ヲ有働ニ渡シ、肥前衆ハ肥前ヘ引取ラレ候事、

一、左候テ其翌年、竜造寺政家雑兵二万ノ由、四月八日ニ菊池ノ赤星居城ヘ取カケ、先足軽セリ合御座候得共、赤星ハ小勢故城ヲ持候事不成ニ付、アツカヒニ成、赤星道半息近高下城被仕、合志ノ城竹廻(迫)ヘ退申サレ候、近高弟ニ三郎家頼佐野・方川両ヲトナノ人質ヲ肥前ヘ取、跡ノ城ヲ隈部但馬守ニ渡シ、肥前衆ハ引取申サレ候、左候テ其八月ニ叉肥前衆参、合志近為ニ城ヘ取ツメ候ヘトモ、中々城強キニ付、肥前衆ハ引取申候事、

一、其後、中二年有テ、肥前衆高来ヘカケ申ニ付、有馬修理殿ヨリ薩广ヲ御頼被成、島津中務新納ヲ入、四月六日ニ肥前衆ト薩广衆ト防戦仕リ、薩广方得勝利、隆信ヲ討取由、其時肥前衆雑兵四千三百六十人討死仕由テ御座候、

一、同十二月ニ、薩广ヨリ新納武蔵・梅北宮内左ェ門両大将ニテ、球广ノ相良ヲ先トシテ宇土ヘ取懸、矢﨑ノ城ヲ攻崩シ、阿蘇殿内中村伯耆ヲ討取、其キホヒヲ以テ隈庄衆ト一戦仕リ、薩广方得勝利、即隈庄ノ味方ニ仕、引取申候由ニ御座候事、

一、右ノ道ニテ肥後國三ツニ成、豊後方・薩广方・肥前方心心ニ御座候テ、国中ノ小セリ合無隙由、其砌隈部式部太夫ハ城ノ婿故チト肥前ヘ背被申躰ニテ、親父親長ト不和ニ成、親長ハ鵠(こく、くぐい)ノ巣ノ城、親安ハ城ノ城ニ御座候事、

一、天正十四年九月二日ニ嶋津殿豊後入ノ日取ニテ、修理太夫殿ハ日向口、新納武蔵ハ肥後ヨリ豊後浪野原ヘ出、先初手ニ朽網ノ城ヲ責落シ、諸方ノ小城不残攻崩、岡ノ城ニハ志賀、臼杵ノ城ニハ宗麟、庄内ノ城ニハ義統被成御座候、一城計残申由、就夫大友殿ヨリ関白様ヘ其段被仰上候得ハ、千石権兵衛殿・長曾我部殿御下候テ後、光川ニテ一戦候処ニ、豊後衆・上方衆大負ニテ、嶋津得勝利申ニ付、其翌年天正十五年四月三日ニ、大関(閤歟)様当国南関ニ御着陣被成候、則肥後國侍何モ御礼申上ル、夫ヨリ高瀬通ニ薩广御馬入、島津ニ降参被仰付、五月廿三日ニ宇土迄御引取被成、其日熊本へ肥後ノ國侍不残被召寄、其中ニテ宇土ヘ本地五百町、隈部ヘ本地八百町、此三人ハ直ノ御朱印被下、当国ノ守護ニハ殿ヲ被召置、御被成候事、

一、天正十五年七月朔日ノ御礼ニ、隈部但馬守鎮(親)永、熊本ヘ出府被仕候砌、陸奥守被仰候ハ、隈部持分八百町ノ御朱印ニテ候ノ条、御検地ヲ被入、御渡可被成由被仰候ヲ、隈部色々御理申サレ候得トモ、陸奥守殿御同心無之ニ付、隈部申サレ候ハ、菊池・山鹿・山本三郡ニテ八百町ハ、先知ノ通ニ秀吉公ヨリ被為拜領候、然所ヲ当国ノ侍数多有之中ニ、隈部領分計検地ヲ被仰付候段ハ、外聞是非ニ不及ニ条成マシキ由、居城菊池ノ内隈部ヘ引篭被申ニ付、陸奥守殿七月廿四日ニ夜、六千程ノ人数ニテ隈府ヘ御馬ヲ被出候、其砌隈部但馬守ト嫡子隈部式部太夫鎮(親)安ハ親子不和ニ成、鎮安ハ山鹿郡城村ノ城ニ被篭居候、就夫陸奥守殿ヨリ鎮安ヘ被仰遣候ハ、元来其方親子不和ノ儀、被聞召及候、惣テ隈部ハ國侍ノ内ニテ別テ故有家ニ候条、家ヲタヲシ被成ハスニテ無御座候、鎮永不所存故、隈府ノ城ヲ破却ナサレ候、跡式ノ儀ハ無相違其方へ可被遣候間、早々城村ヨリモ人数ヲ出シ候得ト被仰遣由ニ御座候、夫ニ就式部太輔色々ニ相談ノ刻、有働大隅ト申者申候ハ、此儀ニ到テ脇ヨリ兎角ヲ不被申上候、其子細ハ、陸奥守殿ニ対シ逆心被成候テ、御家相続可申儀ハ千ニ一ツモ無御座候、叉陸奥守殿ト御一味候ヘハ、現在ノ御親父ニ弓ヲ御引被成候、コノ両条ハ何ノ道ニモ御分別ノ趣所ニ御究被成候ヘト申時、鎮安被仰候ハ、時ニ従ヒ儀ニヨッテ、侍ノ身命ヲ捨テ家ヲ破申事、古今不珍候、如何ニ儀絶タリ共、現在ノ親ヲ討果候ハ、天下ノ人口ニ落悪名ヲ可豪候、然ハ今度ハ日来ノ意趣ヲ捨、親(鎮)永ト一味仕、討死可被成由被仰候ニ付、何モ尤ト一同仕、コノ上ハ陸奥守殿ニ対シ手立可然由ニテ、陸奥守殿ヘハ、御意畏リ奉存候、御日限ヲ承リ、直ニ隈府ヘ人数ヲ出シ可申トノ返事ヲ被仕、サテ其内内意ヲ但馬守殿ヘ被申合、陸奥守殿隈府ノ城ヲ御攻被成候時節、式部太輔裏切ヲ被仕、叉城中ヨリモ打出申談合ニ相究候処ニ、但馬守一家老多久大和ト申者別心仕、陸奥守殿ヘ右ノ首尾ヲ一々致言上、剰(じょう、あまり)ヘ城ヲ御攻候ハ、城中ニテ裏切可仕由約束仕候、就夫同年七月廿六日ニ隈府へ御出陣被成候、尤式部太輔モ其日隈府ヘ人数ヲ被出、陸奥守殿ハ犬ノ馬場口ヘ御向被成候、式部太輔ハ城村ヨリ直ニ、玉正寺原ト申候テ、陸奥守殿御陣所ヨリ川ヲ隔節所ヲ構陣ヲ取被申由ニ御座候、其時陸奥守殿ヨリ評定可被成候間、コナタヘ御越候ヘト使三度参候由ニ御座候、其使ノ様躰事悪有之故、式部太輔被申候ハ、如何様内々ノ儀陸奥守殿ヘ相知レタル者ト見エ申候、然所ニ叉重テ使参候ヲ、則討果シ申候、其様子ヲ多久大和承リ、人数千五百程ニテ大手ヲ堅メ居申候ガ、其儘引破リ、陸奥守殿御人数ニ加リ、早大手ヨリ責入申候ヲ、冨田安藝ト申家老、突テ出討死仕候由、如此候ヘバ但馬守城ニ難堪(たえる、かん、たん)、法躰被仕候テ、陸奥守殿ニ降参被仕由ニ候、其刻式部太輔、陸奥守殿ト一戦可有ト被申候ヲ、何モ侍共申候ハ、如斯(かくのごとく)勝ニ乗申大勢ニ、コナタノ小勢ニテ、然モ節所ヲ越懸候共、千ニ一ツモ勝利御座有間敷候、唯是ヨリ城村ヘ引取篭城仕候ハ、定テ陸奥守殿御馬向可被申候、其時節所ニ引請一戦可仕候ト、一同ニ申ニ付、式部太輔モ同心ニテ、城村ニ引取被申候、其後陸奥守殿隈府ノ城御仕置被仰付、隈府御帰陣候テ、八月七日ニ城村ノ城ヘ御馬向、先日日輪寺山上ニ物見ヲ上ケ城ノ躰御見繕候テ、大手原口ヘ御人数押寄、足軽セリ合有之時、城中ヨリモ、大手ヨリ五、六町南下古閑ノ谷ヲサカヒ足軽ヲ出シ、鉄炮ニテ互ニセリ合有ノ処ニ、城内ノ足軽ノ内ヨリカヽリ申処ヲ、陸奥守先手ノ足軽大将相カヽリニ掛リ、城中ノ足軽ヲ追手原口モンヨリ半町程近ク迄ニ乗掛リ申処ニ、有働左京・糸木宮内・同小万ハ返シ合セ、右ノ足軽大将ヲ追返シ、其日ハ勝負モ不決、互ニ死人モ無之由、

一、同十三日、陸奥守殿惣人数、大手原口・保柳口・円通寺口・岩地蔵口、其外諸方一同ニ攻申候、然トモ原口・保柳口ハ弓・鉄炮ノセリ合迄ニテ、互ニ鎗ハ無御座、円通寺口ヨリ佐々右馬頭大将ニテ谷ノ越段々畠ヲ二ダンマテ攻上リ、城内ノ衆ヲ追立、ハゲシク攻入申ニ付、城内防兼、及難儀ニ申刻、本大将隈部式部太輔鎮安、自身鎗ヲ持テ懸リ被申候、就夫持口ノ惣人数何モ立置シ致防戦、勝負未究処ニ、浮武者ノ頭有働孫市・同叉七鉄炮百挺・弓百張・鎗六十都合三百ニテ、堀ノ内尾筋ヨリ横相ニ掛リ、敵相五、六間程ニテ鉄炮モ一放、矢モ一筋、究射サセテ、弓・鉄炮ヲ捨、刀ヲ抜キ、鎗脇ヲ詰、切掛リ突立サセ候ニ付、寄手敗軍仕リ谷ヘ下リ引取申由ニ候、

一、其砌、大将佐々右馬頭人数ヨリ二十間程跡ニ退キ被申処ヲ、隈部五郎兵衛被管一人シタヒ参候ヲ、右馬頭返シ合、鎗ニテ突倒シ被申候由、因茲弥惣人数ニ引オクレ被申候ヲ、有働帯刀・糸木宮内両人付慕、石原渕ノ上ニテ追付申故、右馬頭引兼、岩ノ上ヨリ下ヘ飛申サレ候、右ノ両人続テ飛、其儘押ヘ、右馬頭クヒヲ宮内取申由ニ御座候事、

一、岩地蔵口ハ城中第一ノ節所故、城内ヨリ防キ申手当聊(いささか、りょう)無御座候処ニ、隈陸奥守殿近習ノ侍三百程ニテ押寄セ、岩ノ切通ニ透間モナク攻入申候ヲ、円通寺ノ住持ノ僧、鎗ニテ切通ニサヽヘ防申内ニ、城中ヨリ木原籐兵衛ト申者、弓ニテハケシク射申由、シカル処ニ鎮安近習ノ侍衆掛ケ付コミ出シ防戦仕候処ニ、右浮武者ノ大将有働孫市・同叉七、右馬頭カ攻口ヲ追払、直ニ岩地蔵口ヘ参、突カヽリ申ニ付、寄手叉敗軍仕、寄手ノ物頭赤沢右近・高木左門両人、其場ニテ討死被仕候、高木ヲハ有働叉七討取申由并鎮安近習ノ侍中原修理ト申者、城下ノ川ニテ太刀打仕、刀ノウツバ本二尺計上ヨリ打折リ、其儘仕込、相手ヲ打取、高名仕由并右同鎮安近習ノ侍牧野主殿ト申者、古川ノ河ノ中ニテ組打ニ高名仕候、同城中ノ侍河井権助ト申者長刀ニテ能ク働、侍二人討取、高名仕由ニ御座候事、

一、右ノ通ニテ両口ノ寄手敗北故、諸方ノ寄手衆、何モ引取申由ニ御座候、

【城村ノ城中ニ篭中人数之事】
一、男女一万五千余
   内
    男八千余   女童七千余

一、侍数八百余

一、鉄炮八百三拾挺
      内
      七百参拾挺ハ方々持口手  百挺ハ浮武者ニ付

一、弓五百五張
      内
   四百五張ハ持口方々ノ手当  百張ハ浮武者ニ付

一、本大将隈部式部太輔鎮安

一、大手大将山鹿彦次郎重安
      同原口ヲ堅ル侍ノ覚
    有働志磨  同甲斐  同玄蕃
    同掃部   同大膳  同左京
    鉄炮百八拾挺  弓百張
          同所西之升形
    有働越前  同能登
    鉄炮七拾挺  弓五拾張
       保柳口
    有働伯耆   部原紹宅
    鉄炮百五拾挺  弓七拾張
       船尾口
    有働駿河   同蔵人
    鉄炮六拾挺  弓三拾五張
       出丸妙見口
    有働左助   同帯刀
    鉄炮百五拾挺  弓百張
       円通寺口
    隈部五郎兵衛  関部玄蕃
    関隼人     同佐渡
    小澤少鑑    上科備後
    鉄炮百二拾挺  弓五拾張
       浮武者頭
    有働孫市    同叉七
    鉄炮百挺    弓百張  鎗百本
    惣物頭     有働大隅守兼元

一、佐々陸奥守殿城村ヘ御出陣ノ跡ニテ、阿蘇衆・隈庄衆・三船衆・相良衆、各逆心ニテ隈本ノ城ヘ押寄攻申由、隈本ヨリ註進有之ニ付、陸奥守殿一家佐々与左ェ門ト申人ヲ、隈本ノ後詰ノタメニ御返被成候処ニ、隈部鎮安ノ旗下、殊ニ妹婿内空閑重(鎮)房、山本郡内村ノ城ニ被居候ニ付、今籐ト申処ニ出合、佐々与左ェ門ヲ討取申由、其註進叉陸奥守殿ニ申参ニ付、城村ニ付城ヲ御取被成、十四日ノ夜マテニ東西ノ付城御仕舞、両城ニ人数ヲ被残置候人数ノ覚、

一、西ノ付城ニ篭申衆
    御田村正左衛門     才田伝ェ門
    小嶋正蔵        石田源助
    大木弥助  人数百八拾

一、東ノ付城ニ篭リ申衆
  前野叉五郎       瀧三位
  多田親兵衛 人数百七拾 杉山小佐   

一、右両付城ニ人数三百五拾程被篭置、十五日ノ未明ニ隈本ニ御帰陣候テ一揆勢ヲ追払、無別儀御入城ノ由、

一、右ノ通ニテ、陸奥守殿ヨリ城村ノ付城ニ御手仕ヒ被成候儀不成ニ付、立花殿ヘ被仰遣候ヘハ、立花左近将鑑殿御舎弟三池宗益三千ニテ、十月九日ニ付城ヘ兵粮御篭候、其時ノ被成様、先手ノ足軽本城ノ大手原口ニ押懸、鉄炮セリ合仕候内ニ、騎馬ノ侍衆乗馬ニ兵粮少宛付ケ候テ、両付城ニ乗別、粮米ヲ内ニ投入、御引取被成候ニ、大手原口ノ大将衆七人人数七百程ニテ跡ヲシタヒ申候、叉保柳口ヨリ人数八百程クリ出シ、小群ノ村脇ヨリ永野原ノ道ヲ取切可申タメ参候、然共柳川衆早ク引取申ニ付、永野原ニ廻リ申候衆モ一度ニ永野原ニ出相、何モ追カケ一戦可仕ト評判仕申候処ニ、有働左京申候ハ、此方ノ歩武者僅二千五百程ニテ、騎馬三千ノ処ニ無理ニ掛リ申候、勝利有間敷候、足軽ヲ遣シ稠(ちゅう、ちょう、しげる)敷鉄炮ヲ打掛ケサセ候ハ、多分立花殿衆返シテ追払申候、其時下ノ谷ヘ敵ヲ引オロシ、上ヨリ落カケ一戦可仕ト申候ヲ、有働志摩申候ハ、若足軽計ヲ遣シ候時、柳川衆カマイナク引取候ハ、何ト申候テ本城ニ帰リ可申乎不知、志广ニオヒテハ懸リ可申ト申候テ、マツ下リニカケ落カヽリ申ニ付、何モ一同ニカヽリ、柳川衆跡勢ニ大形クヒ付申刻、立花殿三千ノ人数一ツニ丸メ、大返シテ谷ヘオトシカケ被成ニ付、城村ヨリ慕参候歴々ソコニテ討レ、其外ハ敗軍仕候故、柳川衆ハ得勝利、無相違御引取被成候由ニ御座候、

一、其後肥後国不治ノ処ニ、安国寺(恵瓊)、天正十五年十二月二日ニ被罷下、アツカヒニ成、同十五日ニ済候テ何モ下城被仕、人質ヲ御取、有働一門・隈部一門・筑後柳川ヘ明ル五月マテ被召置、同月廿七日ニ隈部親永ト二男ノ親房ニ切腹被仰付候、左候テ親安・重安・有働大隅・甲斐能登・志摩・北里与三兵衛、此分ハ小倉迄被召寄、小倉ニテ何モ切腹被仰付候事、

一、当国城ニ生駒雅楽殿、菊池ニ蜂須賀阿波守殿、内牧ニ毛利壱岐守殿、三船ニ黒田官兵衛殿、隈本ニ浅野弾正殿、宇土ニ加藤虎之助、八代ニ福島左ェ門殿御下リ被成、一片ニ治リ申由也、
右ハ  眞源院様御在世ノ内、城村ノ城
御高覧被遊候砌、右篭城仕候老人共被召出、様子 御尋被成候、其時右ノ年寄共ニ我等相尋、口上ヲ承、書置申候也、
 右ハ宗像文治ヨリ借用令享保十四年己酉九月十五日ヨリ同廿八日マテニ仕舞申者也、
                                            堀内盛成(花押影)
  于時文政五壬午年正月十一日謄写畢
                                                  大石真麿

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